17 ぬくもり

「これを付けていれば、危ない目にあったときに助けになるかもしれないんだ」

 付けた途端黒く染まったネックレスなど、不吉に思うのも当然だ。
 アイリスが嫌がる気持ちがわかる上に、自分の説明は説得力がまるでない。

 ルイスはそれでも言葉を尽くしたが、アイリスのイライラは増していくばかりのようだった。

「これ取って、ルイス。
 取り方がわからない」

「わかったよ、アイリス。
 取ってあげるけれど、期限を区切ろう」

 せめて、国王の手の者が森に放たれることはないと確信できるまでは、身に付けさせるべきだ。

「この冬のあいだだけ付けていてくれないか。
 その後は返してくれればいい」

 アイリスは押し黙ってくちびるを噛んだ。
 まずいなと、ルイスは思った。
 癇癪を起こす一歩手前だ。

「どうして言うことを聞いてくれないの」

 唸るようにアイリスは言う。

 普段から彼女は、ルイスが彼女の言い分やわがままを聞くことで、満足を得る以上のものを感じている節があった。

 それは、端的に言えば愛情だ。

 アイリスは、姉たちに虐げられて生きてきた。
 唯一の味方であった母親にも、満足に甘えられなかったようだった。

 アイリスはいま、生まれて初めて自己をぶつけることのできる相手を前にしている。
 感情をぶつけて、受け入れてもらうことで、ルイスの愛情を確かめている。

 ルイスの気を引こうとして椅子を倒すのも、それと同じだ。

 試して、確認して、それで初めてアイリスは安心を得ることができる。

 だからルイスは、アイリスの左目に涙が溜まっていくのを見て、胸が痛んだ。

 アイリスがチェーンを引きちぎって、ネックレスをルイスに投げつけても、怒りの感情など少しも湧いてこなかった。

「いらないって言ってるの!」

 アイリスは立ち上がった。
 草の上に落ちたネックレスを拾ってから、ルイスも立ち上がる。

「ルイスなんて嫌い!
 あっちに行って!」

「アイリス――」

「あっちに行って!
 もう帰って!」

 癇癪を起こしたアイリスをなだめようと、ルイスは手を伸ばした。
 すると、アイリスは全身をびくりと震わせた。

「嫌、触らないで」

 混乱したように首を振る。
 髪が乱れて、潰れた右目が露わになる。

 アイリスは、弾かれたように片手で髪を押さえつけて右目を隠した。

 彼女はただ怯えているだけだった。

 拒絶することで自分自身を守る、それがアイリスの生き方だ。

 アイリスにはゼロか百しかない。
 全身で甘えたりわがままを言ってきたりしたと思ったら、その次の瞬間には全力で拒絶してくる。

 態度が切り替わるとき、アイリスは極度の混乱に陥っている。

 自分を取り巻く世界のすべてと、敵対する。

 そんな状態は、どんなにか苦しいだろう。

 ルイスは一歩アイリスに近づいた。
 アイリスは、逃げるように三歩下がる。

 けれど、ルイスの手の届く距離だ。

 アイリスの姿が妹と重なる。

 エルサは、いつも自分たちに感謝を告げて、幸せだと表現し、愛情を返してくれる。
 でも、城塞から一歩も出ることが許されない自身の境遇に、悲哀を感じていないわけがない。

 自分の力の決して及ばない生来の特質と、そこに端を発する境遇に、人生のすべてを支配されている。

 彼女たちをがんじがらめにする糸を断ち切り、自由を与えることができるのなら、ルイスはなんだってするだろう。

 白髪を押えて震える細い手首を、ルイスはつかんだ。
 アイリスが抗う間を与えぬまま、強く抱き寄せる。

 硬直して恐怖を示す華奢な体を、両腕に抱きすくめて、アイリスの耳にルイスはささやく。

「僕がきみを守るよ」

 北風がまた吹いて、アイリスの外套とルイスのローブを揺らした。

 現れたアイリスの右目の際に、ルイスはキスをする。

「アイリスはもう戦わなくていい。
 僕が全部引き受ける」

 決意でもあり、願いでもあり、付け加えるなら、この想いがアイリスに正しく伝わっていなくても構わないと、ルイスは思う。

 三日月と青い湖面が、自分をじっと見ている。

 誓いを決して破らないと、それらに約束できればそれでいい。

 親とはぐれた子猫のように、アイリスは小さく震えていた。
 けれど彼女の両手はルイスのローブを、縋るようにつかんでいた。

 ルイスの言葉に、アイリスが一生懸命耳を傾けている。

 やわらかな頬に口づけたとき、彼女の涙がくちびるにふれた。

「ネックレスは付けなくていいよ。
 無理強いをしてごめん」

 アイリスが喉を震わせた。
 そして、声を上げて泣いた。

 この子を棺になど、絶対に入れない。

 しゃくり上げながら、アイリスは「ごめんなさい」と繰り返した。
 ルイスは彼女の背を撫で続けた。

 やがて、泣き疲れてアイリスは眠った。
 軽い体を横抱きにして、ルイスは彼女をベッドまで運んだ。

 下ろそうとしたが、アイリスがローブを握り込んで離さない。
 仕方のない気持ちと、そして愛おしさとで、シングルベッドに二人で横になり、彼女を腕の中に入れたままルイスは目を閉じた。

 翌朝、ルイスが隣にいたのでアイリスはとても驚いた顔をして、そしてはにかむように笑った。

 それから、「ネックレス、つける」と告げた。

「大丈夫?
 無理しなくてもいいんだよ」

「無理してない。
 付けたいの」

 アイリスがせがむので、ルイスはネックレスを付けてやった。
 漆黒の片翼を摘まんで、アイリスは嬉しそうにしている。

 ルイスは彼女の心境の変化を嬉しく思い、また、片翼が彼女に戻ったのを見て安堵した。

「もう帰るの?」

 ベッドから降りかけたルイスに、アイリスは聞いた。
 寂しさを感じ取って、ルイスは彼女の髪を撫でる。

「また夜に来るよ」

「あの大きなお城に、ルイスは住んでいるの?」

 ベッド脇の窓から見える尖塔を、アイリスは指差した。

「そうだよ。あれは城じゃなくて、城砦と言うんだ。
 お城は別のところにあって、そこには王様が住んでいるんだよ」

「ふうん……。
 王城には王様がいて、じゃあ城砦には、ルイスのほかにだれか住んでいるの?」

「兄と弟が一人ずつ、あとは妹がいる。妹はアイリスと同じ年なんだ」

 ルイスが顔をほころばせると、反対にアイリスは瞳を曇らせた。
 それから、髪を撫でるルイスのてのひらに、頬を擦り付けた。

「アイリス?」

「ルイスの匂いがする」

 寂しそうにアイリスが呟く。

 ルイスは、アイリスの肩をそっと抱き寄せた。

「湖畔まで出られるように、結界を張っておくよ」

「うん」

「今夜は早めに戻るから、待っていて」

 ルイスの腕の中で、アイリスは小さくうなずいた。