04 人語を喋るヒキガエル


 絨毯の上に落ちたカエルは、危うげなく着地したようだ。

「突然落とすなんてひどいじゃないか。
 もう少しの時間だけ、可憐な乙女のやわらかな手の感触を味わっていたかったのに」

「ええと、あの、あなたは――」

 人語を操るカエルの正体について、エルサは思い至った。

「あなたは、ロキ兄様に姿を変えられてしまったの?」

「魔術によって姿を変えられたのは確かだが、『ロキ兄様』の仕業ではないな」

 後ろ脚でぴょんと飛んで、カエルは一歩エルサに近づいた。

「すぐそこの森で、湖面に映る三日月を眺めていたら、見知らぬ少女がうずくまって泣いているのを見つけたんだ」

 でっぷりしたヒキガエルは、状況の説明を開始した。

「なにがあったのかと心配になり声を掛けたところ、振り向きざまに魔術を突然かけられて、気づいたらヒキガエルの姿になっていた。
 慌ててあたりを見回したが、少女はあとかたもなく消えていたという顛末だ」

 驚きで胸をまだどきどきさせながらも、カエルの言葉にエルサは注意を引かれた。

「そう、ちょうどきみのような年頃の少女だったかな。
 いや、もう少し幼かったかもしれない」

「変身の魔術はとても高度なものなの。
 セーレでも、完璧に操ることができるのはロキ兄様くらいよ」

「それについては俺も不可解だと思っている」

 ヒキガエルが自分のことを俺と呼んだので、エルサの口元がゆるんだ。
 このカエルが、愛らしく思えてきたのだ。

 真面目な語調でカエルは続けた。

「俺自身、王国在住の魔術師の情報には長けていると自負しているんだが、変身の魔術を使う魔女に心当たりがない。
 けれどいまもっとも問題なのは、この変身魔法を俺が自力で解くことができないということだ。
 困ったことに、魔力をすっかり封印されてしまったんだよ」

 黄土色のカエルの皮膚が、暖炉の火にちらちらと照らされている。
 エルサは絨毯に両膝をついて、カエルを覗き込んだ。

「だからあなたはこの城塞に来たのね」

「おっしゃるとおりだ、お嬢さん。
 かの高名な『黄金の魔術師』殿に変身魔術をすっかり解いていただきたく、こうして侵入したという次第さ」

「この部屋は、お兄様のお部屋ではないの」

 エルサの表情が憂いを帯びる。

「ここはわたしの部屋なの。
 わたしはエルサ。
 セーレの娘だけれど、魔力を持っていないからあなたの力にはなれないの……ごめんなさい。
 その代わり、あなたを連れて兄様のところに行き、変身魔術を解いてもらうようお願いすることはできるわ」

「それで充分だ。ありがとう、エルサ」

 カエルは太い首を曲げて礼を取る仕草をした。
 それがまた可愛くて、エルサの顔がほころぶ。

「あなたのお名前はなんていうの?」

「アレスだ。
 好きなように呼んでくれて構わないよ」

「アレスさん。
 あら、国王様と同じお名前なのね」

「なんのひねりもない、よくある名前さ」

 国王の姿をエルサは一度も見たことがない。
 しかし、彼の名前と年齢は――長兄のカストルと同じ二十五だったので――記憶していた。


 ガウンを羽織り、エルサが両手を差し伸べると、カエルはぴょんと飛び跳ねてそこに収まった。
 ひんやりした体を抱き上げて、手燭を持ちつつエルサは言う。

「本当は、わたしは外の人たちとお話をしてはいけないの。
 カストル兄様に、厳しく言いつけられているのよ。
 三人のお兄様たちと、使用人たちとしかお話ししていなくて……。
 だから、おかしなお喋りの仕方をしてしまっていたらごめんなさい」

「おかしいだなんてとんでもない。
 きみとの会話をさっきから俺はとても楽しんでいるよ。
 それにしても、外の人間との会話を禁じるなど、きみの兄君は不当なことを命じるね。
 まさか、城塞の外に一度も出たことがないということはないだろう?」

「一度も、ではないわ」

 廊下に出ながらエルサは答えた。
 手燭の灯りが闇を照らす。

「昔お城の舞踏会に、お兄様たちと一緒に出席したことだってあるの。
 でもここ数年はずっと城塞にいるわ」

「外出していないのかい?
 それも兄君の命令で?」

「ええ」

「それはいけない。
 きみは若く健康な女の子なのだから、外に出て青春を謳歌するべきだ」

 カストルの寝室は同じ階の東端にある。
 長い廊下を、物音を立てないよう気をつけながらエルサは歩いていく。

 変身魔法の解除は、ロキが得意とすることだ。

 でも、彼は自由気ままで、一つのところにじっとしていない性格である。
 いまごろは、梟(ふくろう)の姿に変身して、夜の森を散歩している真っ最中かもしれない。
 
 二番目の兄ルイスは、急用で出掛けたきりまだ戻っていないようだった。

「カストル兄様は、理由もなくわたしに言いつけているわけではないのよ」

「正当な理由には明確な原因があるはずだよ」

 カストルの部屋の前でエルサは立ち止まった。

 扉の下の隙間から、灯りが漏れ出ている。
 兄はまだ起きているようだ。

 ノックをすると、「エルサか?」とカストルの声が返った。

「はい、そうです。
 夜分にごめんなさい。
 お兄様にお願いしたいことがあるの」

 腕の中で、カエルがもぞもぞと動いた。
 エルサが視線を落とすと、丸い目がじっとこちらを見つめている。

「エルサ。
 きみが外に出られない明確な理由があるのなら、俺がそれを排除してあげるよ」

「排除?」

「俺の醜い姿を前にしても気味悪がらず、話を聞いてくれた。
 その上、腕に抱いて助けてくれようとしてくれている。
 きみは素敵な女の子だ。
 エルサが城塞から出られた暁には、最初のエスコート役を俺に務めてさせてくれないか」

「エスコートだなんて」

 あまりにも非現実的な申し出に、エルサは笑みをこぼした。

「ありがとう、アレスさん。
 もしもそういう日が本当に来たら、そのときはよろしくお願いしますね」