10 ルイスが匿う少女

「え?」

 エルサのことで頭がいっぱいだったので、森の魔女というキーワードをアレスはつかみ損ねた。

 カストルとロキも同様だったようで、互いに顔を見合わせている。

「このあたりの治安を担っているのは僕です。
 城塞の周囲だけでなく、森にも結界を張っています。
 けれど森の魔女の魔力は僕の結界に少しも引っかからなかった。
 その原因を探りたいのです。
 それには異物を森になるべく入れないことが望ましい」

「つまり、俺の子飼いを森に放つのを待ってほしいということか?」

 ルイスはうなずいた。
 ひどく顔色が悪い。

「勝手を申し上げて心苦しいのですが、自分の結界に欠損が生じているのであれば、この城塞も危険に見舞われる可能性がある。
 早急に調査したく思います」

 アレスは、三秒の沈黙のあいだに思考をまとめた。

 ルイスに向けてうなずく。

「承知した。
 しばらくのあいだは控えよう」

「ありがとうございます」

 ルイスは安堵したように息をついた。

 アレスがルイスを無言で観察していると、その視線を遮るようにカストルが席を立った。

「話はこれで終わりだ。
 解散にしよう」

「そうだな、もう真夜中だ」

 アレスは嘆息した。
 重りを凝縮したような会議に、疲れを覚えている。

「ところで俺の寝室はどこかな、筆頭殿?」

「庭で寝ろ、あつかましい」

「自国の王に対して清々しいほどだな」

「客間にご案内します」

 ルイスが申し出た。

 ロキは伸びをしてあくびをしつつ、「おやすみー」と部屋を出ていく。

 アレスはルイスの案内で、廊下を進んだ。

 黒いローブを纏うルイスは、琥珀色の瞳に心の優しさが溶けているような青年だ。
 三兄弟の中で、雰囲気がエルサともっとも似通っている。

 隣を歩きながら、アレスは声を掛けた。

「カストルは弟妹(きょうだい)思いだな」

「そうですね。
 陛下にもご兄弟がいらっしゃるので、共感なさるところも多いのではないでしょうか」

「わからないでもない。
 が、カストルのはいささか暑苦しいと思うぞ」

「ふふ、そうかもしれませんね」

「よかったらルイス、少しの時間、客間で共に飲まないか。
 カストルの舌鋒に晒されて、疲れた精神を癒す時間が欲しいんだ」

「いえ、今夜は――」

 ルイスの顔がサッと青くなった。

「すみません。
 今夜は遠慮させていただきます、せっかくのお誘いですが――」

「いや、いい。
 無理を言ってすまなかった」

 アレスは鷹揚に笑った。
 しかしルイスの目元は強張り続けていた。

 深夜一時、三日月はいまだ南天にあった。

 ルイスはアレスを客間に送り届けたのち、ひそかに城塞を出て、森へ向かった。

 彼女(、、)はもう眠ってしまっただろうか。

 逸る心と不安を同時に胸に抱きつつ、ルイスは森の湖畔に辿り着いた。
 神が天から落とした巨大な鏡のごとく、湖面は煌めく星空を映し出している。

 そこからさほど離れていない場所、木々と茂みに覆われたところに、狩小屋が建っている。

 先々代のセーレの当主が大の狩猟好きだったために建てられたものだが、ルイスの父も、ルイスたち兄弟も、狩りに興味を示さなかったため、しばらく捨て置かれていた小屋だ。

 平屋建ての構造で、宿泊も可能になっている。
 ベッドが置かれた寝室と、食卓の配された居間、それから煮炊きができて水道の使える小さな厨房が備え付けられていた。

 すべての窓を開け、降り積もった埃を払ったり、カビ臭い室内を水拭きしたりして、住めるような状態にしたのはここ数日のことだ。

 ルイスは扉を開けた。
 木の軋む音が響く。

「アイリス――」

 呼び掛けると、居間の隅で小さな背中がびくりと震えた。

 月明かりの届かない暗がりで、暖炉の火も灯さずに、アイリスはうずくまっていた。

 ルイスは扉を閉めて、彼女のそばに膝をついた。
 ローブを脱ぎ、彼女の肩に掛ける。
 そのあまりの細さにルイスの胸はざわめいた。

 ルイスは幼子をなだめるような――彼女が妹と同じ歳だということは、彼女から聞いて知っていたが――声で告げる。

「まだ眠っていなかったのかい、アイリス。
 夜更かしは体に障るよ。
 おいで、ベッドに行こう」

「……眠くない」

 小鳥のようにか細い声が、彼女から漏れ出た。

 アイリスが泣いているのを察して、ルイスはうつむいたまままの頬に手を添えた。
 そっと上向かせる。

 ルイスの生み出した雷玉が、彼女の顔を照らし出した。
 まだ若いというのに、彼女の肌は荒れきっていた。

 顎のあたりで切りっぱなしにされた髪は、老婆のように真っ白に染まっている。

 同じくらいに伸ばされた前髪は、彼女の顔面の右半分を覆っている。
 その奥にある瞳が無残に潰れていることを、ルイスは知っている。

 残された左目は、涙に濡れてエメラルドのような輝きを放っていた。

 頬をも濡らす涙を指で優しくぬぐいながら、ルイスは言う。

「どうして泣いているの、アイリス」

「……怖いことがあったの」

 床についた手の、細い指が震えている。

「知らない男の人が、声を掛けてきたの」

「それが怖かったの?」

 アイリスはうなずいた。
 宝石のような左目から、涙が零れる。

 ルイスはアイリスを抱き寄せた。

「もう大丈夫だよ。
 怖い人は行ってしまっただろう?
 アイリスが自分で追い払ったんだ。
 覚えてるかい?」

「覚えてない。
 なんにも、覚えてない」

 アイリスはルイスの服を握り込んだ。
 彼女の真っ白な髪を、ルイスは撫でる。

「どうして小屋を出たの?
 僕が来るまで出てはいけないと言ってあったよね」

「…………」

「アイリスは、湖に行ったんだろう?」

「見たかった、から」

 ルイスの腕の中で、アイリスはぽつりと言った。

「湖が見たかったから。
 うんと昔、ママが、森の中の夜の湖は夢みたいに綺麗だったって、言ってたから……」

 消え入りそうな声だったが、母親を彼女が恋しく思っていることが感じ取れた。

「だから、湖を見に行きたかったの」