マルスの言葉に、エルサは納得した。
例えばアレスが、病気に苦しむ子供を前にしたとき、黙って見守ることを決してしないだろう。
子供を診てくれる医師をすぐに呼んでくるだろうし、調合薬に足りない材料があれば自ら取りに行くだろう。
そして、診療後は容態を確認しに、子供の元へ赴くだろう。
国王の立場としては、ほかの救済方法があるかもしれない。
やり方は異なれども、きっと同じような意味を含む行動をアレスは取るに違いなかった。
けれど、とエルサは思う。
「自分よりも相手を優先するというのは美しい行為ですが、こちらがハラハラしてしまいますね。
ご自身のことをもう少しお考えになってほしいと思います」
「はは、そうだな。
至言だ。
奴がヒキガエルに変化させられたのも、その性格が災いしてのことだからな。
深夜にセーレの森で一人泣いている少女など、訳ありもいいところだろう。
それを不用意に話し掛けにいくからああなるのだ」
エルサはほほ笑んだ。
「そうかもしれませんね。
けれど、ヒキガエルのお姿をしたアレス様は、とてもお可愛らしかったです。
わたしの胸にすっぽり抱かれて、大人しくしていらっしゃったのですよ。
人間のお姿に戻ったいまでは考えられないことですよね」
「いや、あいつはいまでも、エルサの胸にすっぽり抱かれて大人しくなってしまいたいと思っているぞ。
私の所有する財宝をすべて賭けてもいい。
いずれにしても――」
軽口を叩いたのちに、マルスは口調を改めた。
「エルサも知っているように、アレスは国王だ。
もし貴女がアレスと結ばれたいと思っているのなら、王妃になるという覚悟と自覚を持たなければならないよ」
エルサは動きを止めた。
王妃。
考えもしなかった言葉だ。
けれど、確かにそうだ。
アレスもいつかは誰かと結婚する。
アレスは国王なのだから、その誰かは、ヴィネア王国の王妃となる。
「家柄や生来の気質、執務能力に至るまで、王妃たる資格と適性は様々ある。
しかし、それらすべてを凌駕しうる、絶対的な素養が存在する。
なんだかわかるかい?」
「わかりません……」
現実感が湧かないまま、エルサは答えた。
マルスは、エルサがアレスの妻になるという可能性を考えているのだろうか?
まさか、そんなこと、ありうるはずがないのに。
マルスは言った。
「名もなき民への、無辺の慈悲と救済の実行だよ」
「無辺の慈悲と、救済……」
エルサはぽつりと繰り返した。
優しい声でマルスは続ける。
「貴女の周囲の者たちは、恐らくは、貴女にその素質がすでに備わっていると言うだろう。
けれど、エルサ。貴女自身が自分をそうであると信じなければ、王妃に立っても己への不信に苦しむだけだろう。
これは、王事の隅に身を置く王兄からの、取るに足らない助言だと思ってくれていい。
忘れるも、心に留めておくも、エルサに任せよう」
エルサは言葉を返すことができなかった。
自分が王妃になどなるはずがない。
アレスの妻になるはずがない。
アレスの、という以前に、誰かの妻になる自分を、エルサはずっと想像さえできなかったのだ。
城砦で過ごし、城砦で年老いていくのが自分の人生だと思っていた。
自分自身で積極的に選んだ道ではないが、諦めに似た心境でもってそれを受け入れていた。
でも――、ならば、アレスへの自分の想いは一体なんなのか。
アレスが自分を気に掛けてくれるたび、優しく声を掛けてくれるたび、熱を秘めたまなざしで見つめてくるたびに、胸の奥底からこみ上げてくる感情は、一体なんなのか。
カストルをひどく心配させるとわかっていて、それでもアレスの誘いを受けて王城まで出てきてしまった、その情動はどこからくるのか。
(アレス様の隣に、見知らぬ女性が王妃として立つ――)
それを嫌だと思ってしまう自分の心を、エルサは苦しく持て余した。
このような、ひどく利己的で、醜い心を、持ってはならない。
自分は魔術を持たないセーレの娘で、あらゆる人の期待を裏切ってきた人間だ。
『嘆きの魔女』に変貌して、周囲を傷つける可能性も大いにある人間だ。
立場をわきまえなければならない。
軽率な行動をしてはならない。
彼とは、国王と一臣民としての距離を保っていくことが最良だ。
わかっているのに、それが苦しくて、エルサは眉を歪めた。
「すまない、エルサ」
気遣わしげにマルスがこちらを覗き込む。
「貴女を悩ませたいわけじゃない。
誰にでも幸せになる権利がある。
エルサは、自分が幸福であれるよう、それだけを考えていればいいんだよ。
私は、エルサに自信を持ってほしかっただけなんだ」
「自信を……?」
エルサは物憂くマルスを見返した。
マルスはうなずいた。
「あのアレスが貴女にぞっこんなのだ。
王妃の資格をすでに有しているという証拠だよ。
あれでもアレスはまだきみに遠慮をしている。
出会って数日経つということだが、まだきみに口づけの一つもしていないのだろう?
まあ、勢いづいたら止まらないと思うけれどね。
だからエルサは、気持ちが固まったら、ただアレスの手を取ればいい。
あとのことは奴がどうにでもするさ」
慰めの言葉を、エルサは彼の優しさとして受け取り、淡くほほ笑んだ。
「どうもありがとうございます、マルス様。
マルス様の温かなお心、とても嬉しいです」
「これは頑固なご令嬢だ」
マルスは苦笑する。
そのとき、アレスが戻ってきた。
従者のティムが影のように静かに従っている。
「待たせてすまない、エルサ。
寒かっただろう」
彼の姿を目に止めた途端、エルサの胸に喜びが満ちた。
さっきまでの憂いが、アレスの笑顔によって溶かされていく。
軽率な行動をしてはならない。
そう自分に何度言い聞かせても、この目はアレスを追ってしまうし、彼と目が会うたびに、この心は浮き立ってしまう。
こんなことは、生まれて初めてだった。
だからエルサは、制御の仕方がまったくわからずに、だめだと思っていても動いてしまう。
エルサは立ち上がり、駆け寄った。
紫色の瞳を恋心に染めながら、アレスを見上げた。
「いえ、寒くありませんでした。
この外套はとても暖かい上に、マルス様とお話をさせていただいていたので、あっというまに時間が過ぎました」
「ああ、大体わかったよエルサ。
その外套はカストルから贈られたもので、その上マルスとの会話が楽しくて仕方なかったということだね」
「ええと……はい。そういうことになりますね」
「そういった男どもに囲まれている最中でも、きみが俺のことを少しでも思い出してくれていたら嬉しいよ」
言いながらアレスは、エルサの頬に手をふれた。
今日一日で、彼からこうして優しくふれられることにすっかり慣らされてしまっている。
慣れたというだけでなく、心地もいい。
エルサは、その心地よさに身を任せながらアレスを見つめた。
「はい、たくさん思い出していました。
アレス様のお話を、マルス様からたくさんお聞きしたのです」
「マルスが語る俺の話か。どうせロクでもないことだろう。
そんなものはいますぐ忘れていいよ、エルサ。俺についてのことは俺に聞くといい。
その代わり、きみについての話を聞かせてくれ。
自分についてのことを話すことが嫌だというなら、この可愛い声で、なんでもいいからただ話していてくれないか。
きみの声が聞きたいんだ」
アレスの大きなてのひらに暖められた頬が、赤みを帯びる。
甘い意識が胸の内側に広がり、指先までいっぱいになる。
アレスの綺麗な瞳が自分に向けられていることが、こんなにも嬉しい。
白い息の舞うくちびるから、夢見心地のままにエルサは答えた。
「はい。
アレス様のおそばにエルサを置いて、ずっとお話をさせてください」
エルサの細い腰に、アレスのたくましい片腕が回された。
感極まったような、それでいてなにかを耐えているような彼の瞳が、エルサの心を残らず絡め取る。
「なんて可愛いことを言う」
呻くようにアレスが感情を吐き出す。
「エルサ。
きみの望みが真にそうであるならば、俺はカストルと対決してでも、きみをこの王城に攫っていくぞ。
エルサがそれを許してくれるのであれば、いますぐにでも――」
「えっ?」
カストルと対決。
その言葉を聞いて、エルサは瞬時に我に返った。
一方で、アレスの抱き寄せる腕の力は強くなっていく。
「本当ならば、このままきみを俺のそばに留め置いて、カストルの元になど返したくはない。
エルサが良いと言うのなら、俺はいますぐにでもそうするよ」
「アレス様お待ちください、あの――」
「いいかいエルサ。
打ち明けると、俺は七年前、月夜の晩に初めてきみを見つけたときからずっと」
「アレス様、カストル兄様と喧嘩をしないでください。
仲違いはいけません」
エルサは、いつになく真剣な表情で訴えた。
アレスは言葉を切り、やや残念そうにエルサを見返す。
「まだその気ではないということか?」
「喧嘩についてのことです。
わたしは三人の兄たちの妹です。
ですので、男同士の喧嘩というものを、間近で何度も見てきました。
兄たちは個性がそれぞれ違いますが、話し合いに重きを置いた喧嘩でも、最終的に行き着く先は同じです。
つまりは、破壊行為です」
「破壊行為」
繰り返すアレスに、エルサは必死に言い募った。
「『黄金の魔術師』同士の対決をご想像ください。
城砦内の部屋が、いくつめちゃくちゃにされたことか。
そのあとの片付けと修繕には、使用人総出で行っても最低一週間はかかります。
男性同士の喧嘩は破壊行為がついて回るのです。
だから、カストル兄様と喧嘩はくれぐれもしないでください」
「それは大変だったな。察するよ。
けれど、あれだろう。
そういった喧嘩は、彼らが血気盛んな十代の頃の話だろう?」
「おっしゃるとおりですが、二十を超えたいまでも、一触即発の雰囲気を醸し出すことは多々あります。
その度にわたしと使用人たちは、とんでもなくハラハラするのです」
「それも察しよう。
しかしながら、カストルやロキはともかく、ルイスはああいう性格だから、破壊行為に及ぶ前に喧嘩を打ち切るのではないのか?」
楽観的なアレスの意見を、エルサは否定した。
「真に怒ったときに、もっとも甚大な被害をもたらすのはルイス兄様です」
「……。
なるほど。
承知した」
神妙な表情でアレスはうなずいた。
と、長いあいだ黙っていたマルスが口を挟む。
「会話はひと段落したかな?」
エルサは慌てて彼を振り向いた。
「長々とお引き留めしてしまい、申し訳ございませんでした、マルス様」
「いや、いいんだよ。
幸福な恋人たちを眺めるのは楽しいものだ。
このように愛らしい恋人を得ることのできたアレスには、少々どころか蹴り倒してやりたいほど妬けるがね」
「で、ですから、恋人ではないと先ほども……!」
「だそうだが、アレス?」
「いまはデリケートな時期だから、エルサをあまり突っつかないでくれるか。
様子を見つつ慎重に網を引いている最中なのに、ここで逃げられたら元も子もない」
自分は投網に引っかかった魚かなにかなのだろうか。
よくわからないネタで展開される会話を、アレスは「そろそろ中に入ろうか」と切り上げた。
「寒い戸外にこれ以上いると、エルサが風邪を引いてしまう。
暖炉の焚かれた暖かい部屋に行こう」
「寒いからといって魚は風邪を引かないと思うのですけれど」
若干拗ねた口調でエルサが返すと、隣でマルスが肩をすくめた。
「やれやれ、こちらが当てられてしまうな。
この調子だと、アレスが勢いづくのも時間の問題か」
そのときである。
異変に最初に気づいたのはアレスだった。
エルサを左腕で抱き込んで、右手を握り込み、そこに魔術の炎を生んだ。
続いて、マルスと従者のティムが、瞠目して空を見上げた。
硝子を割るような破砕音が、冬の大気をつんざいた。
エルサが、王城の結界が破壊されたのだと気づいたときには、太陽の光を遮るほどの光を放ちながら、巨大な稲妻が落ちてきた。
それは黄金の稲妻だった。
|カストルの天雷と同じ(・・・・・・・・・・)|ものだ(・・・)。
「ち……!」
アレスは舌打ちをして、稲妻の落下点から飛び退いた。
凄まじい音を立てて、稲妻が大地に激突する。
ビリビリとした静電気が、エルサの肌を刺激した。
芝と小石が吹き飛んで、頬に当たる。
アレスは、さらにエルサを庇うようにして抱きすくめながら、天上を見上げた。
「『嘆きの魔女』か。カストルの天雷を学習したな」