38 情熱と求婚

第五章

 ルイスを見なかったか、とカストルがエルサに尋ねてきた。
 エルサは、靄のかかったような頭でぼうっと考えてから、ゆっくりと首を振った。

「いえ、ルイス兄様とは三日前に会ったきりです」

「そうか……まだ森の中にいるのかもしれないな。
 まったくあいつは、連絡の一つでもよこさないで」

 朝食を終えた後の、エルサの部屋だった。
 空はよく晴れていたが空気の乾燥した日で、窓の外は北風が吹いていた。

 エルサは窓際の椅子に座って編み物をしていた。
 園丁たちに、作業中に使えるようなマフラーを編んでいるのだ。

 編み棒をもつ手元を見やりながら、カストルは遠慮がちに言う。

「夜は眠れているのか、エルサ」

「はい、大丈夫です」

 エルサは兄を見上げてほほ笑んだ。

「カストル兄様がくださったハーブティーが眠りにとてもよく効くの。
 ぐっすり眠れているわ。
 ありがとうございます、お兄様」

「それならよかった」

 カストルは、心配そうにしながらも笑みを返す。

 アレスに王城に招かれて、そこで森の魔女の襲撃を受けた。
 大怪我を負って昏倒したアレスに別れを告げて、この城塞に戻ってきたのは三日前のことだ。

 その翌日にアレスから、エルサの無事を問う手紙が届いた。
 その中には、アレスの怪我は全治十日だとも書かれていた。

 治るにはもっと日数が掛かるような大怪我だと思っていたので、エルサはほっとした。
 カストルが言うには、常人であれば回復には倍以上の期間がかかるらしい。
 「奴は阿呆みたいに鍛えているから、体力と気力が桁外れなんだ」とのことだ。

 その手紙に、エルサは返事を書かなかった。

 代わりにカストルが、メモをちぎって「エルサは元気だ」と乱雑に書いたものを、アレス宛に送ったようだった。

 エルサは、アレスに二度と会わないと決めていた。
 そのことを兄たちの誰にも話してはいなかったけれど、聡い彼らは察しているように見えた。

 カストルは言う。

「朝の散歩を再開しないのか?」

「明日からしようかと思っているの」

「たまには僕もおまえと一緒に歩こうかな」

「じゃあ、明日の朝お兄様のお部屋に呼びに行きますね」

 カストルはうなずいて、それから部屋を出て行った。
 一人になり、エルサは編み棒を黙々と動かした。

 鳥のさえずりが聞こえてくる。
 たまに大きな鳴き声がすると、ロキではないかと思ってエルサは外に目をやった。

 城砦の中は静かで、いつもどおりの日常が、いつもどおりに進んでいく。

 青を薄めたような空を見ていると、侍女のマイアが部屋を訪れた。

「失礼いたします、お嬢様。
 カストル様はいらっしゃいますでしょうか」

「先ほどまではいらしたのだけれど、出て行ってしまったわ。
 お兄様にご用かしら?」

「カストル様宛のお手紙を従僕から預かったのです。
 執務室にいらっしゃるかもしれないですね。
 行ってみます」

「わたしがお届けするわ、マイア」

 エルサは編み棒をテーブルに置いて立ち上がった。
 マイアは遠慮したが、エルサは手紙を受け取って廊下に出る。

(いつまでも、椅子に座ってぼうっと過ごしていてはいけないわ)

 彼に会わないと決めたことは、エルサにとって大きな喪失だった。
 この三日間、その喪失感に身を浸して過ごしていた。

 一方で兄たちは、エルサが『嘆きの魔女』に変貌してしまわないか心配しているようだった。
 けれどエルサは、この恋心によって自分が変貌することはないと確信していた。

 アレスとの別れは、身を引き裂かれるような悲しみを伴った。

 でも、それ以上の喜びや温もりをエルサに残してくれた。

(だからちゃんと、前を見て生きていけるわ)

 エルサは、兄の執務室をノックした。
 返事を待ってから中に入り、カストルに手紙を渡した。

「ありがとうエルサ、わざわざすまなかったね。
 ……と、差出人が書かれていないな」

 封筒を裏返しながらカストルがつぶやいた。

 エルサが退室しようとすると、「ちょうどおまえに買ってきた菓子があるんだ。食べて行きなさい」とカストルが言った。

 ソファに腰を下ろすエルサの前に、カストルが化粧箱を置いて蓋を開ける。
 薄い紙で個包装された、星型のクッキーが綺麗に並んでいた。

「仕事で遠方に行ったときに買ってきたものだよ。
 レモンクッキーだそうだ」

「美味しそう。
 ありがとうございます、お兄様」

 カストルは呼び紐で執事を呼びつけ、お茶の用意を頼んだ。

 それからペーパーナイフで手紙の封を切り、中身を開きながら正面のソファに座る。

「お仕事のお手紙ですか、お兄様」

「いや、違う――」

 字面を追う兄の顔が、だんだんと険しくなっていく。
 エルサは首を傾げた。

「良くない内容だったのですか?」

「…………」

「カストル兄様?」

 カストルが突然、手紙を両手でぐしゃりと握りつぶしたものだから、エルサはびっくりした。

「お兄様、お手紙をそんな風にしては」

「くそ、あいつめ、よくも抜け抜けと……!!」

 怒気を撒き散らしながら、カストルは立ち上がった。
 いつになく兄が怒っているのを見て、エルサは戸惑う。

「お兄様、お気を鎮めてください」

「せっかくエルサが元気になり始めたところだというのに、なんなんだあいつは!
 このような言い分は、絶対に許さぬぞ!」

 そのとき、ノックもそこそこに扉が開いて、執事が飛び込んできた。

「ご来客でございます、ご主人様。
 いますぐにご主人様と話がしたいと、先方が申されておりまして、お客人のお名前は、その――」

 老執事は、エルサのことをちらりと見て口ごもった。
 カストルはすぐに「わかった、僕が対応する」と告げる。

「エルサは部屋に戻っていなさい。
 マイアを呼んで、部屋から出ないようにするんだぞ」

 直感して、エルサは顔色を変えた。
 指先が震える。

「お兄様、お客人とは、まさか」

「いいからお前は部屋に――」

 そのとき、窓の外で轟音が湧き上がった。

 水色の空が赤い光に照り映えて、火の粉が舞うのが見えた。

 エルサは思わず立ち上がった。

「あの炎は――」

 カストルが窓に飛びついて、盛大に舌打ちをする。

「大怪我をしてまだ三日だぞ、あの化け物め!」

「――カストル!!」

 カストルが開けた窓から、男の声が飛び込んできた。
 その声は、エルサの心臓を鷲掴みにした。

 空に朗々と響く声だった。
 不遜であり、堂々として、怒りは含まれていなかったが、充溢した意志が込められていた。

「さっさと降りて来いカストル!
 おまえの御託はもう聞かない。
 不毛な言い合いは終わりにして、いますぐ決着をつけようじゃないか」

 カストルは、怒りが沸点に達したような形相で歯ぎしりをした。

「いいだろう。炎の魔術師風情が、返り討ちにしてやる……!」

 カストルが部屋を飛び出していく。

 エルサは我に返り、兄を追って外に出た。
 出る前に、カストルが投げ捨てた手紙を拾っていった。

 カストルの背中はエントランスの階段を駆け下りて、正門にたどり着く。
 エルサは階段の手すりにつかまって立ち止まり、門前を見た。

 そこには黒毛の馬とティムの姿があり、その数歩前に、軍服姿のアレスが立っていた。

 アレスの姿を目に入れた途端、エルサの心臓が大きく音を立てた。
 痛いほどの鼓動だったので、エルサは息を詰めた。震える両手で手すりを握り込んだ。

 アレスの、明るい青色の瞳がこちらを流し見た。
 それからすぐに、彼のまなざしは、目の前のカストルに向けられる。
 視線が重なったのはほんの一瞬だったが、エルサの心をすべて奪ってしまうのに充分だった。

 黒のローブを纏ったカストルの周囲に、黄金の電撃が生じた。
 アレスの周りにも炎風が吹いている。
 カストルはアレスを睨みつけ、アレスは好戦的な笑みを浮かべていた。

 臨戦態勢に入った二人を見て、エルサは顔色を変える。
 アレスへの恋情がこのときだけは吹き飛んで、慌てて階段を駆け下りた。

「だめです、お兄様、アレス様。
 ケンカはしないでくださいと、先日あれほど――!」

「下がっていろエルサ、僕は、こいつにはもう我慢がならない!」

 黄金色の稲妻が青空にヒビを入れる。
 雷鳴が轟いて、鳥たちが散り散りに逃げ出した。

 エルサが、階段の最後の一段を降りようとしたとき、すぐ目の前に一羽の鷹が舞い降りてきた。

 エルサはびっくりして立ち止まる。
 鷹は速やかに、ロキの姿に取って代わった。

「騒がしいと思って駆けつけてみたら、面白いことになっているじゃない。
 ルイスを引き止めた甲斐があったと言うものだよ」

「ロキ兄様、お二人を止めてください」

 エルサが必死に頼むも、ロキは取り合ってくれない。
 そうこうしている内に天から雷が落とされ、逆巻く炎がそれを迎え撃った。

 轟音が響く。
 炎風と雷風が凄まじい勢いで庭園を駆け巡り、池を大きく波立たせ、木々をなぎ倒さんばかりにしならせた。

 園丁らはすでに避難し、衛兵たちはなすすべもなく遠巻きにオロオロしている。
 国王の従者のティムは、剣を手に添えながら状況を見守っている。

 エルサは、腕で目を庇いながらも二人を止めようと足を踏み出した。
 撃ち落とされた天雷を飛びのいて避けながら、アレスが大声で言った。

「エルサ!」

 エルサはびくりと体を竦ませた。

「カストルのうるさい口を黙らせてから、きみに会いにいくよ。
 それまで部屋に戻っていてくれ」

「で、でも――」

「俺はこんなにもきみに恋い焦がれているのに、きみがいつまで経っても俺の手を取ってくれないから、痺れを切らして迎えに来てしまったんじゃないか」

 告白とも軽口ともつかぬ言葉を並べながら、雷を炎の壁で弾き返し、幾つもの火玉をカストルに放つ。
「貴様、勝手なことを抜かすな!」とカストルが怒りの天雷を落とすものだから、エルサはアレスの言葉に心を揺さぶられる余裕もない。

 とにかく、こんなことはやめてほしかった。
 エルサはふたたび割って入ろうとしたが、ロキに腕を取られて阻まれてしまう。

 ついでに手紙も取られて、エルサは批難の声を上げた。

「ロキ兄様……!」

「ははーん、なるほど。
 この内容であれば、そりゃあカストル兄さんは激怒するよ。
 ごらんエルサ、ここには国王の、きみへの思いがしたためられているよ」

「わたしは、人への手紙を読むようなことはしません」

「なら教えてあげよう。
 とても短い手紙だよ。
 曰く、エルサ・セーレ嬢を我が花嫁に迎えるための許可を、ご当主からいただきたい」

 エルサは愕然とした。
 一拍おいて、頬がみるみる上気していく。

「は――花嫁だなんて、わたしはそんなこと。
 アレス様からそのようなこと、一言も聞いていないわ」

「聞いていないなんて言ったら、アレスがかわいそうだよ。
 彼がおまえに惚れきっているということは、おまえたちを見たらすぐにわかることだ。
 アレスの恋情に、エルサもちゃんと気づいていたでしょう?
 ――にしても、国王陛下はさすがのクソ度胸だ」

 笑って、ロキは手紙を握り潰した挙句に投げ捨てた。
 慌てて拾おうとするエルサの、細い腰を片腕に攫って、階段のてっぺんまで一息に跳躍する。

「ロキ兄様、離してください……!」

「単身堂々と乗り込んで、『黄金の魔術師』の妹を力づくで奪い取ろうと言うのだからね。
 英雄がお姫様を得るには、ドラゴンと戦って勝利することが必須だということか。
 面白いじゃないか」

「けれど、このままでは庭が穴だらけになってしまいます!」

 兄の腕の中でエルサがもがくと、ロキは、妹の銀の髪に口づけた。

「大人しくしておいで、エルサ。
 ここにいたら巻き添えを食うから部屋に戻ろう。
 なにしろ、ヴィネア王国が誇る二大怪物の大決戦だからね」

 冗談めかした声に、二つの魔術がぶつかり合う大きな音と烈風が被さった。

 嫌がるエルサを横抱きにして、ロキは呪文を詠唱した。
 ローブを突き破って彼の背中から現れたのは鷹の翼だ。
 大きく羽ばたいて、三階にあるエルサの自室のバルコニーに舞い降りる。

 ロキの腕からやっと解放されて、エルサは柵に両手をついた。

 眼下の庭園では、アレスとカストルが戦いを繰り広げている。
 炎の赤と雷の黄金が、周囲を取り巻くすべてを圧倒して、激突し合っていた。

「もう、これだから男の人は……!
 小さい頃となにも変わっていないじゃない」

「後始末は使用人総出で一ヶ月は掛かるかな。
 王城から助っ人も頼まないとなぁ。
 ――ところで、ねえ、エルサ」

 兄の声音が深いものに変わったので、エルサは気を引かれて振り返った。

 ロキは、くちびるに笑みを浮かべながら、琥珀色の瞳でエルサを見ていた。

「おまえのことを本気で獲(と)りに来た国王を、おまえはどうする気だい?」

「どうする気、って――」

 エルサはどきりとした。
 それは、ときめきによる高鳴りではなく、聞かれたくないことを聞かれてしまったという類のものだった。

 いつも軽口を言ってばかりのロキだが、こうしてまっすぐに見つめてくるときは、こちらのごまかしは一切効かないのだ。