「おまえの気持ちはわかるけれど、この城砦を出て、森に連れていくことはできない。
カストル兄さんに遠慮しているわけじゃないよ。
森は危険なんだ。
森の魔女は、エルサを攻撃する可能性がある。
僕の結界でおまえを守ることはできるだろう。
でも、万が一ということもある。
わかるね?」
「……。
はい」
エルサは、弱々しく答えた。
「はい。
わがままを言ってごめんなさい、お兄様」
「わがままなんて、いくらでも言ってくれていいんだよ。
叶えてあげられなくてすまない」
落ち込むエルサを慰めるように、ルイスの手が銀の髪を撫でた。
「それに、今朝わかったことなんだけど、森の中に国王の手の者が潜み始めたようなんだ。
昨夜までいなかったから、放たれたのは今朝早くだと思う。
国王の子飼いは手練ればかりだから、森はよりいっそう物騒になっている。
エルサは近づかないほうがいい」
国王の子飼い。
アレスが部下に命じて、森の魔女の調査に、独自に乗り出したということだろうか。
「じゃあ、ルイス兄様とアレス様が協力体制を敷くことによって、より早く解決できそうということですか?」
「いや、そうじゃない。僕は国王に、森に部下を送るようなことをしないでほしいと伝えていたんだ。
それを了承したのに、国王は僕に一言も言わずに反故にした。
僕と協力する気はないという現れだ。
だから、そのことについていま彼と話し合ったのだけど……」
うまくいかなかった。
ルイスの表情から、そのことが読み取れた。
エルサが心配しながらルイスを見上げていると、ルイスはそれに気づいたように苦笑した。
「僕があんまりのろまだから、国王が痺れを切らしたんだよ。
もう少し時間が欲しいと訴えたのだけど、『少し休んでいろ』と言われてしまった。
エルサがさっき僕に指摘したようなのと同じ理由でね」
アレスは、ルイスの様子を気に掛けて、ルイスをしばらく休ませるために調査を代わったということなのだろう。
ルイスは独り言のように続けた。
「国王の本音は、森の魔女の標的がエルサであるからというのがいちばんだと思うけれど」
「わたしが……?」
「ともあれ僕も、しばらくは森を自由に動くことができなくなりそうだ」
ルイスは、仕方がないというように笑った。少なくとも、エルサにはそう見えた。
ルイスは同じ表情のまま、つぶやく。
「本当なら、毎日でも森に行きたいんだよ。
気になることばかりで、どうしようもない」
「仕事熱心なルイス兄様らしいお言葉ですけれど、これを機に、城砦でしばらくゆっくりお休みになったほうがいいと思います」
真剣に言うエルサに、ルイスはほほ笑んだ。
「ありがとう、エルサ」
「実に優しい妹だな。
俺にも兄弟が一人いるが、ここまで心温まる言葉を掛けられたことなどただの一度もないぞ」
割り込んできたのはアレスだった。
エルサがびっくりして振り向くと、エントランス階段を上って、アレスがすぐそばまで来ていた。
彼の従者は、階段の一番下に控えている。
エルサは慌てて頭を下げた。
「アレス様、お待たせして申し訳ございません。
つい、兄と話し込んでしまいました」
「構わないよ。
仲睦まじい兄妹を眺めているのは、こちらとしても気持ちが穏やかになるものだからね。
そんなことよりも、おはようエルサ。
今朝のきみも、花のように可愛いね。
鈴のような声も、やわらかく色づいた頬も、ここにだけ春が来たかのようだ」
エルサの手を取り、手袋越しの甲に口づける。
彼の熱を感じて、エルサは頬を赤くした。
「お、おはようございますアレス様」
「兄の前で堂々と妹を口説こうとするなど、陛下は豪胆でいらっしゃいますね」
ルイスは半ば呆れ気味に言う。
「加えて、僕らの話を盗み聞きとは人が悪い」
「セーレ兄妹は皆、誰を取ってもこの上なく興味を引かれるものでね。
ああそうだルイス、俺もエルサの意見に同意だよ。
これを機会に、おまえは充分に休養を取るといい」
「そのようなお気遣いは不要だと、先ほども申し上げました。
陛下には、森に放った子飼いどもを早急に引き上げていただきたいとだけ、要求いたします」
「エルサは、おまえのことを雰囲気が鋭くなったと表現していたが、それはごく控えめな表現だ。
俺から言わせれば、荒んでいるの一言だよ」
「まったく、いつから立ち聞きをされていたのだか」
ルイスはため息をついた。
国王に苛立っている様子が彼らしくなく、エルサはさらに心配を深めた。
「引き止めてごめんなさい、ルイス兄様。
さあ、お部屋に戻って休んでください」
「妹の健気な言葉には従うものだぞ、ルイス。
エルサの森への同行を断ったのだから、これくらいのことは聞いてやらねばな」
「約束ですよ、陛下。
あなたの部下を森で自由にさせるのは今日一日だけだ。
明日零時以降も彼らの気配を感じたなら、僕は強行的な手段も辞しません。
あの程度の者どもなら、僕一人の力で撃退できる。
それをくれぐれもお忘れなきよう」
「ルイス兄様……?」
ルイスの荒く鋭い言葉に、エルサは戸惑った。
アレスは口の端で笑う。
「おまえは確かにカストルの弟だよ、ルイス。
表面上は穏やかな分、起伏が激しいタイプだ。
気性が激しく、その上、嘘が下手ときている。
交渉事は、お調子者のロキにやらせたほうがまだマシかもしれないな」
「嘘?」
エルサは聞き咎めた。
「ルイス兄様は、アレス様に嘘なんてついていないと思います」
「俺も、ルイスがなにを謀っているのかまではわからないさ」
ルイスは不快げに眉を寄せた。
「どんな根拠があって僕を疑うのですか」
「すまないな、ただの勘だ。
エルサの前で話すことでもないし、また後日にでも改めよう」
「そうやって、僕に揺さぶりをかけているおつもりか」
「揺さぶり?
口先で小細工を弄するようなことは、俺のもっとも嫌うところだ。
あまり舐めないでもらえるか」
アレスとルイスのあいだの空気が険悪なものになる。
どうすればいいのかわからずエルサが途方に暮れていると、ふいにアレスが肩の力を抜いた。
「今日はルイスと喧嘩をしに来たわけではないんだ。
エルサの様子を見に来たのと、元気そうであれば、外出の誘いに来たんだよ」
エルサは目を丸くした。ルイスも同様のようで、言葉を失っている。
アレスは腕を組み、笑った。
「なにもそんなに驚くことはないだろう。
俺はエルサを外に連れ出したいと再三言ってきたんだ。
一貫した内容を主張しているまでさ」
「外出は無理です。
許可できません」
エルサより先に、ルイスが言った。
「諦めてください。
なにより兄が――当家の主が許しません」
「だから、奴のいないときに交渉しているんじゃないか。
そもそもおまえたちは、エルサの将来をいったいどうする気だ?
外部の者と話をさせない、城砦から一歩も出さない、恋人はおろか友人さえ作らせず、家族と使用人に囲まれたごく狭い世界に閉じ込めている。
それを一生続けさせる気か?
言い方ならいくらでもあるぞ。
幽閉、軟禁、監禁――これが、妹に対する兄の所業か?」
「アレス様……!」
あまりの言い様に、エルサは顔色を変えた。
ルイスは苦々しい表情で声を絞り出す。
「この状態が良くないと言うことは僕も充分承知しています。
僕ら兄弟のあいだでも、意見の分かれているところだ。
現在エルサは十七歳で、まだ未成年であるために、長兄の意見を採用しているのです。
エルサが『嘆きの魔女』の素因を持つという危険性を踏まえても、エルサをいまの状態に生涯縛り付けるのは、僕の本意ではありません」
「なるほど、結構だ。
しかし、カストルが意見を翻さない限り、ルイスの意見が通ることはないと、そういうことだろう?
カストル流の対応がおまえも板についているじゃないか。
さっきも、エルサが外に出たいか出たくないかを口にする前に、おまえが答えてしまった。
エルサの自由意志はどこにある?」
ルイスは苦々しく口をつぐんだ。
返す言葉が見つからないようだ。
アレスがエルサに視線を移す。
「きみもだよ、エルサ。
普通の娘なら、自分の意見を表明する前に兄が勝手に答えてしまったら腹が立つものだ。
しかしきみはそれを当然のように受け入れている。
カストルに言いなりになるのをそろそろやめにしないか。
いきなりが難しいなら、少しずつでいい。例えばいまは、カストルが不在だろう?
またとない好機じゃないか」
「好機とは、カストル兄様の目を盗んで外へ出るという意味ですか?」
エルサが恐る恐る聞くと、アレスはにやりと笑った。
「このルイスであれば、きみが『外へ出たい』と主張すれば出してくれるぞ。
こいつはそういうところが甘いからな」
ルイスは険のある表情をしていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「陛下は実に国王らしい方でいらっしゃいますね。
我を通すやり方は一流だ」
「貴族議会の老獪なじじいどもとやり合うには、多少の強引さは必要なのさ」
「多少とはよく言ったものです。
――エルサ」
ルイスがエルサに向き直った。
「さっきはすまなかった。
陛下のおっしゃるとおり、僕はおまえの意見を聞く前に答えを出してしまったね。
僕はおまえに、心のままに生きるよう言ったばかりだったというのに、自分を正せていない。
陛下とともに外出したいか、したくないか、エルサの言葉を聞きたい。
教えてくれないか」
「けれど、ルイス兄様。
城砦の外に出ては危険ではないのですか」
「国王が一緒であれば、万に一つのこともないだろう。
もしあったとしても、陛下が守ってくださる。
そうでしょう?」
「この命に代えても」
ルイスの目配せに、アレスは言った。
澄み切った青い瞳に見つめられて、エルサの胸が高鳴る。
行くべきでないと思う。
いくらルイスが許しても(この場にロキがいたら、彼も許すだろう)、カストルの目を盗むようなことはするべきではない。
頭ではそうわかっているのに、心が別のことをさせようとする。
アレスが近くにいることが嬉しい。
彼の声を聞くだけで動悸がして、見つめられれば頬が赤く染まる。
もう少しだけでいいから、一緒にいたい。
外に出たいとか、出たくないとか、そういうことよりも、アレスともう少しだけ一緒にいたい。
心の声は身の内に広く響いて、理性の抵抗を奪った。
エルサは、気づけば声を発していた。
「行きたいです」
口にして、そうしたらまた、頬が紅潮してしまう。
「外に行きたいです。
連れていってくださいますか」
「もちろんだ」
アレスは破顔して、エルサに手を差し伸べた。
「手始めに入門編としよう。
おいで、エルサ。俺の自宅に案内するよ」