アレスはカストルに視線を戻した。
カストルは、自分のつま先を見つめながら押し黙っている。なにかを考え込んでいる様子だ。
しかし、アレスがその内容を聞き出そうとしたとしても、カストルはつっぱねるだろう。
アレスは内心嘆息した。
ロキは姿すら現さないし、ルイスはなんらかの秘密を保持している様子である。
ここの兄弟は揃いも揃って、国王に対して非協力的な傾向が強すぎる。
その原因は亡き父の暴言にあるのだから、彼らを責めることはできないのだが。
アレスはソファの背もたれから体を離した。
「今日の話はここまでだ。
エルサの様子を見にいってくる」
憔悴を引きずった表情で、カストルが顔を上げた。
「アレス。
貴様には想い人はいないのか」
「おまえが俺の恋路を気に掛けてくれていたとは、意外だったな」
「国王であれば、フィアンセ候補の一人や二人、必ずいるだろう。
エルサを気にかけるのではなく、そちらに力を注いだらどうだ」
ルイスがこちらに視線を投げかける。
彼も、妹が心配なのだろう。
「フィアンセ候補などいないよ」
アレスは小さく笑った。
「我が国民であれば気には掛けるが、愛してもいない女に注ぐ恋情は持ち合わせていない。
愛する女としか契る気はない。以上が、結婚にまつわる事柄についての俺の見解だ。
独身を生涯貫く結果になったとしても、俺には優秀な兄弟がいる。奴が世継ぎを残してくれるさ。」
「婚姻によって構築されるのは夫婦関係だけではないだろう。
有力な親類縁者を新たに獲得するというメリットも捨てる気か」
「カストル・セーレらしくない発言だな。
おまえほど、利害より情を優先させる男もいないだろうに」
カストルは押し黙って視線を逸らした。
彼がアレスに政略的結婚を勧めてくる理由は、妹への情愛以外なにものでもない。
そしてアレスは、外戚の力に頼り切るような治世を敷く気は毛頭なかった。
「ルイス」
ドアノブに手を掛けながら、アレスは言った。
「今後、森の魔女の報告はおまえから届けるように。カストルを経由せずにな」
「――はい」
ルイスは静かに一礼した。
エルサが目を覚ましたのは、夕暮れ時のことだった。
この時期の西日は、紫がかって冷えている。
暖炉には火が焚かれているため、室内は暖かかった。
「おはよう、エルサ」
やわらかな声が聞こえてきて、エルサは枕に頭を預けた状態のまま、顔をそちらに傾けた。
「おはよう、ございます……」
どこか夢見心地にエルサは言った。
いま目の前にいる人が、自分に与えてくれる安心感の大きさを、不思議に思った。
まるごと包み込んでくれるような、力強いものを感じるのだ。
アレスは、ベッド脇に置いた椅子に腰を下ろして本を読んでいたようだった。
それを閉じてサイドテーブルに置く。
「どこか痛いところや、苦しいところはないか?」
「ないです」
答えた声は掠れていたが、体の状態は良好だった。
アレスの指が、エルサの頬にかかった銀の髪を優しく寄せた。
エルサの胸が小さく高鳴る。
「朝からずっと……城塞にいてくださったのですか」
「きみのことが心配で、王城に帰る気になどとてもなれなかったからね」
国王の執務で毎日忙しいだろうに、エルサは申し訳ない気持ちになる。
アレスは笑って言った。
「俺は普段から放蕩の限りを尽くしている不良国王だから、一日くらい城を空けたってだれも驚かないのさ」
「けれど、アレス様は大切な御身なのですから、お出掛けになるときは、たくさんの近衛兵の方々が随伴されるでしょう?
本日はお一人をお連れになっていただけですから、皆様ご心配になっているのではないでしょうか」
「外出の際は、従者一人いれば事足りる。なんなら単身でもいいくらいだ。
大仰な近衛行列など鬱陶しいだけだからな。自分の身くらい自分で守れるさ」
エルサは、朝に目撃したアレスの炎を思い出した。
確かにあの魔力があれば、どんな者にも打ち勝てるだろう。
ヒキガエルにされてしまったのは、相手が悪かったからかもしれない。
相手が『嘆きの魔女』というだけでなく、湖畔で一人泣いていた少女だったからだ。
この国王は、そういう者に対して攻撃魔術を躊躇なく放てるような人ではない。
もし、森の魔女が仕掛けてきたのが変身魔術ではなく、すぐさま命を奪うような殺傷能力の高い魔術だったら、その限りではなかったかもしれないが……。
「今朝の襲撃は、森の魔女のものだったのですか」
「それでほぼ確定だというのがルイスの言だ。
俺も同意見だよ。
あの、魔術の理を一切無視したような、傍若無人な魔力には覚えがある。
あの少女に間違いない」
エルサは、アレスたちが襲撃を鎮圧した後のことを思い出した。
少女のすすり泣く声が聞こえたような気がして、それが心の奥深くにまで食い込んできて、自分は意識を失った。
自分と彼女は、同じ特質を持つ魔女だ。
エルサが彼女からの影響を受けても、不思議ではないのかもしれない。
「森の魔女は……一人きりでいるのでしょうか」
アレスに聞くというよりは、自問するようにエルサは呟いた。
「私と同じ年頃で、暗い三日月の夜に、森の中で泣いているような少女には、近くにだれもいないのでしょうか」
「ルイスによると、森に潜んでいる人間は彼女一人のようだよ」
アレスは、感情を極力排したような口調で言った。
「森の魔女を見つけたのち、彼女にはどのような裁可が下されるのですか?」
「曲がりなりにも俺は国王だからな。
国の法に則れば、死罪ということになる」
予測していたことだったが、血の気が引いた。
アレスは続ける。
「ただし俺を初めとする王族は、死刑制度を撤廃するために数年前から動いている。
冤罪だった場合、取り返しがつかないからな。
例えば、魔術による殺人や呪殺があった場合、物的証拠が残りにくい。
最終的に頼るのは、目撃証言や被疑者の自白のみとなる。これでは心許ないこと甚だしい」
「では、森の魔女が死刑を賜ることはないと?」
「本人の状態を確かめてからの判断にはなるが、いまのところ俺にそのつもりはないよ。
彼女はどう見ても十五歳前後の未成年だったし、まずは保護を目的として動いている。
ただ、保護した後に、カストルがどういう意見を出してくるかはわからないがな」
兄は、もしかしたら森の魔女を眠らせるべきだと主張するかもしれない。
セーレの当主としての、また『黄金の魔術師』筆頭としての、それが彼の使命だからだ。
――『嘆きの魔女』は、重大な辛苦に精神を食い荒らされ、制御不能の魔力に体を乗っ取られてしまう。
エルサが『嘆きの魔女』になりかけたとき、苦しげな声でカストルが弟たちに話していた言葉が蘇る。
エルサはそれを、ベッドに横たわって荒れた呼吸を繰り返しながら聞いていた。
――生きている限り嘆き続ける、それが『嘆きの魔女』だ。
そんな生き地獄にエルサを落とすくらいなら、安らかに眠らせてやったほうが、あの子の救いになるかもしれない。
「どうすることが、最善なのでしょう」
またしてもエルサは、小さな声で自問した。
「どうすれば森の魔女を救えるのでしょうか」
「ああ、そうだな。難題だが、解決策を考えなければならないな」
アレスは、上掛けを引き上げてエルサの肩まで戻した。
いつの間にか下がってしまっていたようだ。
「しかし、エルサは恐ろしくはないのか?
あの白髪はきみを狙い打ちしていた。
自分を攻撃してきた相手を気遣うのは、理に適わないとも思うのだが」
「森の魔女はわたしを狙っていたのですか?」
「気付いていなかったのか」
エルサはうなずいた。
それでも、不思議と森の魔女への恐怖は生まれなかった。
彼女に向かう感情は、憐れみでも慈しみでもない。
エルサは、改めてアレスを見つめた。
「重ねてお礼申し上げます、アレス様。
襲撃から守ってくださって、ありがとうございました」
「生真面目で義理がたいところは、だれに似たのかな」
アレスは可笑しそうに言った。エルサもつられてほほ笑む。
「先日、わたしはアレス様からのご好意をお断りしてしまいました。
ご不興を買ってもおかしくなかったのに、助けていただいた上に、いまの時間まで城砦に留まってくださって、本当に恐れ多いのです」
「俺の好意を断った?
ああ、外に出るよう勧めたことか。
いつの間に俺は失恋していたのだと思って、衝撃を受けたぞ」
「し――失恋だなんて」
軽口だとわかっていても、頬が赤らんでしまう。
恋愛について免疫がない自分が、恥ずかしかった。
「わたしのような者をからかうのは、おやめください」
「きみのような者とは、いま俺の目の前で無防備に横たわっている、菫色の瞳の妖精のことを言っているのかい?」
アレスのてのひらが頬にふれた。彼の体熱を感じて、エルサの鼓動がますます早まっていく。
「そういうことではなく、あの、わたしはただ、感謝の意を申し上げたいと」
「どういたしまして」
頬に手を添えたまま、アレスは上体を屈めてエルサの額に口づけた。
深い意味のないキスだとわかっているが、それでもエルサは耳まで赤くしてしまう。
「身を呈して可憐な姫を助けるのは男の誉れだ。きみは素敵な女の子だよ。
もっと堂々としておいで。
可憐だとか素敵だとかいう月並みな言葉は、シスコン病者の兄たちから散々聞かされているだろうけどね」
もうなにも言い返せないでいるエルサを、アレスは愛しげに見つめた。
「身辺にはくれぐれも気をつけて。また会いにくるよ」