第五章
ルイスを見なかったか、とカストルがエルサに尋ねてきた。
エルサは、靄のかかったような頭でぼうっと考えてから、ゆっくりと首を振った。
「いえ、ルイス兄様とは三日前に会ったきりです」
「そうか……まだ森の中にいるのかもしれないな。
まったくあいつは、連絡の一つでもよこさないで」
朝食を終えた後の、エルサの部屋だった。
空はよく晴れていたが空気の乾燥した日で、窓の外は北風が吹いていた。
エルサは窓際の椅子に座って編み物をしていた。
園丁たちに、作業中に使えるようなマフラーを編んでいるのだ。
編み棒をもつ手元を見やりながら、カストルは遠慮がちに言う。
「夜は眠れているのか、エルサ」
「はい、大丈夫です」
エルサは兄を見上げてほほ笑んだ。
「カストル兄様がくださったハーブティーが眠りにとてもよく効くの。
ぐっすり眠れているわ。
ありがとうございます、お兄様」
「それならよかった」
カストルは、心配そうにしながらも笑みを返す。
アレスに王城に招かれて、そこで森の魔女の襲撃を受けた。
大怪我を負って昏倒したアレスに別れを告げて、この城塞に戻ってきたのは三日前のことだ。
その翌日にアレスから、エルサの無事を問う手紙が届いた。
その中には、アレスの怪我は全治十日だとも書かれていた。
治るにはもっと日数が掛かるような大怪我だと思っていたので、エルサはほっとした。
カストルが言うには、常人であれば回復には倍以上の期間がかかるらしい。
「奴は阿呆みたいに鍛えているから、体力と気力が桁外れなんだ」とのことだ。
その手紙に、エルサは返事を書かなかった。
代わりにカストルが、メモをちぎって「エルサは元気だ」と乱雑に書いたものを、アレス宛に送ったようだった。
エルサは、アレスに二度と会わないと決めていた。
そのことを兄たちの誰にも話してはいなかったけれど、聡い彼らは察しているように見えた。
カストルは言う。
「朝の散歩を再開しないのか?」
「明日からしようかと思っているの」
「たまには僕もおまえと一緒に歩こうかな」
「じゃあ、明日の朝お兄様のお部屋に呼びに行きますね」
カストルはうなずいて、それから部屋を出て行った。
一人になり、エルサは編み棒を黙々と動かした。
鳥のさえずりが聞こえてくる。
たまに大きな鳴き声がすると、ロキではないかと思ってエルサは外に目をやった。
城砦の中は静かで、いつもどおりの日常が、いつもどおりに進んでいく。
青を薄めたような空を見ていると、侍女のマイアが部屋を訪れた。
「失礼いたします、お嬢様。
カストル様はいらっしゃいますでしょうか」
「先ほどまではいらしたのだけれど、出て行ってしまったわ。
お兄様にご用かしら?」
「カストル様宛のお手紙を従僕から預かったのです。
執務室にいらっしゃるかもしれないですね。
行ってみます」
「わたしがお届けするわ、マイア」
エルサは編み棒をテーブルに置いて立ち上がった。
マイアは遠慮したが、エルサは手紙を受け取って廊下に出る。
(いつまでも、椅子に座ってぼうっと過ごしていてはいけないわ)
彼に会わないと決めたことは、エルサにとって大きな喪失だった。
この三日間、その喪失感に身を浸して過ごしていた。
一方で兄たちは、エルサが『嘆きの魔女』に変貌してしまわないか心配しているようだった。
けれどエルサは、この恋心によって自分が変貌することはないと確信していた。
アレスとの別れは、身を引き裂かれるような悲しみを伴った。
でも、それ以上の喜びや温もりをエルサに残してくれた。
(だからちゃんと、前を見て生きていけるわ)
エルサは、兄の執務室をノックした。
返事を待ってから中に入り、カストルに手紙を渡した。
「ありがとうエルサ、わざわざすまなかったね。
……と、差出人が書かれていないな」
封筒を裏返しながらカストルがつぶやいた。
エルサが退室しようとすると、「ちょうどおまえに買ってきた菓子があるんだ。食べて行きなさい」とカストルが言った。
ソファに腰を下ろすエルサの前に、カストルが化粧箱を置いて蓋を開ける。
薄い紙で個包装された、星型のクッキーが綺麗に並んでいた。
「仕事で遠方に行ったときに買ってきたものだよ。
レモンクッキーだそうだ」
「美味しそう。
ありがとうございます、お兄様」
カストルは呼び紐で執事を呼びつけ、お茶の用意を頼んだ。
それからペーパーナイフで手紙の封を切り、中身を開きながら正面のソファに座る。
「お仕事のお手紙ですか、お兄様」
「いや、違う――」
字面を追う兄の顔が、だんだんと険しくなっていく。
エルサは首を傾げた。
「良くない内容だったのですか?」
「…………」
「カストル兄様?」
カストルが突然、手紙を両手でぐしゃりと握りつぶしたものだから、エルサはびっくりした。
「お兄様、お手紙をそんな風にしては」
「くそ、あいつめ、よくも抜け抜けと……!!」
怒気を撒き散らしながら、カストルは立ち上がった。
いつになく兄が怒っているのを見て、エルサは戸惑う。
「お兄様、お気を鎮めてください」
「せっかくエルサが元気になり始めたところだというのに、なんなんだあいつは!
このような言い分は、絶対に許さぬぞ!」
そのとき、ノックもそこそこに扉が開いて、執事が飛び込んできた。
「ご来客でございます、ご主人様。
いますぐにご主人様と話がしたいと、先方が申されておりまして、お客人のお名前は、その――」
老執事は、エルサのことをちらりと見て口ごもった。
カストルはすぐに「わかった、僕が対応する」と告げる。
「エルサは部屋に戻っていなさい。
マイアを呼んで、部屋から出ないようにするんだぞ」
直感して、エルサは顔色を変えた。
指先が震える。
「お兄様、お客人とは、まさか」
「いいからお前は部屋に――」
そのとき、窓の外で轟音が湧き上がった。
水色の空が赤い光に照り映えて、火の粉が舞うのが見えた。
エルサは思わず立ち上がった。
「あの炎は――」
カストルが窓に飛びついて、盛大に舌打ちをする。
「大怪我をしてまだ三日だぞ、あの化け物め!」
「――カストル!!」
カストルが開けた窓から、男の声が飛び込んできた。
その声は、エルサの心臓を鷲掴みにした。
空に朗々と響く声だった。
不遜であり、堂々として、怒りは含まれていなかったが、充溢した意志が込められていた。
「さっさと降りて来いカストル!
おまえの御託はもう聞かない。
不毛な言い合いは終わりにして、いますぐ決着をつけようじゃないか」
カストルは、怒りが沸点に達したような形相で歯ぎしりをした。
「いいだろう。炎の魔術師風情が、返り討ちにしてやる……!」
カストルが部屋を飛び出していく。
エルサは我に返り、兄を追って外に出た。
出る前に、カストルが投げ捨てた手紙を拾っていった。
カストルの背中はエントランスの階段を駆け下りて、正門にたどり着く。
エルサは階段の手すりにつかまって立ち止まり、門前を見た。
そこには黒毛の馬とティムの姿があり、その数歩前に、軍服姿のアレスが立っていた。
アレスの姿を目に入れた途端、エルサの心臓が大きく音を立てた。
痛いほどの鼓動だったので、エルサは息を詰めた。震える両手で手すりを握り込んだ。
アレスの、明るい青色の瞳がこちらを流し見た。
それからすぐに、彼のまなざしは、目の前のカストルに向けられる。
視線が重なったのはほんの一瞬だったが、エルサの心をすべて奪ってしまうのに充分だった。
黒のローブを纏ったカストルの周囲に、黄金の電撃が生じた。
アレスの周りにも炎風が吹いている。
カストルはアレスを睨みつけ、アレスは好戦的な笑みを浮かべていた。
臨戦態勢に入った二人を見て、エルサは顔色を変える。
アレスへの恋情がこのときだけは吹き飛んで、慌てて階段を駆け下りた。
「だめです、お兄様、アレス様。
ケンカはしないでくださいと、先日あれほど――!」
「下がっていろエルサ、僕は、こいつにはもう我慢がならない!」
黄金色の稲妻が青空にヒビを入れる。
雷鳴が轟いて、鳥たちが散り散りに逃げ出した。
エルサが、階段の最後の一段を降りようとしたとき、すぐ目の前に一羽の鷹が舞い降りてきた。
エルサはびっくりして立ち止まる。
鷹は速やかに、ロキの姿に取って代わった。
「騒がしいと思って駆けつけてみたら、面白いことになっているじゃない。
ルイスを引き止めた甲斐があったと言うものだよ」
「ロキ兄様、お二人を止めてください」
エルサが必死に頼むも、ロキは取り合ってくれない。
そうこうしている内に天から雷が落とされ、逆巻く炎がそれを迎え撃った。
轟音が響く。
炎風と雷風が凄まじい勢いで庭園を駆け巡り、池を大きく波立たせ、木々をなぎ倒さんばかりにしならせた。
園丁らはすでに避難し、衛兵たちはなすすべもなく遠巻きにオロオロしている。
国王の従者のティムは、剣を手に添えながら状況を見守っている。
エルサは、腕で目を庇いながらも二人を止めようと足を踏み出した。
撃ち落とされた天雷を飛びのいて避けながら、アレスが大声で言った。
「エルサ!」
エルサはびくりと体を竦ませた。
「カストルのうるさい口を黙らせてから、きみに会いにいくよ。
それまで部屋に戻っていてくれ」
「で、でも――」
「俺はこんなにもきみに恋い焦がれているのに、きみがいつまで経っても俺の手を取ってくれないから、痺れを切らして迎えに来てしまったんじゃないか」
告白とも軽口ともつかぬ言葉を並べながら、雷を炎の壁で弾き返し、幾つもの火玉をカストルに放つ。
「貴様、勝手なことを抜かすな!」とカストルが怒りの天雷を落とすものだから、エルサはアレスの言葉に心を揺さぶられる余裕もない。
とにかく、こんなことはやめてほしかった。
エルサはふたたび割って入ろうとしたが、ロキに腕を取られて阻まれてしまう。
ついでに手紙も取られて、エルサは批難の声を上げた。
「ロキ兄様……!」
「ははーん、なるほど。
この内容であれば、そりゃあカストル兄さんは激怒するよ。
ごらんエルサ、ここには国王の、きみへの思いがしたためられているよ」
「わたしは、人への手紙を読むようなことはしません」
「なら教えてあげよう。
とても短い手紙だよ。
曰く、エルサ・セーレ嬢を我が花嫁に迎えるための許可を、ご当主からいただきたい」
エルサは愕然とした。
一拍おいて、頬がみるみる上気していく。
「は――花嫁だなんて、わたしはそんなこと。
アレス様からそのようなこと、一言も聞いていないわ」
「聞いていないなんて言ったら、アレスがかわいそうだよ。
彼がおまえに惚れきっているということは、おまえたちを見たらすぐにわかることだ。
アレスの恋情に、エルサもちゃんと気づいていたでしょう?
――にしても、国王陛下はさすがのクソ度胸だ」
笑って、ロキは手紙を握り潰した挙句に投げ捨てた。
慌てて拾おうとするエルサの、細い腰を片腕に攫って、階段のてっぺんまで一息に跳躍する。
「ロキ兄様、離してください……!」
「単身堂々と乗り込んで、『黄金の魔術師』の妹を力づくで奪い取ろうと言うのだからね。
英雄がお姫様を得るには、ドラゴンと戦って勝利することが必須だということか。
面白いじゃないか」
「けれど、このままでは庭が穴だらけになってしまいます!」
兄の腕の中でエルサがもがくと、ロキは、妹の銀の髪に口づけた。
「大人しくしておいで、エルサ。
ここにいたら巻き添えを食うから部屋に戻ろう。
なにしろ、ヴィネア王国が誇る二大怪物の大決戦だからね」
冗談めかした声に、二つの魔術がぶつかり合う大きな音と烈風が被さった。
嫌がるエルサを横抱きにして、ロキは呪文を詠唱した。
ローブを突き破って彼の背中から現れたのは鷹の翼だ。
大きく羽ばたいて、三階にあるエルサの自室のバルコニーに舞い降りる。
ロキの腕からやっと解放されて、エルサは柵に両手をついた。
眼下の庭園では、アレスとカストルが戦いを繰り広げている。
炎の赤と雷の黄金が、周囲を取り巻くすべてを圧倒して、激突し合っていた。
「もう、これだから男の人は……!
小さい頃となにも変わっていないじゃない」
「後始末は使用人総出で一ヶ月は掛かるかな。
王城から助っ人も頼まないとなぁ。
――ところで、ねえ、エルサ」
兄の声音が深いものに変わったので、エルサは気を引かれて振り返った。
ロキは、くちびるに笑みを浮かべながら、琥珀色の瞳でエルサを見ていた。
「おまえのことを本気で獲(と)りに来た国王を、おまえはどうする気だい?」
「どうする気、って――」
エルサはどきりとした。
それは、ときめきによる高鳴りではなく、聞かれたくないことを聞かれてしまったという類のものだった。
いつも軽口を言ってばかりのロキだが、こうしてまっすぐに見つめてくるときは、こちらのごまかしは一切効かないのだ。