03 黄金の魔術師

 セーレ公爵家は魔術師の家系である。

 貴族であるが領地を持たず、王都の北端に位置する城塞(じょうさい)を所有し、ここに住んでいる。

 セーレの魔術師たちは、四方を堅牢な城壁に囲まれた城塞の中で、常時休むことなく『守護結界』を維持し続ける。
 それが、セーレ家の至高の使命にして、王族に次ぐ権威を持つに至った理由であった。

『守護結界』は国境防衛の要(かなめ)だ。
 つまりは、王国最大の護りの力である。

 セーレの魔術師たちが、魔力と叡智を結集させて創造する『守護結界』は、王国全土の空をあまねく覆う。
 国境に、不可視のカーテンを引く。

 このカーテンは、他国の進軍や間諜が忍び込むことを許さない。
 のみならず、凶悪な魔獣どもの侵入をも完璧に防ぐものである。

『守護結界』が完成して以後三百年、王国が外敵からの脅威にさらされたことはただの一度もない。

 だからこそ、王国は大陸一の富と繁栄を謳歌することができている。

『守護結界』の中心は、セーレの住まう城塞だ。
 この城塞を人々はいつからか、敬意を込めて『結び目の城塞』と呼ぶようになった。

 そして、セーレの魔術師たちを、彼らが操る雷魔術にちなみ『黄金の魔術師』と呼んだ。

 現在『黄金の魔術師』の称号を冠するのは、セーレ家の三兄弟である。

 彼らの筆頭は若き当主、齢二十五を数えるカストル・セーレ公爵だ。

「おまえであれば、商人らがエルサの話をし始めた時点で、奴らの薄汚い口を塞ぐことができただろう!」

 場所は城塞の本館三階、当主の書斎である。

 立ち昇る怒りを抑えもせずに、カストルは執務机に書類を叩きつけた。
 細く長い彼の指から、微細な稲妻がピリピリと発生する。

 弟のロキよりも数センチほど背が高い。
 均整の取れた細身の体には、金の刺繍がなされた黒いローブを纏っている。

 整った面差しにはやや神経質なきらいが見て取れる。
 八歳のときに両親を亡くして以降、セーレ家の当主として『守護結界』を常に維持し、『結び目の城塞』と弟妹たちを守ってきた経緯が、常人よりも注意深く、そして警戒心の強い青年に彼を育て上げたのかもしれなかった。

 繊細な美貌を怒りに染める長兄を見やりながら、しかしロキはのんびりとあくびをする。

「朝から元気だね、カストル兄さん。
 僕は早起きをしてしまったから、眠たくて仕方がないよ」

「兄の話は真面目に聞け。
 いいか、同じようなことが今後起こった場合は、意味のある言葉を下賤どもが発する前に、全身を鼠に変えてしまえ。
 エルサを傷つけるような言葉を、エルサに一言たりとも聞かせるな」

「僕はエルサを可愛がるけれど、甘やかすつもりはないよ」

 弟の言葉に、カストルは柳眉を寄せる。

「僕は待っていたんだ。
 エルサが商人たちの前に出て、毅然とした態度で抗議することを。
 けれど、いつまで経っても木の陰に隠れたまま、あの子は動こうとしなかった」

「エルサには、城塞外の者と口をきくのを禁止している。
 あの子は僕の言いつけを守っただけだ」

「僕の考え方はそうじゃない」

 ロキは笑った。語調はやわらかい。

「ねえ兄さん。
 心ない言葉に対するには、返す刃が必要だろう?
 でないと斬られっぱなしにされて、血まみれになって、あの子はいつか、『棺(ひつぎ)』の中で眠る羽目に陥ってしまうよ」

「冗談でもそのようなことを口にするんじゃない」

 書類を握り込んで、カストルは唸るように言う。

「二度と言うな」

「おっと」

 カストルの感情に揺さぶられ、空気が帯電して、花瓶に生けられた花の花弁を傷つけた。
 カストルは声を絞り出す。

「国民どもが身勝手な期待をエルサに掛け、あの子に魔力がないとわかった途端にてのひらを返し、出来損ないだと嘲笑し、根も葉もない下劣な噂をも流してエルサをどれほど傷つけてきたか。
 僕は、先代の愚王がエルサに放ったあの暴言を、未来永劫忘れないだろう」

「あれは酷かったね。
 彼が崩御したとき、国葬にすら僕らは参列しなかったくらいだ。
 ああ、でも、跡を継いだ現国王は悪くない。
 いい意味で国王らしくない、面白い男だと思うよ」

「僕は嫌いだ。
 アレスは――現国王は、腹の底を決して見せない奴だからな。
 いつなにをしでかすかわかったものじゃない」

 カストルにかかれば、「家族と古い使用人以外は皆嫌い」ということになる。
 この兄は、国民と先代国王がよってたかって妹を出来損ない扱いしたせいで、すっかり人間嫌いになってしまったのだ。

 カストルは告げた。

「エルサは父と母の忘れ形見だ。僕らの可愛い妹だ。
 あの子を背に庇い守ることは、兄である僕たちのやるべきもっとも大切なことのひとつだ」

「カストル兄さんのその想いが、エルサの勇気にきっとなっているよ」

 敬意を込めた笑みを、ロキは浮かべた。


 天蓋の支柱に頭をもたせて、エルサは暖炉の火をぼうっと眺めた。

 火を焚いていても、冬の夜は肌寒い。

 羽織っているガウンは上等な新品だった。
 カストルが注文して、今朝の荷馬車で届けられた品(しな)だ。

 兄の真心を、エルサは拒めない。
 エルサは目を閉じ、そっと開いた。
 気後れや罪悪感よりも、いまは感謝と幸福を感じよう。

 それが、兄が与えてくれる愛情への、精一杯の返し方になればいいと願った。

 脱いだガウンを丁寧に畳んで、棚に置く。
 布団に入って目を閉じたとき、奇妙な鳴き声が足元から上がった。

 エルサは目を開いてまばたきをする。
 奇妙な鳴き声が、ふたたび聞こえてきた。

「ケロケロケロ」

「けろけろけろ……?」

 聞き馴染みのある鳴き声だ。正体はすぐに推察できた。
 これはカエルに違いない。

 エルサは起き上がり、布団をめくった。

 案の定、一匹のヒキガエルがシーツの上にちょこんと座っていた。
 でっぷりと太ったカエルで、肉がたるんで平べったい。

 お世辞にも美しいとは言えない形状の生き物だったが、どことなく愛嬌がある。
 丸い目を開いて、カエルはエルサをじっと見ている。

「あなた、どこから入ってきたの?」

 城塞は森を切り開いた場所に建っているので、こういった生き物の出現には慣れている。
 しかし、ベッドに侵入されたのは初めての経験だ。

 てのひらほどある大きなカエルを、エルサは両手を差し伸べて持ち上げた。

 カエルは大人しく、されるがままになっている。
 皮膚は黄土色で、イボがたくさんあり、ひんやりと潤っている。

「庭に出してあげるね。
 もうすぐ雪になるそうだから、早めに冬眠したほうがいいわよ」

 ネグリジェの胸に抱いて、エルサはベッドを降りた。

 ここは三階なので、カエルを窓から放るわけにはいかない。
 エルサは、マントルピースにある手燭(てしょく)を取ろうと歩み出した。

 そのとき、思いもよらないことが起こった。

「ちょっと待ってくれないか、お嬢さん。
 雪でも降り出しそうな寒さのところ、外に出されたら凍え死んでしまうよ」

「きゃっ」

 男性の声を発したのはカエルだった。
 エルサはあまりにびっくりして、カエルを落としてしまった。