06 作戦

 ネグリジェの長い裾を持ち上げながら、エルサは階段を駆け下りる。
 勝手口から裏庭に出て、外壁をぐるっと回り、カストルの部屋の真下に辿り着いた。

「アレスさん、どこですか」

 身を切るような寒さに、弾む息が白く染まる。

「ここだよ、エルサ」

 声の方向に手燭の光を向ける。
 すると、花壇に植えられた草花のあいだから、カエルがひょっこりと顔を出した。

 エルサはガウンを脱いでカエルを包み、抱き上げた。

「ごめんなさい、アレスさん。
 カストル兄様がひどいことを」

「そんなことよりも、このガウンをきみの肩に戻してくれないか。
 きみの柔肌が寒さに粟立つのを、俺はとても見ていられない」

 エルサはそれを断り、駆け足で屋内に戻った。

 取り急ぎ三階の自室に入り、暖炉の前にカエルを下ろす。

「しばらく温まってから、今後のことを考えましょう」

「ありがとう、エルサ。
 きみには世話になりっぱなしだ」

 薄暗い室内に、火の爆ぜる音が響く。

 エルサは両膝を抱えて座り、笑みを浮かべた。

「いいの。
 あなたのためにすることは、わたし自身のためでもあるのだから」

「どうして?」

「わたしは人の役に立つのが嬉しいの」

「なぜ?」

 エルサはさびしく口をつぐんだ。

 人の役に立ちたいと願うのは、役立たずだという事実があるからだ。

 しばらくの沈黙のあと、優しい声でカエルは言う。

「この腕が人間のものでないことが口惜しいよ。
 いまにも涙を零してしまいそうな女の子を、抱き寄せて慰めることもできないなんて」

 エルサは目を丸くしたが、暖かい気持ちになってほほ笑んだ。

「あなたは不思議な人ね」

「元の姿に戻った後も、また会ってくれるかい?」

 エルサの目が曇った。
 カエルが優しい声で言う。

「俺はこう思う。
 もしきみが心に苦しみを持っているのなら、それは一つのことしか見ていないからだ。
 城塞に閉じこもっていては、一つばかりを見てしまう。
 繰り返し手に取って、繰り返し苦しんでしまう」

 エルサはうなずいた。
 心当たりがあるからだ。

 カエルは続ける。

「世界は広いよ、エルサ。
 ほかに考えることや、感じることやがたくさんある。
 周囲は騒がしく、問題は山積みで、けれど賑やかさと喜びにあふれている。
 忙しさに目が回って、自分の問題に耽ってなどいられないくらいにね」

 エルサはじっと聞き入って、カエルの言葉を身の内に浸透させた。

「理解は……できそうな気がする。
けれど、眠っているときに何度も見る夢があるの」

 言葉を選びながらエルサは言う。

「城塞の門が開かれていて、その先に光が見える。
 けれど、わたしは門の手前から一歩も動くことができない。
 足に根が生えたように何時間も佇んでいるの」

 カエルは、エルサを見つめながら耳を傾けている。

「わたしはだんだん悲しくなって、途方に暮れる。
 そうしていると、やがてカストル兄様がやってきて、手を引いて館の中に戻してくれる。
 わたしはそのとき、心の底から安心するのよ」

「その夢には、門の外側から導いてくれる手がないんだろう?
 俺がその役目を仰せつかるよ」

 カエルの声は明瞭でゆるぎない。

「外の世界にきみを連れて行こう。
 エルサはただ、俺の手を取ればいい」

 エルサは胸をつかれた。

 カエルは返答を求めていないようで、ずり落ちかけたガウンを咥えて直している。

 と、バルコニーの窓をコンコンと叩く音がした。

 真夜中の、しかも三階の窓からの来訪者の正体に思い至って、エルサはエルサは我に返った。
 慌てて立ち上がり、窓を開ける。

「おかえりなさい、ロキ兄様。
 今夜のお散歩はいかがでしたか?」

「いささか危うい夜空だったよ。
 三日月が、山猫の引っ掻き傷みたいに鋭かったんだ。
 さてはひと騒動あるかとわくわくして、急いで城塞に戻ってきたよ」

 夜に溶け込む闇色のローブに、黄金の刺繍が光る。
 目深に被ったフードを払って琥珀色の双眸を晒し、ロキはエルサの頬に手をやった。

「さあ、中に入って窓を閉めよう。
 カストルが贈ったガウンはどうしたの?
 ベッドから出るときは、上着をちゃんと羽織らなくちゃ」

「ガウンは人に貸してしまったの」

 窓を閉めて、暖炉のほうにロキは視線を移した。

 ガウンに包まれたヒキガエルを見て、にやりと笑う。

「ああ、なるほど」

「ロキ兄様、あのカエルさんは、本当は男の人なの」

「だろうね。
 これ以上ないほどの珍客だ」

 ロキは、エルサの肩にローブを掛けた。
 暖炉の前に、エルサとともに移動する。

 そして、カエルの目前にひざまずき、慇懃無礼に言葉を紡いだ。

「ようこそ『結び目の城塞』へ。
 あなた様のご来訪は我が一族の栄誉にて、この上なき喜びにございます。
 さて、ご尊顔を拝見するのは何年振りでございましょうか」

「ヒキガエルの顔面だがな」

 面白くなさそうにカエルは言う。
 どうやらカエルは、ロキとも知り合いのようだ。

 エルサは兄の隣に腰を下ろす。

「ロキ兄様がひざまずくなんて、滅多にないことだわ。
 アレスさんは、一体どういうお方なの?」

「元の姿に無事戻れたら白状するよ」

 カエルはぴょんと飛び跳ねて、エルサの膝に乗り上がる。
 ガウンは頭に被ったままだ。

 エルサは、布地の上からカエルの背中を撫でた。

「安心して、アレスさん。
 ロキ兄様が魔法を解いてくださるわ」

「それは頼もしい」

 エルサは、カエルの身に起こった出来事をロキに説明した。
 ロキは目を輝かせて聞いていた。

「へえ、森の魔女!
 まんまと負けを喫したアレスを、ぜひ見たかったよ」

「見物料は高いぞ」

「ロキ兄様、アレスさんを元の姿に戻してあげてください」

 エルサが懇願すると、ロキはいたずらっぽく笑った。

「元の姿にあっさり戻してしまったら、少しも楽しくないじゃない。
 ここはひとつ、三人合わせて余興を企ててみないか?」

「もう、ロキ兄様はまたそんなことをおっしゃって」

 エルサが咎めても、ロキは一顧だにしない。
 カエルに尋ねる。

「カストル兄さんにはもう会ったのかい?」

「彼からセーレ流の歓待を受けたばかりだよ」

「それはいい。
 ならば兄さんに仕掛けてみようか」

「面白そうだな。話に乗ろう」

「アレスさんまで、なにを言い出すの」

 一人と一匹の目が輝き始めたので、エルサはハラハラした。

 考えるようにした後、カエルが言う。

「ロキ、おまえの得意は変身魔術だったな。
 対象の一部分だけを変化させることはできるのか?」

「もちろんだよ、アレス。
 骨格から声帯の形まで、僕の変身魔術で変えられないものはない。
 好きなタイミングで元に戻せるし、後遺症だって残らない優れものだ」

「上々。
 では、エルサ嬢にはしばしご協力いただこうか」

「わたしですか?」

 エルサは戸惑った。
 ピンときた顔で、ロキは指を鳴らす。

「いいね、それでいこう。
 大丈夫だよエルサ、きみにはいまよりもほんの少し愛らしくなってもらうだけだ」