22 劣情

「なんでもいいの?
 どんなものも買ってくれるの?」

 今日、アイリスが無意識に攻撃魔術を行使してしまった理由は、強い孤独感のせいだ。

 寂しさを少しでも癒すことができれば、力を抑制させることができるかもしれない。

「なんでもいいよ。
 なにが欲しい?」

「あのね……」

 アイリスは、もじもじしながら言った。

「アイスクリームが食べたい」

「アイスクリーム?」

「うん。
 昔、ママが一度だけ食べさせてくれたの。
 白色のアイスクリーム。
 夏でね、すごく暑くて、でもわたしは部屋から出られなかったから、お姉ちゃんたちみたいに涼みに行くこともできなくて。
 暑い暑いってママに泣きついたら、買ってきてくれたの。
 お姉ちゃんたちには内緒だよって」

 庶民にとって、アイスクリームは贅沢な嗜好品だ。
 大好きなは母親が、自分だけに買ってくれたお菓子に、アイリスは甘い味覚以上の幸せを感じたに違いない。

 ルイスは思案した。

 公爵家次男のルイスからしたらささやかなおねだりではあるが、いまは冬だ。
 売っている店が見つかるかどうかわからない。

 アイリスは、昔を懐かしむように瞳を潤ませた。
 片方しか残っていない緑色の瞳が、エメラルドのようにきらきらと光る。

「甘くて、冷たくて、夢みたいに美味しかった。
 また食べたいってずっと思ってたけど、それ以来一度も食べられたかったの。
 もう一度食べられるなら、きっとすごく幸せだろうなぁ」

「じゃあ探しに行こう」

 愛おしくなって、ルイスはアイリスの髪に口づけた。

「明日の朝迎えに来るよ。
 アイスクリームを探しながら街を歩こう」

「うん」

 アイリスは嬉しそうに笑った。
 しかし、ふとなにかに気付いたように表情を曇らせる。

「街って、森を下ったところにある大きな街のこと?」

「そうだよ、王都だ。
 アイリスは王都に住んでいたの?
 それとも、近くの村?」

 アイリスは無言でうつむいた。
 答えたくないようだ。

 ルイスは優しく聞いた。

「王都には行きたくない?」

 アイリスは首を振る。
 白い髪が揺れて、失われた右目が垣間見えた。

「大丈夫。……でも」

 アイリスの小さな手が、ルイスのローブをつかむ。

 弱々しい声で言った。

「行くときは、これを貸して。
 フードを被って、白い髪も、右の目も、わたしの顔も、外から見えないようにして」

 ルイスの腹の底から、歓喜がぞくりと湧き上がった。

 片目の翠玉が、なにかに怯えるように潤みながら、ルイスを見上げた。

「わたしだと気づかれないように、ルイスのローブで誰の目からも隠して」

「ああ、わかったよ、アイリス」

 ささやいて、アイリスの手に自身のそれを重ねた。

 穢れた熱情が声に滲まないよう、細心の注意を払った。

 元よりそのつもりだったと――そうする理由は、王城の手の者やカストルからアイリスを隠すためだったと、誰に聞かせるわけもなく言い訳をした。

 アイリスは安堵の表情になった。
 そして、無防備に笑った。

「ありがとう、ルイス」

 瞬間ルイスは、ここに今夜泊まってはいけないことを悟った。

 腹の下が熱く疼くのを、信じられない思いで自覚しながら、その衝動に身を任せてはいけないと己を強く律した。

 もう帰っちゃうの、と寂しそうに言うアイリスに、明日の約束を再度告げて、ルイスは狩小屋を後にした。

 翌朝は、寒いながらも晴天だった。
 アイスクリームは、思いのほか簡単に見つかった。

 上流階級の人間が出入りするような種類のカフェに、バニラアイスが売られていたのだ。

「強く焚いた暖炉の前でアイスを食べるというのが、ちょっとした娯楽なんだそうですよ」

 陶器の器をテーブルに置きながら、店主は言った。

 器に盛られた丸いバニラアイスを見て、アイリスは歓声を上げた。
 フードの奥に隠れて見えないが、その目はさぞ輝いていることだろう。

「ですので、いまの時期でもアイスクリームは売れるんです。
 食べ終わった後に、熱いコーヒーや紅茶を飲むのも乙なのだそうで。
 お客様も、そうなさいますか?」

 アイリスがうなずいたので、ルイスはアイリスの好きな紅茶をオーダーした。
 店長は、ルイスの前にコーヒーを置きながら「承りました」とテーブルを離れていく。

 飴色の木材で統一された店内に、客の影はまばらだ。
 午前九時の時間帯なので、ほとんどの都民は仕事に出掛けているのだろう。
 働く必要のない上流階級の人間は、この時間からやっと起き出したような頃だ。

「すごく美味しい。
 頬が落ちそう」

 一口食べて、アイリスがうっとりした声で言う。
 ルイスは幸せな気持ちになった。

「ゆっくりお食べ。
 お腹を壊すといけないからお代わりはなしだけど、また近いうちに連れてきてあげるからね」

「うん」

 アイリスは夢中で食べている。
 彼女の身をすっぽりと包んでいるのは、灰色のローブである。

 黒地に金糸の刺繍が入っているローブは、一目で『黄金の魔術師』のものだとわかってしまう。
 それに、アイリスにはサイズが大きすぎるため、新しい物をルイスが調達したのだ。

 ルイスも今日はローブを着ないで、普段着用の三つ揃のスーツと外套を選んだ。

 都民の中には、顔をよく見ればルイスだと気づく者もいるだろうが、そう多くない。気づかれたくないときは、ルイスたち兄弟は普段着で街へ下りるのが常だった。

 店内に足を踏み入れると同時に、ルイスは四人の客たちに目を走らせている。
 それぞれに朝のひととときを楽しんでいる者たちで、城砦の関係者はもちろん、国王配下の者は一人もいないことを確認済みだ。

「ルイスはアイスクリーム食べないの?」

 スプーンを手にしたままアイリスは首を傾げる。

「僕は甘いものがあんまり得意じゃないんだ。
 このコーヒーも、砂糖やミルクを入れてないんだよ」

「そうなの?
 苦そう」

 アイリスは顔をしかめた。ルイスは頬をほころばせる。

「アイリスは、コーヒーを飲むならいつもカフェオレだからね」

 テーブル越しに手を伸ばして、フードから零れそうになっていた白髪をルイスは隠してやった。
 指にふれた髪の感触に、劣情が湧くことはなかった。
 人知れず、ルイスは安堵する。

 きっと夜がいけないのだ。

 三日月の夜は光量が少ない。
 利己的な男の熱情を暴き立てる光が足りない。

 だから、獣の本性が首をもたげるのだ。

 朝の清浄な光の中では、それの付け入る隙がない。
 アイリスの可愛い笑顔を、純粋な気持ちで見つめることができる。
 これこそが、自分の望む穏やかな幸福なのだと、ルイスは感じた。

 アイリスがアイスクリームを完食し、満足そうな表情で温かい紅茶も飲み終わった。
 また来ることを約束し、ルイスとアイリスはカフェを出た。

 路上は、買い物客らの話し声や、上流階級の者の乗る馬車の音で賑やかだ。
 花売りの娘や靴磨きの少年が、時折声を掛けてくる。

 声を掛けられるたびにアイリスが身を固くして怯えるので、何枚かの硬貨だけを彼らに渡して、ルイスはアイリスの手を取り歩道を進んだ。

「ネックレスは今日もちゃんとつけてる?」

 アイリスはうなずいて、ローブの下から黒い片翼を引っ張り出した。
 確認した後それを元に戻して、ルイスはアイリスにほほ笑んだ。

「ほかに欲しいアクセサリーはない?
 ブレスレットやイヤリング、髪飾りや新しい服も、なんだってプレゼントするよ。
 それとも、公園の噴水を見に行くかい?
 薔薇園や、ボートに乗れる池もあるよ。
 可愛い魚たちが泳いでいるんだ。
 アイリスは生き物が好きだから、きっと気にいるよ」

「わたし――」

 うつむきながら歩くアイリスは、店内で見せた様子とはガラリと違っていた。
 なにかに怯えるように身を縮めて、ルイスの腕に縋りつくように自身の腕を巻きつけている。

 王都に入るときは馬を使った。
 乗馬は初めてというアイリスを前に乗せ、細い腰を抱くようにして座り、馬を走らせた。
 動物好きのアイリスは喜んでいたが、王都に着いて人々が行き交うのを目にした途端、元気をなくしてしまった。

「わたし、狩小屋に帰りたい」

 アイリスは、消え入りそうな声で呟いた。

「アイスクリームが食べたいだけだったの。
 だから、もう帰る」

「本当にいいの?」

 アイリスは小さくうなずいた。

 王都に嫌な思い出があるのかもしれない。
 もし、彼女が『嘆きの魔女』となった辛苦の元凶がここにあるのだとしたら、アイリスの言うとおりにしたほうがいいだろう。

 アイリスにもっと楽しんでもらいたいという思いがあったのだが、ルイスは「なら帰ろうか」と彼女の背を促した。

 馬は、森の方面にある料理屋の厩番(うまやばん)に預けてある。
 厩は料理屋の裏手にあるので、路地を曲がり、ひとけのない道に差し掛かったときだった。

「ねえ、ちょっと、あんたアイリスじゃない!?」

 年若い女の声だった。
 アイリスの全身が、目に見えて強張った。

 振り返ると、二十歳前後くらいの女がこちらに駆け寄ってきていた。
 襟ぐりの深いワンピースを着て、胸の谷間と両肩を露出している。

 一見して娼婦とわかる出で立ちだ。

 ルイスがアイリスを見下ろすと、こちらの腕にしがみつくようにして固まっている。

「アイリス、彼女は知り合いかい?」

 小声で尋ねると、アイリスはかろうじてうなずいた。

 アイリスの知人が娼婦であるという事実に、ルイスは指先が冷える思いがした。