日が沈んですぐに、ルイスは狩小屋に向かった。
アイリスと出会ったときに比べて、月は幾分か痩せており、光量が減っている。
「ルイス!」
扉を開けた途端に、腕の中にアイリスが飛び込んできたので、ルイスは面食らった。
「――アイリス」
「まだ月があんなに低い時間なのに、嬉しい。
今夜もベッドで一緒に寝てくれるの?」
アイリスの細い身体を抱きとめて、ルイスは彼女を見下ろした。
暖炉の火が、白い髪をチラチラと橙色に照らし出している。
その光景が、今朝見たアレスの炎と白髪の束をルイスに想起させた。
「話があるんだ、アイリス。
椅子に座って、僕の質問に答えてくれるかな」
「うん」
アイリスは素直に従った。
食卓のテーブルにつくアイリスの、隣の椅子をルイスは引く。
アイリスには、城砦を襲撃してエルサを害そうとした意思はないかもしれない。
意識の外で、『嘆きの魔女』の魔力が暴走していただけなのかもしれない。
この様子を見るに、記憶にすら留めていない可能性が高いように思われる。
だからルイスは、努めて優しくアイリスに聞いた。
「今朝はなにをして過ごしていたの?」
「湖に行ってたよ。
水で遊んだり、花を摘んだり。
朝ごはんも、そこで食べたよ。
そうしたら雪兎や小鳥がやって来たから、パンを分けてあげたの。
お昼にも同じ子たちが来たから、またパンをあげたんだよ。
そうしたら、毛並みや羽を撫でさせてくれたの」
「そう、良かったね。ねえアイリス、湖からも、城砦の尖塔が見えるよね。
きみは、そこをじっと見上げてたりした?」
そう質問したら、それまで上機嫌だったアイリスが表情を曇らせた。
「してない。見てなんかいないよ。
そんなことしたって、つまらないから」
アイリスはうつむいて、漆黒の片翼を指先で弄った。
「ルイスがいないときに、ルイスのことを考えたりなんかしない」
自分の言葉の中にどれほどの寂しさが存在しているかということを、恐らくアイリスは気付いていないのだろう。
ルイスは、城砦に住む家族のことを――アイリスと同じ年の妹の存在を、アイリスに教えたことを悔いた。
あまりにも配慮を欠いていた。
どうにもならない寂しさを抱えて、寒空の下、鳥や兎に囲まれながら、アイリスは孤独に城砦の尖塔を見上げていたのだ。
城砦に帰っていったルイスを思い、そして自分と同じ年だという妹のことを考えたのかもしれない。
その思念が、清らかなものではなかったことを、誰が責められるだろう。
兄のカストルは以前、こう表現していた。
「『嘆きの魔女』は重大な辛苦に精神を食い荒らされ、制御不能の魔力に体を乗っ取られてしまう」存在であると。
死ぬまで嘆き続ける存在であると。
そんな境遇に落ちながらも、必死に生きようとしているアイリスは――、可愛い笑顔すら時に見せてくれるアイリスは、自分などよりもよほど優れている。
矮小な自分が彼女を守ろうとするなど、おこがましいことなのかもしれない。
ともあれ問題はこれからのことだった。
ルイスが狩小屋を離れて城砦に帰るたびに、アイリスが寂しさを募らせて、城砦の結界を破り、エルサたちを襲うかもしれない。
それを止める手立てが、ルイスにはない。
この無慈悲な事実は、『嘆きの魔女』を眠らせるしかなかった三百年前のセーレの先祖が直面したものと、同じなのかもしれない。
魔女を眠らせた先祖は、そのときどういう心境だったのだろう。察するに余りある。
うつむくアイリスを見下ろしながら、ルイスはゆっくりと絶望した。
アイリスを救うつもりだった。
救ったつもりでいた。
けれど自分のしたことは、彼女を袋小路に追い詰めるのと同様だったのではないか。
『僕がいないあいだに、僕や僕の家族のことを考えないようにしてほしい』とアイリスに伝えたところで、無意味だろう。
考えるな、と言われた瞬間にそのことを頭に浮かべてしまうのが、人間というものだからだ。
エルサを襲撃したアイリスを、カストルは放置しておかないだろう。
国王はどうだろうか。
慈悲深き王ではあれど、一度覚悟を決めたら非情な手段にも打って出るような意志の強さが、彼にはある。
一方でロキは、エルサを庇い守るのではなく、突き放すことによって鍛えようとする節がある。
であれば、アイリスを放置することを選ぶかもしれない。
そして自分は。
「黒兎がいたの」
アイリスが脈絡のないことを言った。
ルイスは現実に引き戻された。
「――黒兎?」
「うん。
鳥や、白い雪兎たちにパンをあげていたら、全身真っ黒で、金色の瞳をした黒兎が来たの。
パンをあげたんだけど食べなくて、でもわたしの膝にピョンと乗って、甘えてきたんだ。
すごく可愛かった」
ルイスは息を飲んだ。
言葉が出なかった。
「いたずら好きな子でね、わたしがあげたパンのかけらを、わざと鼻先で上に放り投げるんだよ。
わたしが慌ててそれをキャッチすると、今度はその手をかぷっと噛んできて、黒兎は怒ったふりをするの。
全然痛くなかったんだけど、わたしが痛いからダメって言うと、大袈裟なくらい体をぷるぷる震わせて、擦り寄ってくるんだ。
それで、いいこいいこって撫でて、パンをあげると、また放り投げるんだよ」
アイリスは無邪気に笑う。
「あの子とは友達になれた気がする。
友達なんて、できたことないからわからないけれど、でも、友達になれた気がするの」
金色の目をした黒兎、その正体を瞬時にルイスは悟っていた。
やがて衝撃から立ち直り、気持ちを整理するために息をつく。
もしかしたら、襲撃が二度で終わったのは、その黒兎がアイリスの意識を逸らしてくれたことによるのかもしれない。
「……アイリスの友達に、僕も今度会ってみたいよ」
「うん、今度紹介するね。
冬眠しちゃったらもう会えないけれど、また会えるといいなぁ」
弟がなにを考えているのか、現段階ではまだわからない。
ロキは今日、襲撃の最中(さなか)も後も姿を現さなかった。
恐らくはアイリスの側にいたのだろう。
アイリスの正体に、ロキは気づいたに違いない。
そして、彼女をルイスが匿っていることにも、気づいたに違いない。
「黒兎は友達だけど、どうしてかな。
ルイスは、友達っていう感じがあんまりしないな」
ルイスを見上げながら、不思議そうにアイリスが言った。
アイリスの髪をルイスは撫でる。
「無理しないでいいよ。
僕を友達だと自然に思えるようになるまで、アイリスは自由にしていていいんだ」
「そういう意味じゃないの」
アイリスは慌てたように首を振った。
「そうじゃなくて――、ええと、なんて言ったらいいんだろう。
言葉が見つからないけど、そういう意味じゃなくて……。
じゃあ、ルイスは、わたしのことを友達だって思ってる?」
ルイスは虚をつかれた。
どうしてか、純粋な瞳で質問してくるアイリスに対して、自分がひどく穢れているような感覚を持った。
「僕は――」
痺れるような舌を動かして、ルイスは言う。
「僕は、アイリスのことを大切に思っているよ。
妹のような存在だと思ってる」
まるで肉親のような。
一つ同じの胎内から生まれ出でた者たちのごとく、魂の奥底で離れがたく繋がりあっているような。
(いや――違う)
思い至り、ルイスは息を止めた。
繋がり合っているわけではない。
一方的に、自分がアイリスを両腕に捕えて離さないだけだ。
精緻に編み上げた黄金の籠に閉じ込めて、誰の手にも、誰の目にもふれさせないようにしているだけだ。
エゴイスティックな自身の性質に、ルイスは嫌悪感を催した。
実の妹エルサに対する在り様(よう)とはまったく違う。
それどころか、これまで出会った誰に対してでさえ、アイリスに向けるような感情を持ったことはない。
「妹のような存在?」
ルイスの言葉を、アイリスは繰り返した。
難題を前にしたような表情をしている。
「ルイスの妹は、なんていう名前なの?」
「きみが知らなくてもいいことだよ、アイリス」
ルイスの胸底がチリチリと熱を帯びる。
返答を拒否されて、アイリスは眉を釣り上げた。
「どうして?
内緒にするなんておかしいよ。
いますぐ教えてよ」
「アイリスは、僕の名前を知っているだろう?」
憤っているアイリスの、桃色のくちびるを親指で辿る。
やわらかく、それでいて張りのある弾力に、ルイスの体内の熱がさらに高まっていく。
きみは僕の名前だけを知っていればそれでいい。
本能にもっとも近い場所にある思念が、ルイスにだけ聞こえる声で、ささやいた。
ルイスの意識はそれを知覚したが、あまりにも恐ろしい言葉だったから、すぐさま本能の奥底に押し込めた。
エルサの名をアイリスに教えないのは、アイリスのためだ。
アイリスの孤独を、これ以上深くさせないためだ。
ルイスは自分にそう言い聞かせた。
アイリスは完全にヘソを曲げている。
いまにも立ち上がって、椅子を蹴倒しそうな勢いである。
ルイスは、アイリスのくちびるから指を離した。
同じような手つきで、今度は彼女の頬にふれる。
「ごめん、アイリス。お詫びに明日、街に遊びに行こう。
欲しい物をなんでも買ってあげる。
食べたい物を食べて、行きたいところへどこでも連れていくよ」
アイリスはパッと顔を上げた。
怒りが消えて、瞳が輝く。