「なにをしているの、ルイス?」
舞い落ちる雪の中、ルイスが呪文を詠唱していると、狩小屋の窓からアイリスが声を掛けてきた。
集中が途切れて、練り上げた魔力が霧散する。
もう一度やり直さなければならない羽目に陥ったが、ルイスはアイリスに優しく答えた。
「結界を張っているんだよ」
「もう張り終えているのではないの?」
「二重に貼ろうと思ってね。最近物騒になってきたから。
それにしても寒いね。
暖炉にちゃんと火を入れているかい?」
「うん、今日はずっと一日中」
「風邪を引くといけないから、窓を閉めて暖炉の前で待っていて」
アイリスは素直にうなずいて、中に引っ込んだ。
ルイスはふたたび集中し始める。
森の魔女の調査について、ルイスに一任してもらうことにアレスから承諾を得ている。
けれどあの国王なら、ルイスに知らせずに裏で手駒を動かすことくらいはやるだろう。
なにしろ、対象は『嘆きの魔女』だと目されている危険因子なのだ。
王という立場のものが、いつまでも放っておくわけがない。
空中へ差し伸べたルイスの右手が黄金の光を帯びる。
目を閉じて呪文を詠唱する。
幼い頃から操り慣れた古代語の響きは、現代では意味をなさない音の羅列であるが、母の子守唄のようなぬくもりを有している。
まぶたを閉ざした暗闇の中、自身の魔力の軌跡だけは、ルイスは鮮やかに視覚に捉えることができた。
黄金の光は蔦のように長く伸びて、いくつもの円を描きながら半球状に広がっていく。
等間隔に重なる円は花のような紋様を創り上げ、ルイスと狩小屋を包んでいく。
ルイスの結界は芸術品だと、人々から評される。
暗緑色の闇の中で、黄金の籠はしめやかな光を放っている。
今夜はアイリスに渡さなければならない物がある。
結界を雪片が透過して、ルイスのローブに舞い落ちた。
透きとおって布地に溶け入るさまを、ルイスは見つめた。
と、狩小屋のなかで大きな物音がした。
我に返って、ルイスは手を払い、結界を目で見えないようにした。
小屋に入ると、食事用に使っている椅子が倒れていて、その横にアイリスがびっくりした顔で立っていた。
ルイスは椅子を直してから、アイリスを覗き込む。
「怪我はなかった?」
アイリスは、ばつが悪そうに眉を寄せた。
「うん」
「よかった」
彼女は時々こういう行動を取る。
ルイスの気を引くために、物を倒したり、水の入ったコップを落としたりするのだ。
今回は、椅子を倒してみたものの、予想外に大きな音が立ってしまったので驚いたのだろう。
ルイスは彼女の白い髪を撫でた。
「遅くなってごめんね」
「……ごめんなさい」
アイリスの頬にルイスはキスをした。
アイリスがこういう行動に出るのは、そのやり方しか知らないからだ。
言葉で伝えたりするようなやり方を知らないのだ。
ルイスは最初、自分の気持ちを言葉で伝えることをアイリスに教えた。
しかしアイリスはいまいち理解できていないようだった。
生まれてからずっと、アイリスは知らないできた。
だから、習得するのはきっと時間がかかるのだろう。
せめて夕食だけでも、彼女と一緒にとりたいと思う。
アイリスは一日中ここにいて、朝昼晩の食事を一人きりで食べている。
「ルイス、今夜は湖に行きたい」
「今夜も、だろう?
アイリスは湖畔が好きだね」
「だって綺麗だから。
ルイスは湖が嫌い?」
「もちろん好きだよ」
アイリスは嬉しそうに笑う。
右半分を覆う髪が揺れて、潰れた右目が時折垣間見える。
そうであっても、アイリスの愛らしさは少しも損なわれない。
ルイスは衣装棚に掛けてある外套を取り出して、アイリスに着せた。
街で買い求めた毛皮の物だ。
サイズは妹よりも小さめである。
「ルイスはローブだけで寒くないの?」
「この下に着込んでいるから大丈夫だよ。
あんまり寒いと上から羽織るけどね」
動きが制限されるため、いまは外套を身に付けたくなかった。
「アイリスは小さいな」
毛皮のフードを被せて、ルイスは呟く。
エルサは痩せ気味だが、アイリスはさらに小柄だ。
結界の外に出る手前で、ルイスは周囲の気配を探った。
国王配下の者が森に侵入している気配なはい。
「見てルイス、今日の湖は青色だよ」
アイリスが湖面を指差す。
気温や湿度、月の光量の加減で、湖は色んな顔を見せてくれる。
それをアイリスは喜ぶのだ。
湖畔の草むらに座り込んで、アイリスは目前の光景を眺めた。
ルイスはとなりに腰を下ろす。
「プレゼントした絵本は読み終わったかい?」
絵を見るだけでも内容がわかるような絵本を、ルイスは何冊か持ってきていた。
「うん。でもよくわからなかった」
「難しかった?」
「うん。ねえルイス、絵本はもういらないから、昼間も湖に来たい」
「そうだな……」
アイリスは毎日、狩小屋でルイスをただ待っているだけだ。
外に出たいと思うのも当然だろう。
ルイスはふと、いつまでアイリスを隠しておくのかを考えた。
アイリスの体力が回復したら、カストルに相談しよう思っていた。
出会ったとき、アイリスはひどく衰弱していたからだ。
けれどいま、彼女は元気になっている。
毎日お湯で体を拭き、ルイスが運ぶ健康的な食事をとっている。
まだ痩せてはいるけれど、荒れていた肌がなめらかになり、血色を取り戻し、機嫌のいいときは屈託なく笑う。
「ルイス?」
「ああ、ごめん。いいよ、わかった。小屋から湖畔の一部にかけても、結界を張るようにするよ。その範囲内でなら、出歩いてもいいよ」
アイリスは笑顔になった。
「嬉しい!」
「けれど、僕が教えるところ以外は行ったらだめだよ」
「うん、わかった。ありがとうルイス」
アイリスの笑顔はルイスを幸せにしてくれる。
北風が吹いた。青みを帯びた湖面にさざ波が立つ。
寒さに縮こまった細い肩を、ルイスは片腕で抱き寄せた。
「そろそろ戻ろうか」
「まだそんなに体冷えてないよ。もうちょっとここにいたい」
「お母さんが好きな場所なんだっけ」
うつむくようにアイリスはうなずいた。
大好きな母親のことを、彼女はあまり話したがらない。
ルイスは懐から小箱を取り出した。
外では渡したくなかったけれど、国王の間者は今夜はいないようだし、結界を張ってあるから大丈夫だろう。
「きみにプレゼントだよ、アイリス」
「わあ」
黒い天鵞絨の張った小箱を見せると、アイリスは頬を赤らめて喜んだ。
素直な感情表現にルイスは和むけれど、この贈り物の意味するところを考えると憂いを禁じ得ない。
アイリスは小箱を受け取り、早速開いた。
中に入っていたのは、ネックレスだ。
チャームは片翼を象った硝子製である。
これは、城塞の隠し倉庫に保管されていたものの一つだ。
ルイスが秘密裏に持ち出したとき、二つあったはずのものが残り一つになっていた。
それとなくカストルに聞いてみたら、一つをエルサに付けさせたようだ。
アレスの出現により、カストルは危機を覚え始めている様子だった。
ルイスもエルサを心配していた。
アレスがエルサに大きな興味を抱いていることは一目瞭然だったし、エルサもアレスに惹きつけられているように見えた。
エルサも年頃の娘だ。
目の前に突然魅力的な男性が現れたら、惹かれるのも当然だろう。
しかし、心の傷を生み出さない恋はない。初恋ならなおさらだ。
本来であればそれは、人間的な成長に繋がるのだろう。
エルサが普通の少女であれば、ルイスは妹の恋を陰ながら応援していたに違いない。
けれど、エルサは普通の少女ではない。
だから自分たちは警戒せざるを得ない――ロキはまた違った考えを持っているようであるが、気がかりなのは同じだろう。
いま目の前にいる少女は――アイリスは、エルサのもう一つの姿でもある。アイリスは重大な辛苦に引き裂かれ、『嘆きの魔女』となった。
そして、感情を制御できなくなり、こともあろうに、国王に攻撃魔術を放ってしまった。
おそらくアイリスには、アレスを攻撃しようという意思はなかったのだろう。
突然声をかけてきた男に恐怖して、その恐怖が魔術という形で外に溢れ出たというだけなのだ。
アレスを傷つけようだとか、ましてや殺意など、アイリスは持ち合わせていなかった。
それでも、捕まれば死罪を賜るのは明白である。
あの国王であれば、もしかしたら少女に重刑を科すことをしないかもしれない。
が、劣悪な環境の牢獄に何十年も閉じ込められる運命は避けられないだろう。
カストルの判断によって、眠りにつかされる可能性も高い。そうなれば、棺の中で朽ちるまで、アイリスはずっと眠り続けることになる。
『嘆きの魔女』を納める棺は、硝子でできているという。
継ぎ目のないなめらかな透明の中で、魔女は夢を見ることもあるのだろうか。
小箱の中身を眺めて、アイリスは嬉しそうにしている。
「わたし、ネックレス付けるの初めて」
「これはお守りだよ」
この片翼は、『嘆きの魔女』に変貌する予兆を知らせてくれるものだ。
アイリスはすでに『嘆きの魔女』に変貌してしまっている。
だから、これを彼女に身に付けさせる目的は、別のところにある。
サファイア硝子の片翼は、封印されて眠りについた『嘆きの魔女』を、眠りから目覚めさせてくれるという言い伝えがある。
セーレの祖先が魔力を込めて精製したサファイア硝子だ。
たかが言い伝えだと一蹴するのは愚かである。
万が一のことがあったとき――ルイスは彼女を眠らせる気はまったくないが――きっとこのネックレスが力になってくれるだろう。
「どうやって付けるの?」
「貸してごらん」
アイリスの細い首に金のチェーンを回して、留め金でつなぐ。
すると、透明の硝子がみるみる内に漆黒に染まった。
下部から暗雲が湧き上がってくるような、不気味な染まり方だった。
アイリスは怯えた表情になる。
「なに、これ。どうして色が変わるの?」
「こういうものなんだよ」
やはりアイリスは、紛れもなく『嘆きの魔女』なのだ。
ルイスは胸の痛みを覚えながらも、表情には出さなかった。
「なんだか怖い。
これ、いらない」
アイリスはチャームを引っ張った。
留め具の外し方を知らないのだ。
ルイスは、アイリスの手をつかんで止めた。
「だめだよ、アイリス。
大事なものだから付けていて」
「どうして大事なの?」
「それは――」
ルイスは口ごもった。
アイリスが不審を募らせる。