「エルサ」
アレスは蒼白になって、支柱に片手を添えたまま一歩こちらに近づいた。
エルサは、ライティングディスクに腰を押し付けるように後ずさり、首を振った。
「ベッドにお戻りになるとおっしゃられるまで、わたしは考えを変えません」
アレスは奥歯を噛み締めて、支柱が折れんばかりにてのひらを握り込んだ。
互いの視線が交差し、それが、言葉よりも雄弁に、互いの思いを伝えた。
アレスはやがて、肩の力を抜いた。
「……なんという頑固な姫君だ」
つぶやいて、それからベッドにどさりと腰を下ろす。
顔を伏せたのち、目を上げて、アレスは苦笑した。
彼の怒りは、もうそこになかった。
「きみほどの悪女を、これまでの人生で俺は一度も見たことがないよ」
エルサは、震えるような安堵の息をついた。
ペーパーナイフを元の場所に置いて、それから、緊張しきっていた両脚をなんとか動かした。
「……申し訳ございません」
小さな声で謝罪しながらベッド脇に近づくと、ふいに、彼の両腕が伸ばされて、エルサの腰に絡みついた。
「エルサ」
抱き寄せて、エルサの胸の下に顔をうずめながら、アレスが言った。
「きみの言うことを聞くよ。
その代わり、王城にきみがいるあいだはずっと、俺のそばにいてくれ。
ほんの少しでも、離れないでくれ」
「はい」
涙をこらえながら、エルサはかすかな声で告げた。
彼の両腕に、てのひらを置く。
「はい。城砦に帰るまで、エルサはずっとアレス様のおそばにおります」
やがてアレスはベッドに横になり、大人しくまぶたを閉じた。
相当なダメージを負った体は、彼に速やかな睡眠を要求したらしい。
五分と経たず、アレスは寝息を立て始めた。
彼が熟睡したことを、丸椅子の上でエルサは確認した。
と、扉がノックされてマルスが入室した。
「刃傷沙汰が起きたと侍医が大騒ぎしていたから駆けつけてきたのだが、どうやらまとまったようだな」
エルサは立ち上がり、スカートをつまんで礼を取る。
「お騒がせいたしまして申し訳ございません。
すべてわたしの咎でございます。ご処分はいかようにも」
「エルサを処分?
そんなことをしたら、王命によって私の首が飛ぶよ」
笑いながら、マルスがアレスを見下ろした。
「よく寝ているな。
珍しいことだ」
「アレス様は、普段から眠りが浅いのですか?」
「いや、そういう意味ではないよ」
優しく言って、マルスはエルサに視線を移す。
「人前で眠ることが珍しいと言ったんだ。
こいつは、夜は独り寝でないと落ち着けない質でね。
男として難儀な質だとは思うが」
「そうなのですか」
エルサはアレスの寝顔を見やった。
傷だらけの頬は安心しきっていて、ぐっすり眠っているように見える。
「それほどにお怪我がひどいのでしょう。
お眠りになることができて良かったです」
「怪我のせいというよりも、そばにいるのがエルサだからというのが大きいのだろう。
やはりエロガキとしか言いようがないな」
「またそのようななことをおっしゃって」
エルサは苦笑した。一緒に笑ってから、マルスは言った。
「アレスのことは貴女にお任せしよう。
なにかあれば呼び紐を引いて呼んでくれ」
「承りました」
エルサは一礼し、マルスは部屋を出て行った。
室内は一気に静かになり、暖炉の薪が爆ぜる小さな音がしていた。
アレスはよく眠っている。
エルサは、丸椅子にふたたび身を落ち着けて、彼をじっと見下ろした。
そうしていたら、こらえていた涙が零れ落ちてきた。
「――――」
懐からハンカチを取り出し、零れてくる涙をぬぐいながら、エルサは声を殺して泣いた。
この人が好きだ。
まっすぐなところも、ちょっとした軽口も、優しいところも、声も、まなざしも、笑顔も、力強い腕も、温かな手の感触も、無茶をする困ったところも全部。
「アレス様」
掠れた声でささやいた。
アレスは目覚めない。
この人のそばから離れたくない。
ずっとそばにいたい。
ずっと、名を呼んでほしい。
けれど、だめかもしれない。
そばにいられないかもしれない。
自分は魔女のなりそこないなのだ。
セーレの落ちこぼれで、その上『嘆きの魔女』の素因をもっているのだ。
だから、こんなにも離れがたいのに、離れなくてはならない。
城砦の壁の中に戻って、アレスに出会う前の自分に戻らなくてはならない。
初めての恋に浮き足立っていた頃は良かった。
ただ、彼と一緒にいられるのが嬉しいというだけなら良かった。
この王城に赴くまでの自分は、確かにそんな自分だった。
それなのに、一緒にいて、言葉を交わしあって、ふれられて、抱きしめられて、ただ嬉しいというだけではなくなった。
切ないほどの甘い感情と、愛しさで胸がいっぱいになる苦しさが、生まれるようになってしまった。
だからこそ、離れなければならないと、切迫した思いが生まれるのだ。
アレスに迷惑を掛けたくない。
いまみたいに、傷ついてほしくない。
兄たちのように、エルサの存在があるせいで、人々から悪口を言われたくない。
(出会わなければよかった?)
最後に離れるくらいなら、最初からアレスを知らなければ良かったのか。
けれどそんなことをほんの少しでも考えられないほどに、彼はエルサの胸の真ん中に刻み込まれてしまっている。
だから、自分にとってこの恋は、最初で最後の恋なのだ。
城砦の門の中には持って帰れない。
だからここに置いていこう。
この人の住む、この人のいるべき場所である、この壮麗な王城に。
エルサはアレスの手を取り、その甲にそっと口づけた。
「あなたを愛しています、アレス様」
最後の涙は、頬を伝ってアレスの手に落ちた。
やがてティムがやって来て、カストルとルイスの来訪を告げた。
マルスの命で、城砦に使いを出していたようだ。
エルサは、眠るアレスをベッドに置いて部屋を出た。
兄たちの元に行くために。
城砦の壁の奥へ帰るために。