12 王様とのひととき

第二章

 アレスが客間で宿泊しているということを、翌朝エルサは侍女のマイアから教えられた。

 マイアは昨夜の騒動について、カストルから説明を受けたらしい。

「まさか国王陛下がご訪問なさるなんて、思いもよりませんでした」

 恐縮している様子だったが、マイアはエルサを気遣ってくれた。

「騒動に気づかず申し訳ございませんでした。大変な思いをされましたね。
 昨夜のようなことがまた起きたら、真っ先にわたくしにお知らせください」

「ありがとう、マイア」

 エルサは、アレスの滞在についてはなんにも感じていない振りをして、マイアを伴い日課の散歩に出た。

 服はいつもどおりの質素なドレスを選んだ。
 しかし外套は、カストルが新しく買ってくれたものを羽織った。
 やわらかな手触りのウールは、とても暖かかった。

 散歩を終えると、半地下にある厨房へ足を運んだ。
 朝食の準備は女性のコックやキッチンメイドたちによってあらかた終えられている。

 コックたちは、昨日からの宿泊客が国王だということを知らされていない。
 家令や執事、侍女などの上級使用人にしか周知されていないのだ。

 しかし、久方ぶりの客人ということで、使用人たちは張り切って腕をふるっているようだった。

 彼女らと朝の挨拶を交わしつつ、作業台の一角を貸してもらう。
 今日の昼食はキドニーパイを焼こうと数日前から決めていて、その下拵えをするのだ。

 マイアやキッチンメイドと共に食材を選んでいると、厨房に一人の青年が入ってきた。

「やあおはよう!
 とてもいい匂いだね。
 朝食の時間が楽しみだよ」

「こ、これは、お客様……!」

 コックたちは慌てて頭を下げる。
 マイアも目を見開いて、一歩下がりつつ礼をとった。

 エルサはびっくりしすぎて、まばたきすることしかできなかった。

 アレスは薄いグレーシャツにウエストコート、その上からダークグレーの上着を羽織っている。
 美しい金髪と明るい青の瞳は、快晴の朝を思わせるかのごとく爽やかだ。
 目元の涼しい美貌は、厨房の女たちをその場に釘付けにさせ、見とれさせた。

 アレスは、固まっているエルサに視線を向けた。
 間近に寄られるまで、エルサは彼を目で追うことしかできなかった。

「おはよう、エルサ。
 探したよ」

「お、おはようございます、アレス様」

「きみを訪ねるのに最適な時間について執事に尋ねたら、早朝がいちばんいいと教えられたんだ。
 毎朝庭園を散歩して、ときには厨房を訪れて昼食やお菓子作りの準備をするらしいね。
 だから最初に庭を探して、それからこの厨房を覗いてみたんだが――」

 作業台に片手をついて、並んでいる食材をアレスは興味深げに眺める。

「これらの肉や小麦粉からいったいなにができあがるのか、俺には見当もつかないな。
 エルサは料理をするのが好きなのかい?」

「はい、好きなのはもちろんですが」

 しどろもどろにエルサは答える。
 どうしてか胸がどきどきしている。

「生きる上で、炊事や掃除といった家事ほど必要不可欠なものはないと考えています。
 なので、ひととおりの家事はこなせるようになるために、使用人たちに教えてもらいました」

「なるほど、生きる上でか。
 公爵家の令嬢らしくないと言えばそれまでなのだが、説得力はあるな」

 感心したようにアレスは作業台を見ている。

 その上に乗せられている彼の手を目に入れて、上着の袖ボタンが取れそうになっていることに、エルサは気づいた。

 アレスは視線をエルサに振り向けて言う。

「執事から聞いたよ。
 きみは城塞の家政全般を取り仕切っているそうだね。
 エルサがいなければ、城塞は一日でも回らないと言って、彼はきみを褒め称えて――」

「アレス様、失礼いたします」

 エルサはアレスの左手首にふれた。
 袖ボタンの具合を確かめる。

 裾のほつれや、取れそうになっているボタンなどを発見すると、いてもたってもいられなくなるのは昔からだ。

 胸のどきどきはすっかり収まり、エルサはボタンのことに集中した。

「この種類の糸なら、わたしの部屋に同じものが置いてあります。
 よろしければつけ直しますので、上着を脱いでいただけますか」

 エルサがアレスを見上げると、彼は若干動揺の色を見せていた。

 彼の視線は、自分の手首に置かれたエルサの細い指に注がれている。

「アレス様?」

「ああ――すまない。
 きみがこれを付け直してくれるのか?」

「はい」

 エルサがうなずくと、アレスはしばし沈黙したのち、こう言った。

「ありがとう、お願いするよ。
 ところで、きみの手際に興味があるから、作業を近くで見せてもらってもいいかな」

 エルサはアレスを自室に案内した。

 昨夜のカエルの姿だったときには思わなかったが、人間の姿を取り戻したアレスが部屋に入ると、とたんに室内が狭く感じるようになるのは不思議だった。

 裁縫は、バルコニーの窓際に置いた藤のテーブルでいつも行う。
 向かい合わせに配置している椅子のひとつにアレスを促してから、エルサはマイアに耳打ちした。

「ごめんなさいマイア、キドニーパイの下拵えはあなたに頼んでおいてもいいかしら。
 いまから厨房に戻って、やっておいてほしいの」

「もちろんお任せください。
 けれどエルサ様、わたくしがお部屋についていなくてもよろしいのですか?
 室内でアレス様と二人きりになってしまいますが……」

 懸念を示すマイアに、エルサは困ったように笑う。

「けれど、昼食の下拵えはいつもわたしたちが中心になってやっていたでしょう?
 厨房の人手は多いとは言えないから、いつもどおりにやらないと、みんながてんてこまいになってしまうわ」

「コックやメイドをもっと増やしていただきたいところですね。
カストル様は、人を雇うのにとても慎重でいらっしゃるから、使用人がちっとも増えません」

「部屋の扉は開けておくし、アレス様はこの国でいちばんの紳士でいらっしゃるから大丈夫よ。
 なにしろ、国王陛下なのですもの」

 未婚の淑女が男性と密室で二人きりになってはいけないということは、エルサも知識として知っている。

 しかしエルサは、アレスから見て自分はほんの子どもだという認識があったし、自分自身も彼を男性として意識していないと自覚していた。

 いや、そう自覚したかった。

 それを証明したくて、エルサはアレスを自室に招き入れたのかもしれなかった。

「けれどエルサ様、このことがカストル様に知れたら事(こと)ですよ」

 マイアのいちばんの懸念はそこらしい。
 エルサはほほ笑んだ。

「そうね。
 けれど、この時間お兄様は『守護の天幕』の調整をしに尖塔に登られているから、よほどのことがない限り気づかれることはないはずよ」

「そう祈ります」

 マイアもくすりと笑って、一礼して部屋を辞した。
 扉は開いたままだ。

 エルサはそっと振り返り、アレスを窺った。
 彼は、エルサとマイアの会話を急かすことなく、テーブルに頬杖をついてバルコニーの外を眺めている。

 冬の朝の陽光は、明るいとは言いがたい。
 けれど、彼の金の髪と澄んだ青の瞳の効果か、そのあたりにだけ光が強く差しているように見えた。

 こうしてずっと彼の姿を見つめていたい思いにかられ、エルサはハッと我に返った。

 こんなことを思ってはいけない。
 自戒して、もつれそうになる足をなんとか運んでアレスの向かいに腰を下ろす。

 カエルの姿だったときは平気だったのに、こうして彼と相対すると緊張してしまう。
 昨夜、ためらいなく抱っこしていたのが嘘のようだ。

「お待たせいたしました、アレス様」

「この窓からの景色はとてもいいね。
 庭園が一望できる」

「ええ、城塞の中でいちばんの眺望の部屋なのです。
 カストル兄様がこの部屋を与えてくださって、とてもありがたかったのですが、申し訳ない気持ちもあります」

「ああ、奴の部屋は裏庭に面した北側だったな。
 カストルの根暗な性格に即していていいんじゃないか?」

 いたずらっぽく言いながら、アレスは上着を脱いでエルサに手渡した。

 受け取ると、当たり前のことなのだが、自分の上着よりもずいぶんと大きい。
 それどころか兄たちのものより大きいので、二重に驚いた。

 兄たちは剣を取らない魔術師なので、どちらかというと細身だ。
 恐らくアレスは剣を取る魔術師なのだろう。胸板が厚く、筋肉質の体つきをしている。

 上質な布地から、太陽の匂いがふわりと漂った。

「どうした、じっと見て。
 俺の上着はそんなに珍しいか?」

 からかうように言うアレスに、エルサの頬が淡く染まる。

「ごめんなさい。
 兄たちのローブばかりを見慣れているものだから、こういったスーツはあまり扱ったことがなくて」

 裁縫箱から針と糸を取り出して、エルサはボタンの付け直しを始めた。