35 悪い魔女

第五章

 もうきっと、与えられることはないのだと、あきらめていた。

 それは水と同じだった。

 食べ物に似たものだった。

 生まれたときからずっと、ママだけが絶えず与えてくれていた。

 ママが死んでしまってから、ほんのひとかけらももらえなくなった。

 だから、喉が渇いて、お腹が空いても、欲しいと口に出さなかった。

 もらえないとわかっていたから。

 うずくまって、一人きりで、ただ耐えるしかないのだと、わかっていたから。

 狩小屋の窓から見える月は、ひどく細かった。

 新月の夜がまもなく来るのだ。

 アイリスは、カードを散りばめたベッドシーツの上に座り込み、窓の外を眺めていた。

 今夜は、ルイスは来ないだろう。

 この森の中に、怖い男の人たちがたくさん潜んでいるらしい。

 その男はアイリスを追っていて、見つかったら捕まって、牢屋に入れられてしまうらしい。

 だから、この小屋から決して出てはいけないと、ルイスは何度もアイリスに言い聞かせた。

 そして、男たちの監視の目が厳しいから、ルイスがここに来られない日も出てくるだろうと。

 その言葉に、アイリスはうなずいた。

 心の中は不安でいっぱいだった。

 ルイスはそれを汲み取ってくれた。
 ルイスはいつも、アイリスの感情を敏感に察するのだ。

(大丈夫だよ、アイリス。心配しないで)

(きみのことは僕が必ず、命に代えても守るから)

 抱き寄せられたルイスの、温かい胸の中で、アイリスは安心感に包まれた。

 牢屋に入れられて、ルイスに会えなくなってしまうのは嫌だった。

 だから彼の言うことに従った。
 どんなに退屈でも、寂しくなって動物たちに会いたくなっても、小屋から決して出なかった。
 けれど、ルイスが来てくれる回数が減るのは、耐えがたかった。

 今日みたいに、カードゲームを楽しんでいた途中で突然出ていってしまうのは、ものすごく嫌だった。

 ルイスはいつも、湖の向こう側に建っている城砦に帰っていく。

 そこには彼の兄がいて、弟がいて、そしてアイリスと同じ年の妹がいるそうだ。

 ルイスが一度だけ妹の話をしたとき、彼の目がとても優しくやわらいだのを、アイリスは見た。
 そして深く傷ついた。

 ルイスには、アイリスのほかにもいるのだ。

 思い浮かべるだけで優しい瞳になれる、そんな人がいるのだ。

 だからルイスは、アイリスの側から簡単にいなくなってしまえるのだろう。
 「また来るよ」の一言で、狩小屋から出て行ってしまえるのだろう。
 あの城砦に、家族がいるから。ルイスの大切な、兄と弟と妹がいるから。

 わたしにはいないのに。

 アイリスは顔を歪めた。
 わたしにはいないのに。
 ここに一人きりでいるのに。
 だってママが死んでしまった。
 醜いわたしを抱きしめてくれたのはママだけだった。
 ママはもうどこにもいない。

 ルイスが側にいてくれなければ、もう、自分の形すらわからない。

 寒さに震える背中を抱きしめてくれる腕があるから、自分に体があることがわかる。
 涙を拭ってくれる指があるから、自分に瞳と頬があることがわかる。
 アイリスの言葉を受け止めてくれるまなざしや、優しく語りかけてくれる声があるから、自分の心がここにあることがわかる。

 ルイスがいなければ、存在できない。

 生きていられない。

「アイリス?」

 ルイスの声が聞こえて、最初は幻聴かと思った。

 けれど、泣き濡れた顔を上げると、寝室の扉を開けたルイスがそこに立っていた。

「泣いているの、アイリス」

 ひどく心配そうな――それでいて、深刻な憂いを含んだ瞳でルイスはアイリスを見つめた。
 こちらに近づいてきて、ベッドに腰掛けた。

 優しい指が、アイリスの涙を拭う。

「ずっと泣いていたの?」

 まばたきをすると、また涙が零れた。

 すると、ルイスがアイリスの肩を抱き寄せた。
 アイリスは、ルイスのローブをすがりつくように両手でつかんだ。

「なんでいつも出て行っちゃうの」

「アイリス――」

 アイリスは泣き声で訴える。

「どうしていつも行っちゃうの。
 なんでそばにいてくれないの。
 ルイスはわたしのことなんてどうでもいいんだ。
 怖い男の人たちが森にたくさんいて、わたしを探しているんでしょ。
 そんな中でわたしを放っておいても、平気なんだ」

 しゃくりあげる体を、両腕できつく抱きしめられた。
 呼吸が苦しくなるほどだった。

「平気じゃないよ。平気なわけがないだろう。
 四六時中ずっと、きみのことを考えてる。
 アイリスが気がかりで、心配で、そばにいたくて気が狂いそうだ」

 アイリスの耳元で、ルイスが震える声を絞り出す。

「どうすればきみを救えるのか、そればかりを考えてる。
 僕のなにを差し出してもいいから、きみを救いたいと。
 その方法を知っていると言った弟の、その首を、この両手で締めながら、答えを吐かせようとする外道の夢を、何度見たことか。
 時間が足りない。
 ロキが七年かけてたどり着いた答えを自力で得るには、時間が到底足りないんだ。
 そのあいだに国王は、アイリスを見つけてしまう」

 ルイスの言う言葉の意味が、アイリスにはわからなかった。

 けれど、ルイスが自分のことをどうでもいいなんて思っていないことを感じて、安堵した。

 安堵すると体の力が抜けて、アイリスはルイスに身を預けた。
 ルイスの匂いが胸いっぱいに広がって、涙がまた零れる。

「きみは――エルサをこの上ない危険にさらしてしまった。
 国王はきみを許さないだろう。
 カストルも同じだ。
 炎の王とセーレの当主の両方を、きみは敵に回してしまった」

「わたしが王様の敵?」

 アイリスは戸惑った。
 国王とは会ったことすらないし、なんとかの当主というのは聞いたことすらないのだ。

「エルサって、だれ?」

 ルイスはそれに答えなかった。

 固く抱きしめ、アイリスの髪にくちびるを押し当てながら、ルイスは言う。

「僕にずっとそばにいてほしいと言ったね」

「うん、いてほしい」

「この小屋を出て――森を出て、王都も、国さえも出て、放浪することになろうとも?」

「うん」

「僕ら以外の誰とも親しくならず、誰一人踏み入らないような山の奥で、ずっと二人きりで暮らすことになっても?」

「うん」

 考えるまでもなくアイリスはうなずいた。

 山の奥でも、例えば誰も住まない孤島であっても、ルイスがいればいい。

 ルイスがそばにいてくれれば、それだけでいいのだ。

 ルイスは一度黙った後、腕を緩めてアイリスと視線を合わせた。

 琥珀色の彼の瞳の中で、行き場のない悲しみとやるせなさがせめぎ合っているように、アイリスには思えた。

「こんな風にしか、僕はきみを守れない。すまない、アイリス」

「ルイスといられるだけでいい」

 嬉しくて、アイリスはルイスに抱きついた。

 ルイスは息を飲み、それから、宝物を胸の中にしまいこむようにしてアイリスを抱きしめた。

 夜半前に、ルイスは、旅に出る準備をしてくると言い狩小屋を出て行った。
 一時間ほどしたら戻ってきてくれるらしい。

『家の者につかまったら一時間では戻れないかもしれない。
 それでも、夜明け前には必ず戻るから、ここで待っているんだよ』

 これからはずっとルイスといられる。
 あまりの嬉しさに、アイリスは浮き足立っていた。

 ルイスは、アイリスにも持ち物をまとめておくように言っていた。
 アイリスの持ち物といえば、着る物くらいだ。
 ベッドの上で小さく畳んで重ねておき、それから暖かいワンピースに着替えた。
 ウールの外套も用意して、すぐに出かけられるようにする。

「早く戻ってこないかな」

 ベッドに腰掛けて、幸せな気持ちでアイリスは両脚をぷらぷらさせた。

 振り返って窓を見た。
 これまでは悲しみの象徴のようだった城砦の尖塔が、いまは優しげにすら見える。
 ルイスの兄や弟のことも、彼が大切にしている妹のことも、全然気にならなかった。
 暗雲のように胸を塞ぐ不安感が、すっかり消えていた。
 ルイスがそばにいないあいだ、このように晴れ晴れとした気持ちでいられるのは初めてのことだった。

 しかし、そういった状態は長く続かなかった。

 一時間を過ぎても、ルイスは姿を現さなかった。

 最初は、家族に捕まっているのだろうと思った。
 でも、さらに十分が過ぎ、三十分が過ぎ、一時間が経つ頃になって、アイリスはいてもたってもいられなくなっていた。

 寝室をうろうろし、ダイニングに移動して動き回り、不安でいっぱいになりながら爪を噛んだりしていた。
 すると、ダイニングテーブルの上にルイスの手袋が置き忘れられていることに気がついた。

「もしかして、これを探して遅くなっているのかな」

 ルイスは、ここに置き忘れたということに気づかず、城砦の中を探し回っているのかもしれない。

「それだったら、届けに行かないと」

 アイリスは焦燥感に駆られていた。
 ほんの一時間前は幸せな気持ちでいたからこそ、不安感がいつもよりも増していた。

『怖い魔術師たちがアイリスを捕まえようと森に潜んでいるから、狩小屋から一人で出てはいけない』との言いつけが、頭をかすめた。
 でも、不安の前にかき消えてしまった。

 外套を羽織り、手袋を握りしめて、アイリスは狩小屋の扉を開けた。周囲には誰もいないようだ。

 不安のせいで動悸が早まっている。
 胸元を、手袋を握り込んだ手で押さえながら、城砦に向かって駆け出そうとしたときだった。

 目の前には誰もいないはずだったのに、その青年はそこに立っていた。
 アイリスから五歩の距離だ。

「外に出てはいけないと言われなかったかな、小さな魔女のお嬢さん」

 青年は、夜の闇から溶け出たかのような、黒のローブを纏っていた。
 フードの下から琥珀色の瞳が光ったから、そうではないと思いながらも、アイリスはつぶやいた。

「ルイス……?」

「なんとなくの色合いと背格好は似ているけれど、僕は彼じゃないよ」

 もう一歩近づいて、青年はフードを取り去った。
 同時に、二人のあいだに小さな光が現れる。
 ルイスも照明がわりによく使っている雷玉だ。

 青年は、整った顔立ちをしていてどことなくルイスに似ていたが、やはりルイスではなかった。
 彼は笑みを浮かべながらふたたび口を開いた。

「こんばんはアイリス、この姿では初めまして。
 本来ならば僕の自己紹介をするべきところだけれど、いまは時間が惜しいから省かせてもらうよ。
 なにしろここは危険なんだ。
 国王の手の者が、悪い魔女を捕まえようとウロウロしているからね」

「悪い魔女……?」

「そう、きみのことだよ、アイリス」

 彼は笑って、アイリスに近づいた。
 アイリスは怖くなって、狩小屋の扉に背中を押し付けるようにして後ろに下がった。