ネグリジェの長い裾を持ち上げながら、エルサは階段を駆け下りる。
勝手口から裏庭に出て、外壁をぐるっと回り、カストルの部屋の真下に辿り着いた。
「アレスさん、どこですか」
身を切るような寒さに、弾む息が白く染まる。
「ここだよ、エルサ」
声の方向に手燭の光を向ける。
すると、花壇に植えられた草花のあいだから、カエルがひょっこりと顔を出した。
エルサはガウンを脱いでカエルを包み、抱き上げた。
「ごめんなさい、アレスさん。
カストル兄様がひどいことを」
「そんなことよりも、このガウンをきみの肩に戻してくれないか。
きみの柔肌が寒さに粟立つのを、俺はとても見ていられない」
エルサはそれを断り、駆け足で屋内に戻った。
取り急ぎ三階の自室に入り、暖炉の前にカエルを下ろす。
「しばらく温まってから、今後のことを考えましょう」
「ありがとう、エルサ。
きみには世話になりっぱなしだ」
薄暗い室内に、火の爆ぜる音が響く。
エルサは両膝を抱えて座り、笑みを浮かべた。
「いいの。
あなたのためにすることは、わたし自身のためでもあるのだから」
「どうして?」
「わたしは人の役に立つのが嬉しいの」
「なぜ?」
エルサはさびしく口をつぐんだ。
人の役に立ちたいと願うのは、役立たずだという事実があるからだ。
しばらくの沈黙のあと、優しい声でカエルは言う。
「この腕が人間のものでないことが口惜しいよ。
いまにも涙を零してしまいそうな女の子を、抱き寄せて慰めることもできないなんて」
エルサは目を丸くしたが、暖かい気持ちになってほほ笑んだ。
「あなたは不思議な人ね」
「元の姿に戻った後も、また会ってくれるかい?」
エルサの目が曇った。
カエルが優しい声で言う。
「俺はこう思う。
もしきみが心に苦しみを持っているのなら、それは一つのことしか見ていないからだ。
城塞に閉じこもっていては、一つばかりを見てしまう。
繰り返し手に取って、繰り返し苦しんでしまう」
エルサはうなずいた。
心当たりがあるからだ。
カエルは続ける。
「世界は広いよ、エルサ。
ほかに考えることや、感じることやがたくさんある。
周囲は騒がしく、問題は山積みで、けれど賑やかさと喜びにあふれている。
忙しさに目が回って、自分の問題に耽ってなどいられないくらいにね」
エルサはじっと聞き入って、カエルの言葉を身の内に浸透させた。
「理解は……できそうな気がする。
けれど、眠っているときに何度も見る夢があるの」
言葉を選びながらエルサは言う。
「城塞の門が開かれていて、その先に光が見える。
けれど、わたしは門の手前から一歩も動くことができない。
足に根が生えたように何時間も佇んでいるの」
カエルは、エルサを見つめながら耳を傾けている。
「わたしはだんだん悲しくなって、途方に暮れる。
そうしていると、やがてカストル兄様がやってきて、手を引いて館の中に戻してくれる。
わたしはそのとき、心の底から安心するのよ」
「その夢には、門の外側から導いてくれる手がないんだろう?
俺がその役目を仰せつかるよ」
カエルの声は明瞭でゆるぎない。
「外の世界にきみを連れて行こう。
エルサはただ、俺の手を取ればいい」
エルサは胸をつかれた。
カエルは返答を求めていないようで、ずり落ちかけたガウンを咥えて直している。
と、バルコニーの窓をコンコンと叩く音がした。
真夜中の、しかも三階の窓からの来訪者の正体に思い至って、エルサはエルサは我に返った。
慌てて立ち上がり、窓を開ける。
「おかえりなさい、ロキ兄様。
今夜のお散歩はいかがでしたか?」
「いささか危うい夜空だったよ。
三日月が、山猫の引っ掻き傷みたいに鋭かったんだ。
さてはひと騒動あるかとわくわくして、急いで城塞に戻ってきたよ」
夜に溶け込む闇色のローブに、黄金の刺繍が光る。
目深に被ったフードを払って琥珀色の双眸を晒し、ロキはエルサの頬に手をやった。
「さあ、中に入って窓を閉めよう。
カストルが贈ったガウンはどうしたの?
ベッドから出るときは、上着をちゃんと羽織らなくちゃ」
「ガウンは人に貸してしまったの」
窓を閉めて、暖炉のほうにロキは視線を移した。
ガウンに包まれたヒキガエルを見て、にやりと笑う。
「ああ、なるほど」
「ロキ兄様、あのカエルさんは、本当は男の人なの」
「だろうね。
これ以上ないほどの珍客だ」
ロキは、エルサの肩にローブを掛けた。
暖炉の前に、エルサとともに移動する。
そして、カエルの目前にひざまずき、慇懃無礼に言葉を紡いだ。
「ようこそ『結び目の城塞』へ。
あなた様のご来訪は我が一族の栄誉にて、この上なき喜びにございます。
さて、ご尊顔を拝見するのは何年振りでございましょうか」
「ヒキガエルの顔面だがな」
面白くなさそうにカエルは言う。
どうやらカエルは、ロキとも知り合いのようだ。
エルサは兄の隣に腰を下ろす。
「ロキ兄様がひざまずくなんて、滅多にないことだわ。
アレスさんは、一体どういうお方なの?」
「元の姿に無事戻れたら白状するよ」
カエルはぴょんと飛び跳ねて、エルサの膝に乗り上がる。
ガウンは頭に被ったままだ。
エルサは、布地の上からカエルの背中を撫でた。
「安心して、アレスさん。
ロキ兄様が魔法を解いてくださるわ」
「それは頼もしい」
エルサは、カエルの身に起こった出来事をロキに説明した。
ロキは目を輝かせて聞いていた。
「へえ、森の魔女!
まんまと負けを喫したアレスを、ぜひ見たかったよ」
「見物料は高いぞ」
「ロキ兄様、アレスさんを元の姿に戻してあげてください」
エルサが懇願すると、ロキはいたずらっぽく笑った。
「元の姿にあっさり戻してしまったら、少しも楽しくないじゃない。
ここはひとつ、三人合わせて余興を企ててみないか?」
「もう、ロキ兄様はまたそんなことをおっしゃって」
エルサが咎めても、ロキは一顧だにしない。
カエルに尋ねる。
「カストル兄さんにはもう会ったのかい?」
「彼からセーレ流の歓待を受けたばかりだよ」
「それはいい。
ならば兄さんに仕掛けてみようか」
「面白そうだな。話に乗ろう」
「アレスさんまで、なにを言い出すの」
一人と一匹の目が輝き始めたので、エルサはハラハラした。
考えるようにした後、カエルが言う。
「ロキ、おまえの得意は変身魔術だったな。
対象の一部分だけを変化させることはできるのか?」
「もちろんだよ、アレス。
骨格から声帯の形まで、僕の変身魔術で変えられないものはない。
好きなタイミングで元に戻せるし、後遺症だって残らない優れものだ」
「上々。
では、エルサ嬢にはしばしご協力いただこうか」
「わたしですか?」
エルサは戸惑った。
ピンときた顔で、ロキは指を鳴らす。
「いいね、それでいこう。
大丈夫だよエルサ、きみにはいまよりもほんの少し愛らしくなってもらうだけだ」
06 作戦
