14 片翼のネックレス

 ひとことで言えば、嵐のような人だった。

 いや、彼の場合は炎と表現したほうが正しいのかもしれない。

 いつもより早く湯浴みを終えて、エルサはネグリジェとガウン姿になっている。
 夕食も食べ終えているので、あとは寝るだけだ。

 夕刻の空には、紫がかった雲がゆっくりと流れている。
 バルコニーの窓を眺めてから、エルサはベッドに腰掛けた。

「ここにカエルさんがいたのよね……」

 厚みのある布団にてのひらを滑らせる。

 アレスが現れてから立ち去るまでの時間は、まるで現実的ではなく、それでいてフワフワした夢の中のようだったというわけでもなかった。
 ハラハラして、胸がどきどきして、感情が上がったり下がったりして、刺激的だった。

『世界は広いよ、エルサ』

『周囲は騒がしく、問題は山積みで、けれど賑やかさと喜びにあふれている。
 忙しさに目が回って、自分の問題に耽ってなどいられないくらいにね』

 アレスの言葉が蘇った。

 彼がこの城塞にもたらした騒動そのものを表しているかのように感じて、エルサは微笑した。

「外の世界は、アレス様そのもののような感じがするのかしら」

 アレスの上着からは、太陽の匂いがした。

 エルサはベッドにころんと寝転がって、カエルがいたあたりを見つめていた。

 と、扉がノックされてカストルが自分を呼ぶ声が聞こえてくる。

 返事をして扉を開けると、憂いを帯びた瞳をカストルは優しく細めた。
 いまはローブを脱いでいて、シャツとウエストコートという軽装だ。

「もう寝る準備をしているのか」

「今日は早く寝ようと思ったの。
 どうしたのですか、お兄様?」

「おまえに渡したい物があるんだ」

 エルサはカストルを招き入れた。

 呼び紐を引いて、マイアにお茶を持ってくるよう頼む。
 カストルは、酒を飲むと寝つきが悪くなるタイプなので、夜はもっぱらハーブティーだ。

 マイアがティーセットを運び、テーブルに並べて部屋を辞したところで、カストルは口を開いた。
 彼とエルサは、二人がけのソファに並んで座っている。

「昨夜からおまえを叱ってばかりですまなかった。
 長兄なのだから、もっと冷静にならなければと思うのだが、どうにもうまくいかない。
 嫌な思いをさせたね」

 兄の謝罪に、エルサは首を振った。

「お兄様のお気持ちはわかっています」

「僕は……おまえがいつまでも平穏に暮らしていければと、それだけを願っているよ」

 言いながら、カストルは懐から長方形の小箱を取り出した。
 黒いビロードの張った、そっけない外観だ。

「これをおまえに」

 受け取って、蓋を開けた。
 入っていたのはネックレスだった。

 翼を象った透明色のチャームに、華奢な金のチェーンが通されている。
 翼は片方のみで、優美な白鳥を思わせるものだった。

 シンプルな美しさが際だつ一品は、とても高価なものに見えた。
 分不相応な品にエルサ内心怯んだが、面には出さずに笑顔を見せた。

「とても素敵。
 ありがとうございます、お兄様」

「エルサ、これはいつもおまえに贈っている宝飾類とはまったく別のものなんだ」

 真剣な声でカストルは言う。

「この片翼は、魔術を込めたサファイアを砕いて粉末にし、硅砂に溶かし込んで生成した特殊な硝子で作られている。
 だから、単なるアクセサリーというよりは魔術道具に近い」

「このような品を、なぜわたしに?」

 エルサは戸惑った。

 魔術道具は、魔術の発動を補助する物だ。
 魔術の使えないエルサには、無用の長物である。

「おまえがこれを身につけているときに『嘆きの魔女』に変貌する前兆が見られた場合、この硝子は漆黒に染まる」

 エルサは息を飲んだ。

「そうなったとき、おまえは自分を守ることだけを考えろ。
 なにを差し置いても、自分の身を、精神を守る行動を取れ。
 僕らが近くにいるときは、真っ先に僕らに知らせて、決してそばから離れるな」

 カストルはネックレスを取り出し、エルサの細い首に付けた。

 硝子の片翼は、淑やかな光を放っている。
 カストルはその造形を指で辿った。

「三百年前からセーレ家に代々伝わるものだ。
 作られたのは全部で三つ。
 一つは三百年前に現れた『嘆きの魔女』が、眠りについたまま天寿をまっとうしたときに消失した。
 一つはここに。残りの一つは僕ら兄弟が厳重に管理している。
 いいかエルサ。これまで贈ってきたネックレスはもう付けなくていい。
 今後はこの片翼のネックレスだけを身に付けろ。
 食事をするときも、湯浴みをするときも、眠るときも、肌身離さず付けているんだ」

「はい、お兄様」

 エルサはうなずいた。

 カストルは、エルサの銀髪に指先でふれて、小さな耳に掛けた。

「以前……おまえが十歳になったとき、初めて王城に連れて行った。
 本当は外に出したくなどなかったが、僕らは両親を早くに亡くしている。
 成人の後ろ盾がおまえにあればいいと思った。
 それが国王であればなおいいと。
 けれどそれは間違いだった。
 国王はおまえを中傷し、父上と母上を侮辱し、嘲った。
 周囲にいた大勢の貴族は、全員が国王の意に下り、エルサを見下し嘲笑した。
 その国王は先代の王、アレスの父親だ」

 しかしエルサは、先代とアレスは似ても似つかない印象を得ていた。

 あの日の出来事はよく覚えている。
『嘆きの魔女』になりかけたのは、あのときが初めてだった。
 以降エルサは外出しなくなり、変貌の兆しが現れたことは一度もない。

 それは七年前の、舞踏会の夜だった。

 国王は、のっけから酩酊しているように見受けられた。

 長男のカストルは十八歳、セーレ公爵の爵位を正式に譲り受けたばかりだった。

 年若きセーレの当主を、五十に差し掛かった国王はよく思っていなかったようだ。
 その理由は、カストルが前セーレ家当主を遥かに上回った魔力を有していたことによる。

 セーレ家は王家に次ぐ権力を有している。
 あくまでも、王国のトップは王家だ。
 しかし、両家の立場が逆転する代もあった。

 それは、セーレ家当主が飛び抜けて優秀であり、かつ、国王が愚王とは言わぬまでも凡才だった代に起こる。

 セーレは国防の要だ。
 そのため、国境を守る辺境伯や軍の幹部、貿易で財を成している大商人や貴族たちが、セーレ家にこぞってすり寄るという現象が生じる。
 有事の際、自分のところを優先的に助けてほしいという欲求があるからだ。

 先代国王は、こういった傾向が広がりつつあることを、敏感に察知していた。

 彼は悪政を強いるような王ではなかったが、小心で、虚栄心が強かった。

 十八歳の若造であるカストルよりも、自分のほうが偉いのだということを誇示したいという思いが高じ、また、深酒の影響もあったのだろう。

 初めての社交の場、それも国王との初対面という舞台に緊張しきっていたエルサを大声で罵ったのだ。

 このときエルサはカストルに連れられて、椅子に座る国王にぎこちなく挨拶をした。
 この日のために仕立ててもらった、ピンク色の可憐なドレスに身を包んでいた。

 先代セーレ公爵の忘れ形見、三人の兄にエスコートされながら入場した初々しい令嬢の姿に、出席者は皆和やかに目を細めていた。

 しかし、その雰囲気を国王の言葉が打ち壊した。

「セーレの娘に生まれて魔力のひとかけらも有していないなど、情けない。
 このような出来損ないの魔女は、我が国の貴族に名を連ねるにも値せんわ」

 場が静まり返った。

 緊張していたエルサは、自分がなにを言われたのかすぐには理解できなかった。

「この娘のような失格者が生まれたということは、セーレの終焉もいよいよ近いのではないのか?
 セーレ前当主夫妻も先行きを危ぶんで不安に苛まれ、さぞ嘆いただろうよ」

 国王は嘲笑した。

 周囲の貴族たちは、最初はぎこちなく、けれど徐々にしっかりと、国王に同調始めた。

「国王陛下。
 ご自身がなにをおっしゃっているのか、理解しておられますか」

 隣に立っていたカストルから、黄金の静電気が生じているのをエルサは見た。