「これを付けていれば、危ない目にあったときに助けになるかもしれないんだ」
付けた途端黒く染まったネックレスなど、不吉に思うのも当然だ。
アイリスが嫌がる気持ちがわかる上に、自分の説明は説得力がまるでない。
ルイスはそれでも言葉を尽くしたが、アイリスのイライラは増していくばかりのようだった。
「これ取って、ルイス。
取り方がわからない」
「わかったよ、アイリス。
取ってあげるけれど、期限を区切ろう」
せめて、国王の手の者が森に放たれることはないと確信できるまでは、身に付けさせるべきだ。
「この冬のあいだだけ付けていてくれないか。
その後は返してくれればいい」
アイリスは押し黙ってくちびるを噛んだ。
まずいなと、ルイスは思った。
癇癪を起こす一歩手前だ。
「どうして言うことを聞いてくれないの」
唸るようにアイリスは言う。
普段から彼女は、ルイスが彼女の言い分やわがままを聞くことで、満足を得る以上のものを感じている節があった。
それは、端的に言えば愛情だ。
アイリスは、姉たちに虐げられて生きてきた。
唯一の味方であった母親にも、満足に甘えられなかったようだった。
アイリスはいま、生まれて初めて自己をぶつけることのできる相手を前にしている。
感情をぶつけて、受け入れてもらうことで、ルイスの愛情を確かめている。
ルイスの気を引こうとして椅子を倒すのも、それと同じだ。
試して、確認して、それで初めてアイリスは安心を得ることができる。
だからルイスは、アイリスの左目に涙が溜まっていくのを見て、胸が痛んだ。
アイリスがチェーンを引きちぎって、ネックレスをルイスに投げつけても、怒りの感情など少しも湧いてこなかった。
「いらないって言ってるの!」
アイリスは立ち上がった。
草の上に落ちたネックレスを拾ってから、ルイスも立ち上がる。
「ルイスなんて嫌い!
あっちに行って!」
「アイリス――」
「あっちに行って!
もう帰って!」
癇癪を起こしたアイリスをなだめようと、ルイスは手を伸ばした。
すると、アイリスは全身をびくりと震わせた。
「嫌、触らないで」
混乱したように首を振る。
髪が乱れて、潰れた右目が露わになる。
アイリスは、弾かれたように片手で髪を押さえつけて右目を隠した。
彼女はただ怯えているだけだった。
拒絶することで自分自身を守る、それがアイリスの生き方だ。
アイリスにはゼロか百しかない。
全身で甘えたりわがままを言ってきたりしたと思ったら、その次の瞬間には全力で拒絶してくる。
態度が切り替わるとき、アイリスは極度の混乱に陥っている。
自分を取り巻く世界のすべてと、敵対する。
そんな状態は、どんなにか苦しいだろう。
ルイスは一歩アイリスに近づいた。
アイリスは、逃げるように三歩下がる。
けれど、ルイスの手の届く距離だ。
アイリスの姿が妹と重なる。
エルサは、いつも自分たちに感謝を告げて、幸せだと表現し、愛情を返してくれる。
でも、城塞から一歩も出ることが許されない自身の境遇に、悲哀を感じていないわけがない。
自分の力の決して及ばない生来の特質と、そこに端を発する境遇に、人生のすべてを支配されている。
彼女たちをがんじがらめにする糸を断ち切り、自由を与えることができるのなら、ルイスはなんだってするだろう。
白髪を押えて震える細い手首を、ルイスはつかんだ。
アイリスが抗う間を与えぬまま、強く抱き寄せる。
硬直して恐怖を示す華奢な体を、両腕に抱きすくめて、アイリスの耳にルイスはささやく。
「僕がきみを守るよ」
北風がまた吹いて、アイリスの外套とルイスのローブを揺らした。
現れたアイリスの右目の際に、ルイスはキスをする。
「アイリスはもう戦わなくていい。
僕が全部引き受ける」
決意でもあり、願いでもあり、付け加えるなら、この想いがアイリスに正しく伝わっていなくても構わないと、ルイスは思う。
三日月と青い湖面が、自分をじっと見ている。
誓いを決して破らないと、それらに約束できればそれでいい。
親とはぐれた子猫のように、アイリスは小さく震えていた。
けれど彼女の両手はルイスのローブを、縋るようにつかんでいた。
ルイスの言葉に、アイリスが一生懸命耳を傾けている。
やわらかな頬に口づけたとき、彼女の涙がくちびるにふれた。
「ネックレスは付けなくていいよ。
無理強いをしてごめん」
アイリスが喉を震わせた。
そして、声を上げて泣いた。
この子を棺になど、絶対に入れない。
しゃくり上げながら、アイリスは「ごめんなさい」と繰り返した。
ルイスは彼女の背を撫で続けた。
やがて、泣き疲れてアイリスは眠った。
軽い体を横抱きにして、ルイスは彼女をベッドまで運んだ。
下ろそうとしたが、アイリスがローブを握り込んで離さない。
仕方のない気持ちと、そして愛おしさとで、シングルベッドに二人で横になり、彼女を腕の中に入れたままルイスは目を閉じた。
翌朝、ルイスが隣にいたのでアイリスはとても驚いた顔をして、そしてはにかむように笑った。
それから、「ネックレス、つける」と告げた。
「大丈夫?
無理しなくてもいいんだよ」
「無理してない。
付けたいの」
アイリスがせがむので、ルイスはネックレスを付けてやった。
漆黒の片翼を摘まんで、アイリスは嬉しそうにしている。
ルイスは彼女の心境の変化を嬉しく思い、また、片翼が彼女に戻ったのを見て安堵した。
「もう帰るの?」
ベッドから降りかけたルイスに、アイリスは聞いた。
寂しさを感じ取って、ルイスは彼女の髪を撫でる。
「また夜に来るよ」
「あの大きなお城に、ルイスは住んでいるの?」
ベッド脇の窓から見える尖塔を、アイリスは指差した。
「そうだよ。あれは城じゃなくて、城砦と言うんだ。
お城は別のところにあって、そこには王様が住んでいるんだよ」
「ふうん……。
王城には王様がいて、じゃあ城砦には、ルイスのほかにだれか住んでいるの?」
「兄と弟が一人ずつ、あとは妹がいる。妹はアイリスと同じ年なんだ」
ルイスが顔をほころばせると、反対にアイリスは瞳を曇らせた。
それから、髪を撫でるルイスのてのひらに、頬を擦り付けた。
「アイリス?」
「ルイスの匂いがする」
寂しそうにアイリスが呟く。
ルイスは、アイリスの肩をそっと抱き寄せた。
「湖畔まで出られるように、結界を張っておくよ」
「うん」
「今夜は早めに戻るから、待っていて」
ルイスの腕の中で、アイリスは小さくうなずいた。