33 かけがえのない

 雷の光のせいで、エルサの視界はチカチカと瞬いている。

 ティムが、アレスとエルサを囲む結界を張る。
 駆けつけた近衛に、マルスが指示を飛ばす。

 エルサの耳には、またしても、森の魔女の嘆きが聞こえていた。

 遠く近く、エルサをぐるぐると取り囲むように反響していた。

 こわい、さびしい、いかないで、そばにいて。

 そばにいて。

 天雷は、庭園めがけて立て続けに打ち落とされていた。
 美しい庭園が、見る影もなく破壊されていく。

「アレス!」

 地面に激突する直前で、天雷を炎風で巻き上げながら、マルスが怒鳴った。

「狙われているのはエルサだ。
 結界の強化を――」

「わかっている!」

 荒々しく返答して、アレスは口早に詠唱した。
 自分を守る壁がもう一つ増えたのを、エルサは視認した。
 それはすぐに見えなくなる。

 近衛兵の魔力では、『嘆きの魔女』の天雷に太刀打ちできないようだった。
 何人もの軍服を着た男たちが、雷の直撃を受けて倒れていく。

 かろうじて対応できているのはティムだが、彼もあちこちに怪我を負い、消耗しているようだった。
 天雷から身を守ることだけで精一杯で、マルスやアレスのように、雷を弾き返すことまではできない。

(先日のときよりも、力が増している――)

 アレスの腕の中で、エルサは戦慄した。

 森の魔女の嘆きが、膨れ上がっている。

 精神状態が良くないのだ。

 嘆きの声もいっそう鮮明になり――この声はやはり、エルサにしか聞こえないようだ――聞いていると胸が引き絞られるような切なさに満ちている。

 彼女にいったいなにがあったのか。

 実際に困難な出来事が生じたのか、それとも、心境の変化があり、それに苦しめられているのか。

 天雷が真上から落ちてくる。
 アレスが呪文を詠唱して、巨大な炎柱でそれを一呑みにする。

(会いに行かなくては)

 アレスの纏う炎風に銀髪をなびかせながら、エルサは切羽詰まる思いを抱えた。

(森の魔女に会いに行かなくては)

 森の魔女の天雷は凄まじい威力だったが、やはりカストルのそれとは威力が若干劣るようだった。

 アレスとマルスは、まさに炎の申し子の名にふさわしい力を見せつけていた。
 彼らの炎は、単体でも強力だが二つ一緒になるとよりいっそう激しさが増した。

 生き物のように荒れ狂う二つの炎は、次々と襲いくる天雷を、確実に屠っていった。

 ティムはすでに魔力が尽きたらしく、負傷した近衛の救助に当たっている。
 荒れ果てた王城の庭園で、軍神の写し身とも称される双子の王と王兄が、轟音を立てる炎を自在に操る様は、現実のこととは思えないほど凄まじいものだった。

 やがて、撃ち落とされる稲妻の数が減っていき、襲撃もここで幕かと、誰もが安堵した。

 完全に静まったのはそれから数分後のことで、マルスが肩で大きく息を吐きながら辺りを見回し、そしてアレスは、エルサの腰に腕を回したまま、エルサのつま先を地面に下ろした。

「怪我はないか、エルサ」

「はい。アレス様のおかげです。
 ありがとうございます」

 襲撃の余韻が、エルサの両足を震えさせていた。
 一方で、彼に心配を掛けたくなくて、エルサは気丈にほほ笑んだ。

 しかし、アレスはエルサの状態に気づいたようだった。
 眉を寄せたまま、エルサを胸の中に抱き寄せる。

「怖い思いをさせてすまなかった」

 低い声で、悔いるようにアレスはささやく。
 彼の吐息を耳に感じて、エルサは安心感でいっぱいになった。

「どうか謝らないでください、アレス様。
 アレス様が守ってくださったから、わたしは全然怖くなかったのです」

「可愛い頬が汚れてしまったな」

 少しだけ体を離して、エルサの頬を、炎熱が淡く残ったてのひらでアレスは優しく拭った。
 手袋を脱いだようで、素肌だ。

「小石が当たったのか。
 傷一つつけないと心に誓っていたというのに」

 ほんの少しヒリヒリする程度の擦り傷を、大怪我を発見したかのように見つめて、アレスはきつく眉を寄せる。

 エルサはアレスの思いに胸をときめかせたが、それ以上に気掛かりなことを思い出した。

 ティムや救護班から手当てを受けている衛兵たちを、振り返る。

「アレス様、わたしのことなどよりも、あの方たちをお早く病室に運んで差し上げてください。
 わたしも手伝います。
 応急処置は心得ていますし、もうお一方のご協力があれば、担架を持ち上げることもできます。
 ですのでアレス様、腕をお離しください」

 アレスの腕の中で身をよじると、アレスは笑い混じりのため息をついた。

「やれやれ。
 エルサのほうが俺よりも、よほど冷静で国王らしいと見える」

「同感だ。
 色ボケた国王などいらぬから、腕の中の優秀な女王を早くこちらに連れてこい」

 マルスがからかい、救護班や負傷兵から笑い声が起こる。

 どうやら命に別状のない者ばかりのようだ。
 エルサはほっとした。

「愚王に選択権などないというわけか」

 アレスが肩を竦めつつ、エルサから腕を離そうとした。

 直後に、彼はハッと目を見開いた。
 エルサをふたたび抱き寄せ掛けて、しかし、次の瞬間には、マルスのほうに突き飛ばした。

「っ!」

 危うげなくマルスに受け止められ、エルサは慌てて顔を上げる。

 視界に映ったのは、速やかに編み上げられていく黄金色の光だった。
 アレスの足元から、彼を囲んで半球を描き、一息に生成される。

 それは、芸術的な美しさを孕む黄金の結界であった。

「ルイス兄様の結界……!」

 愕然と、エルサは叫んだ。

 森の魔女は、カストルの天雷だけでなく、ルイスの結界までをも模倣したのだ。

「だめですアレス様、そこからお逃げください!」

 森の魔女の、悲鳴にも似た泣き声が、エルサの鼓膜をつんざいた。

 外界から完璧に隔絶された、精緻なる結界の内側で、アレスを閉じ込めたまま、無数の天雷が炸裂した。

 凄まじい黄金の明滅と、雷撃の大音響のせいで、アレスの苦悶の表情と叫び声を、エルサが見聞きすることはなかった。

 この後のことを、エルサは断片的にしか記憶していない。

 あまりも衝撃的な出来事の直後だったことと、また、理性を忘れるほど必死になって動いていたとうことが要因だ。

「お願いですから、ベッドに横になっていてください……!」

 泣きそうになりながら、エルサは、ベッドから起き上がろうとするアレスを留めようとしていた。

 体中傷だらけで、腕も足も胸部にも包帯を巻かれた状態のアレスが、エルサを城砦に送ると言って聞かないからだ。

「わたしなら大丈夫です。
 帰りが遅いと知ったお兄様たちが、きっと迎えに来てくださいます。
 アレス様はまず、ご自身のお怪我をいちばんに案じてください」

「俺が自分を労っているあいだに、また襲撃されたらどうする!」

 アレスがエルサに声を荒げたのは、出会ってからこれが初めてのことだった。

「あれに対峙できるのは俺とマルスだけだ。
 マルスは体が弱く、これ以上無理はできない。
 戦力になるのは俺しかいない。
 しかし、城砦なら『黄金の魔術師』どもが三人もいる。
 一刻も早く、安全地帯にきみを送り届けるのは俺の役目だ」

「けれど――でも」

 エルサは声を詰まらせた。
 ともすれば、涙を零してしまいそうになったからだ。

 森の魔女の放った天雷は、黄金の結界内において、この上なく恐ろしい威力を放った。

 結界が消えて、光の残滓の中でアレスが地面に倒れ込んだのを見たとき、恐怖と絶望でエルサの心臓は凍りついた。

 その凍てつきは、いまとなっても溶けていない。
 裸の上半身を包帯まみれにしたアレスを見るたびに、心臓を鷲掴みにされるような恐怖にエルサは苛まれた。

 アレスはあのとき、エルサを守るために突き飛ばした。
 黄金の結界の外にエルサを弾き出したのだ。
 そして、森の魔女の天雷を自らが受けることになった。

 森の魔女は、一度目の襲撃と同じようにエルサを標的としていた。
 アレスはエルサの身代わりとなったのである。

 そして、大怪我を負ってもなお、自分の手でエルサを城砦に送り届けると言って聞かない。
 森の魔女に対抗できるのがアレスだけである以上、部下には任せられないと言うのだ。

 やはり、自分が城砦から出たのは間違いだったのか。

 堅牢な壁の内側で、ひっそりと生涯を過ごすことが、自分の使命だったのか。

(泣いていてはいけないわ)

 エルサは己を奮い立たせた。

 弱音を吐いている場合ではない。

 自分の運命のことなど、いまはどうでもいい。

 エルサを押しのけ、無理やりベッドから立ち上がろうとしたアレスが、全身を激痛に襲われて顔を歪めた。

 老齢の侍医が駆け寄り、アレスの容体を検分する。

「やはりいけません、陛下。
 この状態で動くことは、恐れながら許可しかねます」

「うるさい、黙れ。
 俺に指図をするな。
 ティム、馬車を用意しろ。
 エルサを乗せて、城砦に行く」

 ティムは、ひどく困惑した様子で、それでも命令に従い部屋を出て行く。
 従者であるティムに、国王からの命令をはねのけることは難しいのだろう。
 ちなみにマルスは、兵士たちが収容された救護室に赴いており、この部屋には不在である。

 一方で、侍医は食い下がった。

「許可できません、陛下。
 大切な御身であることをお忘れか。
 この王国で、最も掛け替えのないのは陛下ですぞ。
 セーレのご令嬢の身に配慮するという御心はわかりますが、ここはどうぞ堪えてください」

「掛け替えのない、だと?」

 乱れた息の下で、アレスは侍医に怒りの双眸を向けた。

「その言葉をどの口が言う。
 五年前、先王崩御の折、マルスに用意された玉座を、俺のものとすげ替えたのはおまえたちだろう。
 代替などいくらでも効くではないか。
 俺とマルスが揃って死んで、喜ぶ貴族どもの数を数えてやろうか。
 だがそれは、貴様らの二枚舌を残らず燃やし尽くしてからだ!」

 侍医は蒼白になり、よろけるようにベッドから離れた。

 アレスの怒鳴り声の半分は、余裕の失せた八つ当たりのようにもエルサには思えたが、煮え滾る彼の怒りは本物だった。

 エルサは、両のてのひらを握り込んだ。
 侍医と入れ替わるようにして、アレスの前に立つ。

「横になってください、アレス様」

「いかにきみの願いといえど、それは聞けない」

 アレスは、天蓋の支柱をつかみながら立ち上がった。

「このような状態でも炎は出せる。
 城内の兵士よりも俺のほうが強い。
 安心しろ、エルサ。きみのことは俺が命に代えて守る。
 安全に、兄たちの元まで送り届けてやる」

「でしたら、城砦に早馬を。
 兄たちのいずれかに、ここまで迎えに来てもらってください」

「一刻を争うと言っただろう。
 俺がいまから送ったほうが早いんだ」

「聞けません。
 ベッドのお戻りください」

「エルサ。
 頼むから――」

 アレスは、痛みを耐えるような息をつきながら、支柱を握り込んだ。
 澄んだ青色の瞳がエルサを見つめる。

「俺にとって掛け替えないのは、国王という名の形式ではない。
 名もなき無辜の民だ。
 愛する家族と、友人たちだ。
 そして、大切な女性だ」

 エルサはくちびるを噛んだ。
 必死に涙をこらえた。

「どれも失えない。
 エルサ、きみには少しの傷をつけることさえしたくはないと、さっきも伝えただろう?
 ましてや、俺の手の届かないところで、きみがいまの俺のような怪我を負わされたらと思うと、いてもたってもいられない。
 だから聞き分けてくれないか」

 それでもエルサは、首を横に振った。

「聞けませんと申し上げました」

 エルサはいったんベッド脇を離れ、ライティングデスクの上に置いてあったペーパーナイフを取り上げた。

 それから、アレスを振り返る

「勝手をお許しください、アレス様」

「エルサ……!?」

 アレスは目を見開いた。

 ペーパーナイフの切っ先を、エルサは自身の頬に突きつけていた。
 擦り傷ができているのと同じ箇所だ。

 それを見た侍医は慌てふためき、「だ、誰かおらんか!」と叫びながら、部屋を転がり出ていく。

 アレスをまっすぐに見返しながら、エルサは告げた。

「ベッドにお戻りになられないのであれば、わたしはわたし自身を傷つけます」

 アレスは絶句した。

 こんなことは、エルサは決してしたくなかった。
 自分自身を質にとり、助けてくれようとしている人を脅すなど、最低の行為だ。

 けれど、こうでもしないとアレスは止まらないことをわかっていた。

 これまでのアレスの言動はもとより、マルスとの会話の内容も含めて、アレスが自分自身のことよりも他者を優先させることを、エルサは知っていた。