20 結婚について

 アレスはカストルに視線を戻した。

 カストルは、自分のつま先を見つめながら押し黙っている。なにかを考え込んでいる様子だ。
 しかし、アレスがその内容を聞き出そうとしたとしても、カストルはつっぱねるだろう。

 アレスは内心嘆息した。

 ロキは姿すら現さないし、ルイスはなんらかの秘密を保持している様子である。
 ここの兄弟は揃いも揃って、国王に対して非協力的な傾向が強すぎる。

 その原因は亡き父の暴言にあるのだから、彼らを責めることはできないのだが。

 アレスはソファの背もたれから体を離した。

「今日の話はここまでだ。
 エルサの様子を見にいってくる」

 憔悴を引きずった表情で、カストルが顔を上げた。

「アレス。
 貴様には想い人はいないのか」

「おまえが俺の恋路を気に掛けてくれていたとは、意外だったな」

「国王であれば、フィアンセ候補の一人や二人、必ずいるだろう。
 エルサを気にかけるのではなく、そちらに力を注いだらどうだ」

 ルイスがこちらに視線を投げかける。
 彼も、妹が心配なのだろう。

「フィアンセ候補などいないよ」

 アレスは小さく笑った。

「我が国民であれば気には掛けるが、愛してもいない女に注ぐ恋情は持ち合わせていない。
 愛する女としか契る気はない。以上が、結婚にまつわる事柄についての俺の見解だ。
 独身を生涯貫く結果になったとしても、俺には優秀な兄弟がいる。奴が世継ぎを残してくれるさ。」

「婚姻によって構築されるのは夫婦関係だけではないだろう。
 有力な親類縁者を新たに獲得するというメリットも捨てる気か」

「カストル・セーレらしくない発言だな。
 おまえほど、利害より情を優先させる男もいないだろうに」

 カストルは押し黙って視線を逸らした。

 彼がアレスに政略的結婚を勧めてくる理由は、妹への情愛以外なにものでもない。

 そしてアレスは、外戚の力に頼り切るような治世を敷く気は毛頭なかった。

「ルイス」

 ドアノブに手を掛けながら、アレスは言った。

「今後、森の魔女の報告はおまえから届けるように。カストルを経由せずにな」

「――はい」

 ルイスは静かに一礼した。

 エルサが目を覚ましたのは、夕暮れ時のことだった。

 この時期の西日は、紫がかって冷えている。
 暖炉には火が焚かれているため、室内は暖かかった。

「おはよう、エルサ」

 やわらかな声が聞こえてきて、エルサは枕に頭を預けた状態のまま、顔をそちらに傾けた。

「おはよう、ございます……」

 どこか夢見心地にエルサは言った。

 いま目の前にいる人が、自分に与えてくれる安心感の大きさを、不思議に思った。
 まるごと包み込んでくれるような、力強いものを感じるのだ。

 アレスは、ベッド脇に置いた椅子に腰を下ろして本を読んでいたようだった。
 それを閉じてサイドテーブルに置く。

「どこか痛いところや、苦しいところはないか?」

「ないです」

 答えた声は掠れていたが、体の状態は良好だった。

 アレスの指が、エルサの頬にかかった銀の髪を優しく寄せた。
 エルサの胸が小さく高鳴る。

「朝からずっと……城塞にいてくださったのですか」

「きみのことが心配で、王城に帰る気になどとてもなれなかったからね」

 国王の執務で毎日忙しいだろうに、エルサは申し訳ない気持ちになる。

 アレスは笑って言った。

「俺は普段から放蕩の限りを尽くしている不良国王だから、一日くらい城を空けたってだれも驚かないのさ」

「けれど、アレス様は大切な御身なのですから、お出掛けになるときは、たくさんの近衛兵の方々が随伴されるでしょう?
 本日はお一人をお連れになっていただけですから、皆様ご心配になっているのではないでしょうか」

「外出の際は、従者一人いれば事足りる。なんなら単身でもいいくらいだ。
 大仰な近衛行列など鬱陶しいだけだからな。自分の身くらい自分で守れるさ」

 エルサは、朝に目撃したアレスの炎を思い出した。
 確かにあの魔力があれば、どんな者にも打ち勝てるだろう。

 ヒキガエルにされてしまったのは、相手が悪かったからかもしれない。
 相手が『嘆きの魔女』というだけでなく、湖畔で一人泣いていた少女だったからだ。
 この国王は、そういう者に対して攻撃魔術を躊躇なく放てるような人ではない。

 もし、森の魔女が仕掛けてきたのが変身魔術ではなく、すぐさま命を奪うような殺傷能力の高い魔術だったら、その限りではなかったかもしれないが……。

「今朝の襲撃は、森の魔女のものだったのですか」

「それでほぼ確定だというのがルイスの言だ。
 俺も同意見だよ。
 あの、魔術の理を一切無視したような、傍若無人な魔力には覚えがある。
 あの少女に間違いない」

 エルサは、アレスたちが襲撃を鎮圧した後のことを思い出した。

 少女のすすり泣く声が聞こえたような気がして、それが心の奥深くにまで食い込んできて、自分は意識を失った。

 自分と彼女は、同じ特質を持つ魔女だ。

 エルサが彼女からの影響を受けても、不思議ではないのかもしれない。

「森の魔女は……一人きりでいるのでしょうか」

 アレスに聞くというよりは、自問するようにエルサは呟いた。

「私と同じ年頃で、暗い三日月の夜に、森の中で泣いているような少女には、近くにだれもいないのでしょうか」

「ルイスによると、森に潜んでいる人間は彼女一人のようだよ」

 アレスは、感情を極力排したような口調で言った。

「森の魔女を見つけたのち、彼女にはどのような裁可が下されるのですか?」

「曲がりなりにも俺は国王だからな。
 国の法に則れば、死罪ということになる」

 予測していたことだったが、血の気が引いた。

 アレスは続ける。

「ただし俺を初めとする王族は、死刑制度を撤廃するために数年前から動いている。
 冤罪だった場合、取り返しがつかないからな。
 例えば、魔術による殺人や呪殺があった場合、物的証拠が残りにくい。
 最終的に頼るのは、目撃証言や被疑者の自白のみとなる。これでは心許ないこと甚だしい」

「では、森の魔女が死刑を賜ることはないと?」

「本人の状態を確かめてからの判断にはなるが、いまのところ俺にそのつもりはないよ。
 彼女はどう見ても十五歳前後の未成年だったし、まずは保護を目的として動いている。
 ただ、保護した後に、カストルがどういう意見を出してくるかはわからないがな」

 兄は、もしかしたら森の魔女を眠らせるべきだと主張するかもしれない。

 セーレの当主としての、また『黄金の魔術師』筆頭としての、それが彼の使命だからだ。

 ――『嘆きの魔女』は、重大な辛苦に精神を食い荒らされ、制御不能の魔力に体を乗っ取られてしまう。

 エルサが『嘆きの魔女』になりかけたとき、苦しげな声でカストルが弟たちに話していた言葉が蘇る。
 エルサはそれを、ベッドに横たわって荒れた呼吸を繰り返しながら聞いていた。

 ――生きている限り嘆き続ける、それが『嘆きの魔女』だ。
 そんな生き地獄にエルサを落とすくらいなら、安らかに眠らせてやったほうが、あの子の救いになるかもしれない。

「どうすることが、最善なのでしょう」

 またしてもエルサは、小さな声で自問した。

「どうすれば森の魔女を救えるのでしょうか」

「ああ、そうだな。難題だが、解決策を考えなければならないな」

 アレスは、上掛けを引き上げてエルサの肩まで戻した。
 いつの間にか下がってしまっていたようだ。

「しかし、エルサは恐ろしくはないのか?
 あの白髪はきみを狙い打ちしていた。
 自分を攻撃してきた相手を気遣うのは、理に適わないとも思うのだが」

「森の魔女はわたしを狙っていたのですか?」

「気付いていなかったのか」

 エルサはうなずいた。

 それでも、不思議と森の魔女への恐怖は生まれなかった。

 彼女に向かう感情は、憐れみでも慈しみでもない。

 エルサは、改めてアレスを見つめた。

「重ねてお礼申し上げます、アレス様。
 襲撃から守ってくださって、ありがとうございました」

「生真面目で義理がたいところは、だれに似たのかな」

 アレスは可笑しそうに言った。エルサもつられてほほ笑む。

「先日、わたしはアレス様からのご好意をお断りしてしまいました。
 ご不興を買ってもおかしくなかったのに、助けていただいた上に、いまの時間まで城砦に留まってくださって、本当に恐れ多いのです」

「俺の好意を断った?
 ああ、外に出るよう勧めたことか。
 いつの間に俺は失恋していたのだと思って、衝撃を受けたぞ」

「し――失恋だなんて」

 軽口だとわかっていても、頬が赤らんでしまう。
 恋愛について免疫がない自分が、恥ずかしかった。

「わたしのような者をからかうのは、おやめください」

「きみのような者とは、いま俺の目の前で無防備に横たわっている、菫色の瞳の妖精のことを言っているのかい?」

 アレスのてのひらが頬にふれた。彼の体熱を感じて、エルサの鼓動がますます早まっていく。

「そういうことではなく、あの、わたしはただ、感謝の意を申し上げたいと」

「どういたしまして」

 頬に手を添えたまま、アレスは上体を屈めてエルサの額に口づけた。

 深い意味のないキスだとわかっているが、それでもエルサは耳まで赤くしてしまう。

「身を呈して可憐な姫を助けるのは男の誉れだ。きみは素敵な女の子だよ。
 もっと堂々としておいで。
 可憐だとか素敵だとかいう月並みな言葉は、シスコン病者の兄たちから散々聞かされているだろうけどね」

 もうなにも言い返せないでいるエルサを、アレスは愛しげに見つめた。

「身辺にはくれぐれも気をつけて。また会いにくるよ」