23 怒り

 もしかしたらアイリスも、同業だったのではないか。

「アイリスよね?
 フード被ってるから最初はわからなかったけど、背格好や声も同じだもの」

 女が目の前まで来ると、アイリスはルイスの後ろに隠れてしまった。
 女は鼻白んだ様子を見せる。

「相変わらず陰気な子だね」

 ぞんざいな言い方だ。
 ルイスが女に視線を向けると、彼女もこちらを流し見た。

「旦那さん、アイリスのご主人?」

「――いや。
 失礼、あなたは?」

「あたしはエウル。
 その子の姉だよ」

 エウルと名乗った女は、尊大な態度で腰に片手を当てた。
 そういうポーズをとると、女性らしいラインが強調されて、こちらの目になまめかしく映る。
 恐らくは計算の内だろう。

 しかし、娼婦と思(おぼ)しき女がアイリスの姉とは。
 ルイスは衝撃に襲われた。

「ふうん。
 旦那さん、いい服着てるね。
 ずいぶんと羽振りが良さそう。
 アイリス、良い旦那に拾われたじゃない。
 冬空の下、のたれ死んでいるものとばかり思っていたけれど、あんたみたいな醜い子でも、やればできるもんだね」

 アイリスは隠れたまま動かない。
 『嘆きの魔女』の魔力が、彼女からじわじわと滲み出てきたのをルイスは感じた。
 
 このままではまずい。

 早急にこの女の前から立ち去るために、ルイスは彼女に目を向けた。

「アイリスの体調が悪いようなので、今日は失礼させていただきます」

「体調が悪いんじゃなくて、あたしと顔を合わせたくないだけよ。
 それにしても旦那さん、奇特な人だね。
 店に来る誰もが、この子の潰れた右目を見た途端に、病気持ちだって言って買うのを避けたっていうのにさ。
 旦那さんはこの子のなにが気に入ったの?
 肉づき?
 肌触り?
 喘ぎ声、それとも泣き声?
 ああ、潰れた右目に同情でもした?」

「アイリスが、きみと顔を合わせたくない理由がよくわかったよ」

 不快を露わにしてルイスは言った。

 エウルの発言によって、アイリスが娼館で働いていたということがはっきりした。
 その事実にも、ルイスは生皮を剥がれるような苦痛を感じた。

『客の誰もがアイリスを避けていた』という話が寸分違わず事実であればと、思わずにはいられない。

 ルイスの服をつかむアイリスの手が、細かく震え出した。

 これ以上彼女をエウルの前にいさせないほうがいい。

 ルイスは、アイリスを庇うようにして踵を返した。
 が、エウルに腕をつかまれて引き止められる。

「ちょっと待ってよ。
 ねえ、裕福な旦那さん、アイリスにはあたしと、もう一人姉がいるんだ。
 あたしたちは三人姉妹なんだよ。
 アイリスを気に入ったんなら、あたしたちのこともきっと気にいるよ。
 ほら、よーく見てごらんなさい。顔立ちが似てるだろう?
 体つきだって、あたしはグラマーなほうだけど、もう一人の姉はスリムなんだ。
 小柄で痩せっぽちのアイリスと似ているよ。
 あたしたちのこともまとめて面倒みてちょうだいよ」

「あなたは勘違いをしているよ。
 僕は故あってアイリスを保護しただけだ。
 愛人として囲っているわけじゃない。
 申し訳ないが、あなたの要望には応えられない」

「つれないことを言わないでさ」

 エウルが、ルイスの腕を豊満な胸に押し付けてくる。
 女のまろやかな弾力と香水の匂いに、嫌悪感が湧き立った。

 彼女が性を売る女性だから、嫌悪するのではない。

 アイリスを貶めてもなお、美味しい蜜を吸おうとする心根が、ルイスの道徳心と相反するのだ。

 艶めくくちびるを開いて、エウルは言う。

「あたしらはただの娼婦じゃないよ。
 シトリーの娼婦なんだ。
 初心そうな旦那さんでも、男なら、この娼館の名前を聞いたことくらいはあるだろう?
 美人揃いの床上手、あたしらを抱いて天国に行かない男などいやしない。
 ねえ、甲斐性持ちの旦那さん、あんたの愛はアイリスにあげる分しかないのかい?
 それじゃああんまり狭量じゃないか。あたしたち姉妹を揃って買い上げるというのはどうだい?
 シトリー娼婦(おんな)の手練手管で、これ以上ないほどの快楽を、旦那さんの望むなときに望むだけあげるよ」

 娼館シトリ――。

 金を積めば、どんな要望にも応えてくれるという噂の店だ。

 エウルの言うように娼婦の質は粒揃いだし、他店では敬遠されるような嗜癖を持つ客でも、金さえ積めば受け入れてくれる。
 良い意味でも悪い意味でも、名を馳せている娼館である。

 アイリスやエウルがシトリーの娼婦だということは、彼女らの母親もそうであった可能性が高い。
 彼女たち姉妹は、客に孕ませられた結果の娘だということだろう。

 母は、三人の娘を産んだのちも娼婦として働き続け、そして娘たちも母に倣ってその職に就いた。
 男好きのするエウルの外見を見るに、彼女は娼婦としてうまくやっているようだ。
 もう一人の姉はどうだかわからないが、アイリスは、潰れた右目のせいで娼婦としてはやっていけなかったのだろう。
 
 エウルのアイリスに対する態度や、以前アイリスから聞かされた姉についての話の内容からして、アイリスがお荷物として辛くあたられていたことは想像に難くない。

 それでも、優しい母親がアイリスをかばっていてくれたあいだは良かったのだろう。
 しかし、その母親も死んでしまった。

 だからアイリスは、シトリーから逃げ出した。

 王都から逃げて、城塞の森に逃げ込み、ルイスと出会った。

「ねえ旦那さん、お試しでもいいんだ。一度あたしを買っておくれよ。
 そうしたら良さがきっとわかるよ。
 ほら、シトリーはこっちだよ。案内するよ」

「帰りを急いでいるんだ。
 申し訳ないが、ほかを当たってくれ」

 白蛇のようなエウルの腕から自分のそれを取り戻し、ルイスはアイリスを促して、この場を立ち去ろうとした。

 すると、憎々しげな声がルイスの背中に突き刺さった。

「妹のくせに、姉のフォローを一つもしないのかい。
 一人だけいい思いをしやがって、この疫病神。
 あんたは死ぬまであたしらにのお荷物だよ。
 ママが死んでしまったのも、元はと言えばあんたのせいじゃないか」

 この言葉はアイリスに、深々と突き刺さったようだった。

 アイリスはびくりと体を強張らせて、両脚まで固まって、動けなくなってしまった。

「客を取れないあんたの分まで、身を粉にして働いて、ママはあんなにも早く逝ってしまったんじゃないか。
 全部全部、あんたのせいだ」

 エウルは鬼のような形相をしていた。
 フードの下で、アイリスの左目は瞬きすらできないで、標本にされたかのように縫いとめられていた。

「逃げ出した先で裕福な旦那に囲われて、自分だけ幸せになろうたってそうはいかない。
 この屑。出来損ない。おまえを見ていると腹の底から苛立ってくる。
 いつもウジウジしやがって、おまえは気性も腐ってんだよ。
 匂いを嗅ぐだけで、臭くて鳥肌が立つんだよ。
 いつも部屋の中でしてたみたいに、汚水をぶっかけて洗ってやろうか。
 硬いブラシで、血が出るまで全身をこすってやろうか」

「ごめんなさい、お姉ちゃん」

 上ずったような声をアイリスが上げた。

「ごめんなさい、お姉ちゃん。
 ごめんなさい」

「死ね。いますぐ死ねよ。
 そこの壁に頭を打ち付けて、いますぐ死ねよ」

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 底なしの恐怖に支配された表情で、アイリスは繰り返す。

 ルイスは、アイリスの目と耳を塞いだ上で、エウルの息の根を止めてやりたい衝動にかられた。
 事実、ルイスの利き手から静電気がパリパリと生じた。

 しかしアイリスが、必死の形相でルイスを見上げて「お願い、ルイス」と訴えてきたので、ルイスの魔力は行き場を失う。

 アイリスは、震える両手でルイスの外套をつかんだ。

「お願い、ルイス。
 エウルお姉ちゃんと、グライアお姉ちゃんに、お金をたくさん渡してあげて。
 毎月、たくさん渡してあげて。毎月、毎週、毎日でも、渡してあげて」

「アイリス――」

 ルイスは、アイリスの両腕を受け止めながら短く呻いた。
 エウルは、両目を皿のようにして、ルイスとアイリスを凝視している。

 エウルは、苦界に生きる苦悶と鬱憤を、獰猛な怒りに変えて、圧倒的弱者であるアイリスにぶつけている。
 捌け口にしている。そこに、アイリスの罪は一つもない。

 罪はないのだ。

「わたしのごはんを減らしてもいい。
 服も、新しいのを買ってくれなくてもいい。
 絵本ももういらないし、アイスクリームだっていらない。
 湖畔に遊びに行きたいなんてわがままも、もう言わないから」

 訴えは泣き声なのに、左目は乾ききっていて、ひどく充血していた。

「お願い、ルイス。
 お願いします」

 ルイスはたまらなくなって、アイリスを胸の奥に抱きすくめた。

 いまにも折れてしまいそうな華奢な体を両腕で守り、ルイスはエウルに目を向ける。

 エウルは、憤怒と憎悪の表情でこちらをじっと見つめている。
 アイリスと同じ緑色の瞳は、ルイスの財を期待する光が見え隠れしている。

 それを卑しいとは思わない。

 苦界に生きてなお、先へ先へと生きようとする彼女の強さを、まぶしくも思う。

 けれど、力無き者を虐げていい理由には決してならない。

 アイリスを傷つけることは決して許さない。

 ルイスは告げた。

「僕の名はルイス・セーレという」

 エウルがハッと息を飲んだ。

 この王国に住んでいてセーレの名を知らぬ者は、まだ言葉を知らぬ赤子くらいだろう。

 王家と袂を分かった、公明かつ厳格な当主カストルの性質も、国民に知れ渡っている。
 不道徳な行いを嫌い、これを容赦なく断罪することにおいて、セーレの右に出るものはいないことも、充分に承知されているだろう。

「あなたの妹はセーレの保護下にいる。
 これ以降、アイリスに対する虐待を固く禁じる。
 僕の許可なしにアイリスに面会することも許さない」

 頬を引き攣らせてエウルは一歩後ろに下がった。

 ルイスは続けて言った。

「あなたがこれを守るのであれば、過去の虐待を罰することはしないと約束する。
 ただし、罰しないだけだ。あなたの罪は残り続ける」

「あ、あたしは。
 ルイス様――セーレの魔術師様、どうかお聞きください、あたしは妹を虐待なんて」

「あなたが醜いと言ったこの子は、僕にとってとても可愛い、大切な子だよ」

 エウルは言葉を失った。

「セーレの人間という立場からは、僕はそういうことしか言えない。
 けれど一人の男として、あなたには別のことを伝えたい。
 過去にも、いまも、アイリスの心身を傷つけた罪は、未来永劫許しがたい。
 あなたがいま息をしていられるのは、僕が怒りを理性で押さえ込んでいるからだ。
 けれどそれもいつまで保つかわからない。
 黄金の結界があなたを絞め殺してしまう前に、この場からさっさと消えろ」