雷の光のせいで、エルサの視界はチカチカと瞬いている。
ティムが、アレスとエルサを囲む結界を張る。
駆けつけた近衛に、マルスが指示を飛ばす。
エルサの耳には、またしても、森の魔女の嘆きが聞こえていた。
遠く近く、エルサをぐるぐると取り囲むように反響していた。
こわい、さびしい、いかないで、そばにいて。
そばにいて。
天雷は、庭園めがけて立て続けに打ち落とされていた。
美しい庭園が、見る影もなく破壊されていく。
「アレス!」
地面に激突する直前で、天雷を炎風で巻き上げながら、マルスが怒鳴った。
「狙われているのはエルサだ。
結界の強化を――」
「わかっている!」
荒々しく返答して、アレスは口早に詠唱した。
自分を守る壁がもう一つ増えたのを、エルサは視認した。
それはすぐに見えなくなる。
近衛兵の魔力では、『嘆きの魔女』の天雷に太刀打ちできないようだった。
何人もの軍服を着た男たちが、雷の直撃を受けて倒れていく。
かろうじて対応できているのはティムだが、彼もあちこちに怪我を負い、消耗しているようだった。
天雷から身を守ることだけで精一杯で、マルスやアレスのように、雷を弾き返すことまではできない。
(先日のときよりも、力が増している――)
アレスの腕の中で、エルサは戦慄した。
森の魔女の嘆きが、膨れ上がっている。
精神状態が良くないのだ。
嘆きの声もいっそう鮮明になり――この声はやはり、エルサにしか聞こえないようだ――聞いていると胸が引き絞られるような切なさに満ちている。
彼女にいったいなにがあったのか。
実際に困難な出来事が生じたのか、それとも、心境の変化があり、それに苦しめられているのか。
天雷が真上から落ちてくる。
アレスが呪文を詠唱して、巨大な炎柱でそれを一呑みにする。
(会いに行かなくては)
アレスの纏う炎風に銀髪をなびかせながら、エルサは切羽詰まる思いを抱えた。
(森の魔女に会いに行かなくては)
森の魔女の天雷は凄まじい威力だったが、やはりカストルのそれとは威力が若干劣るようだった。
アレスとマルスは、まさに炎の申し子の名にふさわしい力を見せつけていた。
彼らの炎は、単体でも強力だが二つ一緒になるとよりいっそう激しさが増した。
生き物のように荒れ狂う二つの炎は、次々と襲いくる天雷を、確実に屠っていった。
ティムはすでに魔力が尽きたらしく、負傷した近衛の救助に当たっている。
荒れ果てた王城の庭園で、軍神の写し身とも称される双子の王と王兄が、轟音を立てる炎を自在に操る様は、現実のこととは思えないほど凄まじいものだった。
やがて、撃ち落とされる稲妻の数が減っていき、襲撃もここで幕かと、誰もが安堵した。
完全に静まったのはそれから数分後のことで、マルスが肩で大きく息を吐きながら辺りを見回し、そしてアレスは、エルサの腰に腕を回したまま、エルサのつま先を地面に下ろした。
「怪我はないか、エルサ」
「はい。アレス様のおかげです。
ありがとうございます」
襲撃の余韻が、エルサの両足を震えさせていた。
一方で、彼に心配を掛けたくなくて、エルサは気丈にほほ笑んだ。
しかし、アレスはエルサの状態に気づいたようだった。
眉を寄せたまま、エルサを胸の中に抱き寄せる。
「怖い思いをさせてすまなかった」
低い声で、悔いるようにアレスはささやく。
彼の吐息を耳に感じて、エルサは安心感でいっぱいになった。
「どうか謝らないでください、アレス様。
アレス様が守ってくださったから、わたしは全然怖くなかったのです」
「可愛い頬が汚れてしまったな」
少しだけ体を離して、エルサの頬を、炎熱が淡く残ったてのひらでアレスは優しく拭った。
手袋を脱いだようで、素肌だ。
「小石が当たったのか。
傷一つつけないと心に誓っていたというのに」
ほんの少しヒリヒリする程度の擦り傷を、大怪我を発見したかのように見つめて、アレスはきつく眉を寄せる。
エルサはアレスの思いに胸をときめかせたが、それ以上に気掛かりなことを思い出した。
ティムや救護班から手当てを受けている衛兵たちを、振り返る。
「アレス様、わたしのことなどよりも、あの方たちをお早く病室に運んで差し上げてください。
わたしも手伝います。
応急処置は心得ていますし、もうお一方のご協力があれば、担架を持ち上げることもできます。
ですのでアレス様、腕をお離しください」
アレスの腕の中で身をよじると、アレスは笑い混じりのため息をついた。
「やれやれ。
エルサのほうが俺よりも、よほど冷静で国王らしいと見える」
「同感だ。
色ボケた国王などいらぬから、腕の中の優秀な女王を早くこちらに連れてこい」
マルスがからかい、救護班や負傷兵から笑い声が起こる。
どうやら命に別状のない者ばかりのようだ。
エルサはほっとした。
「愚王に選択権などないというわけか」
アレスが肩を竦めつつ、エルサから腕を離そうとした。
直後に、彼はハッと目を見開いた。
エルサをふたたび抱き寄せ掛けて、しかし、次の瞬間には、マルスのほうに突き飛ばした。
「っ!」
危うげなくマルスに受け止められ、エルサは慌てて顔を上げる。
視界に映ったのは、速やかに編み上げられていく黄金色の光だった。
アレスの足元から、彼を囲んで半球を描き、一息に生成される。
それは、芸術的な美しさを孕む黄金の結界であった。
「ルイス兄様の結界……!」
愕然と、エルサは叫んだ。
森の魔女は、カストルの天雷だけでなく、ルイスの結界までをも模倣したのだ。
「だめですアレス様、そこからお逃げください!」
森の魔女の、悲鳴にも似た泣き声が、エルサの鼓膜をつんざいた。
外界から完璧に隔絶された、精緻なる結界の内側で、アレスを閉じ込めたまま、無数の天雷が炸裂した。
凄まじい黄金の明滅と、雷撃の大音響のせいで、アレスの苦悶の表情と叫び声を、エルサが見聞きすることはなかった。
この後のことを、エルサは断片的にしか記憶していない。
あまりも衝撃的な出来事の直後だったことと、また、理性を忘れるほど必死になって動いていたとうことが要因だ。
「お願いですから、ベッドに横になっていてください……!」
泣きそうになりながら、エルサは、ベッドから起き上がろうとするアレスを留めようとしていた。
体中傷だらけで、腕も足も胸部にも包帯を巻かれた状態のアレスが、エルサを城砦に送ると言って聞かないからだ。
「わたしなら大丈夫です。
帰りが遅いと知ったお兄様たちが、きっと迎えに来てくださいます。
アレス様はまず、ご自身のお怪我をいちばんに案じてください」
「俺が自分を労っているあいだに、また襲撃されたらどうする!」
アレスがエルサに声を荒げたのは、出会ってからこれが初めてのことだった。
「あれに対峙できるのは俺とマルスだけだ。
マルスは体が弱く、これ以上無理はできない。
戦力になるのは俺しかいない。
しかし、城砦なら『黄金の魔術師』どもが三人もいる。
一刻も早く、安全地帯にきみを送り届けるのは俺の役目だ」
「けれど――でも」
エルサは声を詰まらせた。
ともすれば、涙を零してしまいそうになったからだ。
森の魔女の放った天雷は、黄金の結界内において、この上なく恐ろしい威力を放った。
結界が消えて、光の残滓の中でアレスが地面に倒れ込んだのを見たとき、恐怖と絶望でエルサの心臓は凍りついた。
その凍てつきは、いまとなっても溶けていない。
裸の上半身を包帯まみれにしたアレスを見るたびに、心臓を鷲掴みにされるような恐怖にエルサは苛まれた。
アレスはあのとき、エルサを守るために突き飛ばした。
黄金の結界の外にエルサを弾き出したのだ。
そして、森の魔女の天雷を自らが受けることになった。
森の魔女は、一度目の襲撃と同じようにエルサを標的としていた。
アレスはエルサの身代わりとなったのである。
そして、大怪我を負ってもなお、自分の手でエルサを城砦に送り届けると言って聞かない。
森の魔女に対抗できるのがアレスだけである以上、部下には任せられないと言うのだ。
やはり、自分が城砦から出たのは間違いだったのか。
堅牢な壁の内側で、ひっそりと生涯を過ごすことが、自分の使命だったのか。
(泣いていてはいけないわ)
エルサは己を奮い立たせた。
弱音を吐いている場合ではない。
自分の運命のことなど、いまはどうでもいい。
エルサを押しのけ、無理やりベッドから立ち上がろうとしたアレスが、全身を激痛に襲われて顔を歪めた。
老齢の侍医が駆け寄り、アレスの容体を検分する。
「やはりいけません、陛下。
この状態で動くことは、恐れながら許可しかねます」
「うるさい、黙れ。
俺に指図をするな。
ティム、馬車を用意しろ。
エルサを乗せて、城砦に行く」
ティムは、ひどく困惑した様子で、それでも命令に従い部屋を出て行く。
従者であるティムに、国王からの命令をはねのけることは難しいのだろう。
ちなみにマルスは、兵士たちが収容された救護室に赴いており、この部屋には不在である。
一方で、侍医は食い下がった。
「許可できません、陛下。
大切な御身であることをお忘れか。
この王国で、最も掛け替えのないのは陛下ですぞ。
セーレのご令嬢の身に配慮するという御心はわかりますが、ここはどうぞ堪えてください」
「掛け替えのない、だと?」
乱れた息の下で、アレスは侍医に怒りの双眸を向けた。
「その言葉をどの口が言う。
五年前、先王崩御の折、マルスに用意された玉座を、俺のものとすげ替えたのはおまえたちだろう。
代替などいくらでも効くではないか。
俺とマルスが揃って死んで、喜ぶ貴族どもの数を数えてやろうか。
だがそれは、貴様らの二枚舌を残らず燃やし尽くしてからだ!」
侍医は蒼白になり、よろけるようにベッドから離れた。
アレスの怒鳴り声の半分は、余裕の失せた八つ当たりのようにもエルサには思えたが、煮え滾る彼の怒りは本物だった。
エルサは、両のてのひらを握り込んだ。
侍医と入れ替わるようにして、アレスの前に立つ。
「横になってください、アレス様」
「いかにきみの願いといえど、それは聞けない」
アレスは、天蓋の支柱をつかみながら立ち上がった。
「このような状態でも炎は出せる。
城内の兵士よりも俺のほうが強い。
安心しろ、エルサ。きみのことは俺が命に代えて守る。
安全に、兄たちの元まで送り届けてやる」
「でしたら、城砦に早馬を。
兄たちのいずれかに、ここまで迎えに来てもらってください」
「一刻を争うと言っただろう。
俺がいまから送ったほうが早いんだ」
「聞けません。
ベッドのお戻りください」
「エルサ。
頼むから――」
アレスは、痛みを耐えるような息をつきながら、支柱を握り込んだ。
澄んだ青色の瞳がエルサを見つめる。
「俺にとって掛け替えないのは、国王という名の形式ではない。
名もなき無辜の民だ。
愛する家族と、友人たちだ。
そして、大切な女性だ」
エルサはくちびるを噛んだ。
必死に涙をこらえた。
「どれも失えない。
エルサ、きみには少しの傷をつけることさえしたくはないと、さっきも伝えただろう?
ましてや、俺の手の届かないところで、きみがいまの俺のような怪我を負わされたらと思うと、いてもたってもいられない。
だから聞き分けてくれないか」
それでもエルサは、首を横に振った。
「聞けませんと申し上げました」
エルサはいったんベッド脇を離れ、ライティングデスクの上に置いてあったペーパーナイフを取り上げた。
それから、アレスを振り返る
「勝手をお許しください、アレス様」
「エルサ……!?」
アレスは目を見開いた。
ペーパーナイフの切っ先を、エルサは自身の頬に突きつけていた。
擦り傷ができているのと同じ箇所だ。
それを見た侍医は慌てふためき、「だ、誰かおらんか!」と叫びながら、部屋を転がり出ていく。
アレスをまっすぐに見返しながら、エルサは告げた。
「ベッドにお戻りになられないのであれば、わたしはわたし自身を傷つけます」
アレスは絶句した。
こんなことは、エルサは決してしたくなかった。
自分自身を質にとり、助けてくれようとしている人を脅すなど、最低の行為だ。
けれど、こうでもしないとアレスは止まらないことをわかっていた。
これまでのアレスの言動はもとより、マルスとの会話の内容も含めて、アレスが自分自身のことよりも他者を優先させることを、エルサは知っていた。