13 一旦の別れ

 布地と針を迷いなく扱っていくエルサを眺めながら、アレスは言う。

「巧いな」

「ありがとうございます」

「きみが朝から厨房で料理をしていると執事から聞いたときは、外出を禁じられているせいでよほど時間を持て余しているのかと思った。
 だから使用人まがいのことをして、暇を潰しているのだと。
 けれど、どうやらそうではないみたいだね。
 厨房で食材を選んでいたきみも、いまこうして針を動かしているきみも、とても楽しそうだ。
 見ていてこちらまで楽しくなってくる。
 生きる上で必要ということも確かだろうが、やはりきみはこういうことが好きなんだろうね」

 エルサはさらに頬を染めた。

 自分が日々取り組んでいることをそんな風に評価してもらうと、単純に嬉しい。

「エルサは料理作りが日課だそうだが、食べるほうはどうだい?」

「好き嫌いはないほうだと思います。
 苦いものが少し苦手なくらいです」

「健康的だね。
 では、量は?」

「ええと……そんなには」

「だろうと思った。
 エルサ、きみは少々痩せすぎだ。
 もう少し太ったほうがいいよ。
 華奢な体型は往々にして体調不良を招きやすいものだ。
 しっかり食べて肉をつけ、丈夫な体になってくれ」

 兄たちから常々言われていることだ。
 エルサは肩をすぼめた。

「はい、がんばります」

「外見的にはいまでも充分魅力的だよ、エルサ」

 美貌の国王からの賛辞に、エルサは言葉をどう返していいかわからない。

 しどろもどろに礼を言うと、アレスはほほ笑んだ。

「きみがもしここに閉じ込められているのではなく、午餐会や舞踏会を毎日のように楽しむような令嬢であれば、男どもが放っておかないだろうな。
 カストルは、山のように来るきみ宛ての恋文に埋もれ、怒り狂っていたかもしれない。
 その山から俺からの手紙を見つけた日には、目も当てられないだろうな」

「カエルさんの姿のときにはそこまで感じなかったのですけど――」

 エルサは非難めいた視線をアレスに送った。

「いまのお姿でそのようなお言葉をいくつもおっしゃっていると、軽い意味に取れてしまいます」

「俺がきみを半端に口説いていると?」

「どのような女性にも、同じようなことをおっしゃられているのではないかと」

「国王という職につく人間はたいてい嘘つきだが、俺は正直な男だよ」

 テーブルの下で長い脚を組みながら、アレスは笑った。

 快活な青い瞳が魅力的で、エルサは彼から慌てて目を逸らす。
 一拍おいて、なにげないことのようにアレスが告げた。

「『嘆きの魔女』についてカストルから説明を受けたよ」

 針を動かす手が止まった。

「きみが城塞から出られない理由も理解した」

「……そうですか」

 玉止めをして、糸切りバサミで糸を切る。
 道具を裁縫箱にしまい、上着のシワを伸ばした。

 アレスは続ける。

「充分理解した上で、それでも俺はきみは外に出るべきだと思っている」

 エルサは微笑した。

「アレス様のお優しさだと受け取ります」

「心の底からきみが望んでいないとわかるなら、俺もこんなことは言わないよ」

「アレス様は思い違いをされています。
 わたしはいまの生活に幸せを感じています」

 膝の上で上着を畳んで、アレスに手渡した。
 アレスは受け取り、ボタンの具合を確かめる。

「ありがとう。
 きみはいい奥さんになりそうだ」

「――わたしは結婚など」

「強制的にでもきみが他の男のものにならないと、カストルのシスコン病は重度のまま死ぬまで治らないぞ」

 冗談めかして言いながら、アレスは上着を羽織った。

 エルサは苦笑する。

「兄とアレス様は、どういったご関係なのですか?
 兄がずいぶんと無礼な口をきくので、不敬に当たるのではないかとハラハラしています」

「物心つく前からの悪友といったところか。
 俺が王族で、奴がセーレの後継ぎだったから、互いの両親を介して付き合いはあった。
 ルイスとロキとも会っていたが、カストルほど頻繁じゃなかったな。
 エルサに至っては、昨日が初対面だ」

「カストル兄様とは幼馴染ということですね」

「そういうことになる。
 ここ数年会っていなかったんだが、基本的な性格は変わらないな。
 美形だが、生意気で神経質で家族愛が暑苦しい。
 エルサ、今度王城に涼みに来るといい。快適だぞ」

 憎まれ口を叩いても憎めないのは、この王の美点なのかもしれない。

 エルサはほほ笑んだ。

「アレス様は炎の申し子とお聞きしております。
 ここよりも、王城のほうが実は暑いのではないですか?」

「はは、その恥ずかしい二つ名のことはどうか忘れてくれ」

 アレスは椅子から立ちあがり、エルサに手を差し出した。

「そろそろ朝食の時間だ。食堂へ行こう」

 エルサは躊躇ったが、立ち上がってアレスの手に自分のそれを預けた。

 朝食は、セーレの四兄妹とアレスで一緒にとった。

 カストルは始終仏頂面だったが、ロキとアレスが軽妙な会話で食卓を明るくしてくれた。
 昨夜様子のおかしかったルイスは、今朝はいつもどおりの穏やかな兄に戻っていた。

 食事をし終えたところで、アレスはエルサに庭園の案内を頼んだ。

 反射的にエルサは受けようとしたが、カストルがそれを止めた。

「おまえは一国の王だろう、仕事をしにさっさと王城に帰れ」

「抗うべくもなく正論だな」

 アレスは肩をすくめた。

「じゃあエルサ、庭の案内はまた次の機会にお願いしてもいいかい?」

 悪びれないアレスの笑顔に、これまたうなずきそうになるのを、カストルの怒声が止めた。

「さっさと帰れと言っている」

「想像以上に重症だ。
 エルサの嫁入りが決まっても、重度のシスコンはまるで治りそうにないな」

「よ、嫁だと……!?」

 愕然とするカストルをその場に置いて、アレスはエルサたちに「世話になったね」と手を振って食堂を後にした。

 エルサとルイスはアレスを見送りに出て、ロキは、静電気をパチパチと発しながら衝撃を受けて突っ立っているカストルを、面白そうに見物していた。

 門前には、アレスの従者と思しき青年と、数人の従僕や近衛兵が馬車とともに待機していた。
 あとから門番から聞いた話だが、彼らは今朝五時にはここに到着して、王を待っていたらしい。

 アレスが現れると、全員がその場でひざまずいた。
 優雅な所作だったが、隙がなくて鋭い印象だ。
 きっと、全員が手練れの忠臣なのだろう。

「馬車はいい。
 馬に乗って帰城するよ」

 従者に告げて、アレスはエルサとルイスを振り返る。

「世話になったね、ルイス。
 『黄金の魔術師』で俺を国王として遇してくれたのはきみだけだ。
 おかげで自分の仕事を忘れずにすんだよ。ありがとう」

「礼を知らない兄と弟で、誠に申し訳ございません」

「森の魔女のこと、なにかわかったらすぐに連絡してくれ」

 それからアレスは、エルサに視線を移した。
 澄んだ青色の瞳に見つめられて、エルサはどきりとする。

「また会いに来るよ、エルサ」

「お待ちしております」

 ドレスのスカートをつまみ、エルサは膝を折って礼を示した。
 どうしてか頬が火照る。

 黒毛の馬に飛び乗り、従者らをとともに門を出ていくアレスの背中を、見えなくなるまでエルサは見送った。