08 謎の少女

 時刻は深夜零時を過ぎていた。

 狼狽を引きずっているエルサを、カストルは部屋まで送ると言った。

 兄の雷玉に照らされる廊下を歩きながら、エルサはヒキガエルの――アレスのことで、頭をいっぱいにしていた。

『黄金の魔術師殿にちょっとした相談がある。
 今夜は城塞に泊まらせてくれ』

 嫌な顔をするカストルに構わず、アレスは言った。
 彼の青い瞳がエルサを向く。

『今夜は疲れさせてしまっただろうから、エルサはもうおやすみ。
 明日の朝会いに行くよ。よかったら、城塞の庭園を案内してくれないか』

 現実感の湧かないエルサは、とっさにうなずきそうになってしまった。
 しかし、カストルが割って入った。

『だめだ。来なさい、エルサ。
 おまえの部屋まで送ろう』

 連れて行かれるエルサと目が合って、アレスは軽くほほ笑んだ。
 エルサの胸が鼓動を打った。

(あのようなお方に、初めてお会いしたわ)

 兄たちとも、男性使用人たちとも、城塞に訪れる商人たちとも違う。

 どこがどう違うのかと、はっきりとは言えない。
 でも、明らかに違った。

 それは、彼が国王だということや、炎に照らされる美貌と、雄々しい体躯に裏打ちされた自信などによるものだけではなかった。
 しかし、それ以上のことはエルサにはわからなかった。

 けれど、明日も会いに来てくれるという言葉に、心が浮き立ったのは確かだった。

 彼ともっと話がしたいと思った。
 でも、カストルは許さなかった。

 カストルが許さなかったことに、エルサが安堵を覚えたのも、また確かだ。

 ――きみが門の向こう側に光を見るのなら、いつでも外の世界に連れて行くよ。

 彼の声は、暖炉の前で聞いたのと同じように明瞭だった。

 アレスのことで頭をいっぱいにしながら、ぼーっと廊下を歩くエルサを、カストルが心配そうに見つめていたことに、エルサは気づかない。

 まもなく自室に着くといったところで、階段を昇ってきた次男のルイスと、エルサたちは行き合った。

「遅い帰宅だな、ルイス」

 ルイスは黒のローブを纏い、フードを被っていた。
 疲れているようで、暗がりでも顔色の悪さが見て取れる。

 エルサは心配になった。

「ルイスお兄様、大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ、エルサ。ありがとう」

 ルイスはほほ笑んだ。
 この兄のやわらかな声は、エルサをいつも安心させる。

 カストルとロキも優しい人だが、少々ひねくれているところがある。
 一方でルイスは、素直な優しさをつねに示してくれる。

 ルイスはフードを取り払う。
 黒髪と琥珀色の瞳が、カストルの生み出している光源に照らされた。

「カストル兄さん。
 僕の結界内についさっき、強い気配が突然現れたよね。あれはいったいなに?」

『結び目の城塞』には、侵入者を防ぐための結界が張り巡らされている。
 これを生成しているのがルイスである。
 ルイスは、三兄弟の中で結界魔術がもっとも巧みなのだ。

 ルイスの問う声はひどく硬かった。
 カストルは答えた。

「国王だ。
 一時間ほど前から侵入を果たしていたようだが、魔力を完封された状態だったせいで、おまえの結界に引っかからなかった。
 詳細は追って話す。
 僕の部屋に国王とロキが待機しているから、おまえもそこで待て」

「国王?」

 ルイスの優しい面差しが、さらに曇る。

 エルサが彼を見上げていると、それに気づいたルイスは「おやすみ」と頬にキスを贈った。
 それからカストルの部屋に足早に向かう。

 いつもと様子の違う兄の背を、エルサは気がかりな思いで見送った。

 森から梟(ふくろう)の鳴く声が聞こえる。

 国王と三名の『黄金の魔術師』たちは、カストルの部屋で緊急の会議を開いた。

 二人掛けのソファにカストルとルイスが並んで座り、テーブルを挟んだ正面にロキが脚を座面に投げ出して座る。

 アレスは、執務机に腰をもたせている。

「そもそも、他者からの魔術に、貴様があっさり引っかかるということ自体が疑わしい」

 カストルがそう指摘した。
 鋭い視線をアレスに向ける。

「アレス、おまえわざと変身魔法を受けたのではないのか?」

「そんなことをして、俺になんの得がある」

 アレスは仏頂面になった。
 ロキが口を挟む。

「わざとじゃなく、うっかり受けてしまったからといって、アレスがこの城塞に忍び込む理由にはならないよ。
 しかもその場所が、我が家の聖域、エルサの寝室のベッドの上だったわけだからね。
 そりゃ僕らも警戒する。
 なにかしらの思惑があったのなら、それをつまびらかにするべきだと思うけど」

 カストルは顔をしかめた。

「貴様の行為は断じて許しがたい。
 従者もつけずに単身で森に入った行為も理解できん」

「俺にも一人で羽を伸ばしたいときくらいあるさ。
 国王という仕事は、聞こえはいいが王国一多忙でストレスの溜まる職種だからね」

 アレスが肩をすくめて言った。
 暖炉の火を反射して、青色の目が光る。

「俺に魔法をかけた人物は、十五から十七歳ほどの少女だった。
 彼女は、この城塞にほど近い森の湖畔でうずくまり、一人きりで泣いていた」

 ずっと押し黙っていたルイスの肩が、びくりと強張った。

「俺は彼女が気になって声を掛けた。
 すると突然、彼女は変身魔法をかけてきた。
 魔力を充溢(じゅういつ)させる間(ま)も、呪文を詠唱することもなく、まばたきひとつの瞬間で、俺をヒキガエルに変えてみせた」

「詠唱がない?」

 カストルが反応した。

「魔術の前段階をすべて省いたということか」

「これだけでも、少女の魔力がいかに強大かということがわかってもらえるだろう。
 わざと魔術にかかるという芸当など、俺にはできなかったよ。
 残念ながらね」

「呪文を不要とする魔女か。
 正体に心当たりはあるのか?」

 ここでアレスは嘘をついた。

「実に申し訳ないことだが、俺は最初、エルサ嬢を疑った」

『黄金の魔術師』たちは、アレスに一斉に視線を注いだ。

 アレスは苦笑いをして両手を上げる。

「だから申し訳ないと言っただろう。
 そもそも俺は、セーレの末娘と面識がない。
 おまえたちが宝石箱の奥に隠して、ちっとも外に出さないからな。
 魔力を持たないとの噂だが、彼女に関する情報が極めて少ないために、噂の真偽は定かではない。
 この俺に変身魔法をかけることのできる魔力の持ち主で、十代後半の娘、そして『結び目の城塞』にほど近い場所にいた。
これらの条件を鑑みれば、セーレの娘がまず浮かぶのは当然だろう。
 だから、無作法とはわかりながらもあえて彼女の部屋に侵入させてもらったんだ」

 ロキは嘆息する。

「筋は通るね。
全面的には信用できないけれど」

 この三男坊は、偽りを見抜くことが得意と見える。

 森で出会った少女は、エルサよりも背格好が小さかったし、髪の色は老婆のような白色で、瞳の色は緑だった。
エルサと見間違えるはずがない。

 アレスがエルサの部屋を訪れたのは、純粋に、彼女の姿をこの目に入れたかったからだ。

 七年前のとあるきっかけにより、アレスはエルサを知った。
以来、彼女のことがずっと心に残り続けていたのだ。

 七年ぶりに会った彼女は、可憐な少女に成長していた。

 最強無比の魔術師衆である兄たちに大切に守られて、穢れのひとつも知らないような姿をしていた。

 それでいて、幸福感でいっぱいの様子かと言われればそうではなく、菫色の瞳に常に微量の憂いを含ませているような、そんな娘だった。
 彼女の瞳を見つめていると、この憂いを拭い去るには自分はなにをすればいいのだろうとそればかりを考えてしまう有様だ。