「まずは、魔術師たちを追い払ってくれた礼を言うよ」
言いながら、ルイスは苦笑した。
「おまえからの質問に答えるなら、アイリスとはもう面会済みだろう?
兎だなんていう愛らしい小動物は、ロキには似合わないような気がするけれど」
「アイリスね、ふうん。
花と虹を表す言葉だ。
いい名前じゃないか」
その言葉が似合うような幸せを得てほしいと、ルイスは切に願うのだ。
ルイスは言った。
「いつから気づいていたんだ?」
「ルイス兄さんの様子がおかしいということは、アレスがヒキガエルにされてうちに忍び込んできた晩から、みんなが気づいていたよ。
だからエルサはひどく心配しているし、カストル兄さんは気に掛けつつもルイスを信じてそのままにしている。
国王は、疑惑を深めたからこそ子飼いを森に放ったんじゃないか」
「けれど全員が、アイリスの存在はおろか、この場所にすら辿り着いていない。
おまえはどうして辿り着けたんだ?」
ロキはくすくすと笑った。
「片翼のネックレスだよ、ルイス。
あれは、微細な周波を常時出し続けているんだ。
微細だから神経を尖らせないと捕えることができない。
それでいて、ひどく特殊だ。
コツさえつかめば、在り処を特定することができるくらいにね。
僕は、エルサの身に付けているペンダントの周波を把握して、もう一つがどこにあるかを探った。
セーレの宝物庫に、二つあるはずの片翼が両方失われていることには気づいていたからね」
「特殊な周波……?」
そのような知識をルイスは持っていない。
『嘆きの魔女』についての情報を教えてくれたのは亡き両親だが、そのときも知らされなかった。
「ロキ、おまえその知識を誰から教わったんだ?」
「教えられたんじゃないよ、調べたんだ。
自分でね。城砦の書庫をひっくり返して、『嘆きの魔女』に関する情報を集められるだけ集めた。
ネックレスに関する記載は、そのたくさんの知識の中の一つだよ」
「調べたって、おまえ、あの広い書庫の中の膨大な冊数を?」
「七年掛けたよ」
ロキは笑った。
七年前とは、エルサが先代国王の暴言を受け、『嘆きの魔女』になりかけたときだ。
「だって、カストル兄さんもルイス兄さんも、エルサを『嘆きの魔女』にさせないよう必死に心を砕くばかりで、『嘆きの魔女』になってからのことを真剣に考えないんだからさ。
道は一つ、硝子の棺に死ぬまで封印しなければならないと、それだけを考えていたでしょう?
その方法があんまり恐ろしいから、まっすぐ考えないようにしていたんだよね。
防ぐことばかりに一生懸命になっていたんだよね。
気持ちはわかるよ。
けれど、僕の考えはそうじゃない」
僕の考えはそうじゃない。
この言葉は、過去幾度となくロキが発していたものだった。
特に、エルサの処遇についてカストルとロキが意見を戦わせているようなときに、よく耳にした。
琥珀色の瞳をまっすぐルイスに向けたままで、ロキは続ける。
「ほかにも道があるはずだって確信していた。
だから必死に調べたんだよ」
「ほかの道を、見つけたのか?」
ルイスは、自身のローブの胸のあたりを無意識に握り込んだ。
心臓が大きく音を立てたからだ。
「アイリスを救う道が、ほかにあるのか?」
「あるにはあるけれど、言えない」
「ロキ!」
「言えないよ、特にルイス兄さんにはね。
知ったらきっと、ひどく苦しむ。
それこそ、重大な辛苦を受けたかのようにね。
カストル兄さんも、アレスだって同様だ。
――僕にしかできない」
相も変わらずロキは笑っている。
「僕にしかできない。だから僕がやる。
確かな約束はできないけれど、僕の全身全霊を掛けて、兄さんの愛しい魔女を救う道を拓くよう、努力するよ」
ロキはフードを被った。琥珀色の瞳が隠されて、ルイスがなにかを言う前に、ロキが右手の指を鳴らす。
黄金の鱗粉が煌めいて、一瞬ののちにロキの姿が川蝉に変じた。
「ロキ――」
ルイスの周りをくるりと回ってから、翡翠色をした美しい小鳥は、湖面の上を滑るように飛び去り、冬の空へと消えていった。
王城は、荘厳という言葉がぴったりの外観をしていた。
美しい紋様を描く鉄格子と、二つの石柱で造られた入口の門には、立派な軍服を着た衛兵が五人立っている。
国王の馬車が通ると、皆が一斉にひざまずいた。
門を抜ければ広大な庭園があり、その奥に館が見える。
神殿のように壮麗な造りをしたそれは、どこか神聖な気持ちをエルサに抱かせた。
「あれが本館なのですね。とても大きいです」
「いや、あれは本館前の教会だ。
本館はその奥にあるよ。
そちらのほうが五倍ほど大きい」
「そうなのですか……!?」
どうやら王城という建物は、こちらの予想の範囲を軽く超えているようだ。
あちこちに使用人らしき者たちが働いていて、こちらに気がつくとその場に全員がひざまずいている。
どの種類の石材を使っているのかエルサにはわからないが、青みがかった白色の外壁をしている。
広い庭園に配されている街灯もおなじ色をして、金属の部分は深緑色、先端には黄金があしらわれている。
馬車は教会を通り過ぎて、またしても広い庭園に出た。
大きな噴水の奥に、王城の本館が見える。
窓から見上げながら、エルサは感嘆の息をもらした。
「本当に大きいですね。
先ほどの教会とは段違いです。
千室近く部屋がありそう」
「詳しい数字は覚えていないが、三千はあると思うよ」
エルサは度肝を抜かれた。
黄金の城塞も大きな建物だとは思っていたが、部屋数は二百程度だ。
「使用人の数はもっと多い。
まあ確かに、俺と兄弟の二人が住むにはいささか大きすぎるとは思うが、王城は国のシンボルだからね。
あまり貧相だと、国民は不安になるし他国からは侮られる。
こういった箱物は、豪華すぎるくらいでちょうどいいんだよ」
庭園を含めたら、広さは十三万平方メートルにも及ぶという。
セーレ家は王家に次ぐ名家であると聞いたことがあるけれど、王家は突き抜けている。
次点を名乗ることがおこがましいくらいなのではないだろうか。
やがて馬車はエントランスに入ってから止まった。
頭の上には四本の石柱に支えられた石造りの庇がある。
見目麗しい従僕が扉を開けて、その場に片膝をついた。
アレスが箱から降り、エルサに手を差し出す。
エルサは緊張しながらその手を取り、ステップを降りた。
石畳の地面をブーツで踏んだとき、冷え冷えとした冬の風が下から吹き上がってくるようで、体が震えた。
エルサにとって、これが外の世界に踏み出した第一歩だった。
「緊張しているのかい?」
エルサの表情が強張っているのを見て、アレスが尋ねる。
エルサはうなずいた。
「城塞から出るときも緊張しましたけど、あのときは馬車の中だったので、そこまで実感がなかったんです。
なんだか夢の続きのようで、現実感がなかったのです。
けれどいまは、外にいるのだということをはっきりと実感しました」
これまで乗っていた、四頭立ての馬車が厩に帰っていく。
それを見送ってから、エルサは改めて庭園に目を向けた。
広い庭園だ。
なにより、空が広い。
四方を囲む城壁がないからだ。
「空気が透明で……音が静かです」
空気の色も、音も、匂いも、すべてが空に向かって解放されているような気がした。
となりに立って、アレスが聞く。
「外の世界の印象はどうかな?」
「まだ少し、怖いですけれど――」
エルサは、アレスの青い瞳を見上げた。
「でも、気持ちがいいです」
「それはよかった」
アレスは優しくほほ笑んだ。
寒いことだし、すぐに王城の客間に入るか、もしくはしばらく庭園を散歩するか、どちらがいいかと聞かれて、エルサは散歩がしたいと答えた。
寒いのは確かだったが、もう少し外の空気を吸いたいと思ったからだ。
城塞の庭とはまた違った趣のある庭園に興味を引かれたということもある。
城塞の庭園は、熟練の庭師によって美しく平穏に整えられていた。
そして王城のそれは、花壇一つとっても細かな技巧を凝らしているのがよくわかる。
城塞が、穏やかな自然をそのまま表現することを目指している一方で、王城は、人の手による芸術品のような美しさを追求しているように思えた。
それぞれに特徴があって、とても面白い。
アレスにエスコートされて遊歩道を歩きながら、夢中で見て回った。
花や木の種類についてアレスに聞いても、あまり詳しくないようで明確な答えは返ってこなかった。
しかし、人工の川に架けられた橋の素材や、庭園に住み着いている昆虫や動物についての知識は豊富だった。
そうこうしているうちに、外の世界に足をつけたときの恐怖が薄らいでいることにエルサは気づいた。
外の世界、それ自体が怖いのではない。
怖いのは、人の悪意なのだ。
いま、エルサに悪意や嘲笑をぶつける人物は、周囲に誰一人いない。
いるのは、職務に忠実な使用人たちと衛兵、そしてアレスだけだ。
だから怖くないのだろう。
アレスが隣にいてくれるから。
そこまで思い巡らせてから、エルサは途端に赤面した。
なにもないところなのに前につんのめりそうになる。
「おっと、危ない」
アレスの腕が腰に回され、よろけたところを支えられた。
彼の胸に頬を埋める形になってしまって、エルサの頬がさらに熱くなる。
アレスからは相変わらず太陽の匂いがして、腰をしっかりと抱く腕は強靭だった。
生粋の魔術師である兄たちの、程よく筋肉のついた腕とは趣が違った。
アレスの腕は、武人の腕だ。
城塞の衛兵たちと同様に、魔術のほかに剣術や槍術、体術も会得している男性の逞しさがあった。
それでいて、腰にふれている彼のてのひらや指先は、優しくて繊細な動きをする。
腰に巻いたサテンのリボンのあたりをそっと撫でるようにして、アレスは片腕でエルサを抱え直した。
「大丈夫かい、エルサ」
頭のすぐ上から聞き心地のいい低音が響いて、エルサは身動きを忘れてしまう。
ともすれば、呼吸すら忘れてしまうような状態だった。