39 きみを愛してる

 エルサは告げた。

「国王陛下とは、三日前にお別れしました。
 わたしは城砦の中で暮らしていくことを決めたの」

「だからアレスの手は取れないと?」

 エルサはうなずいた。
 ロキの瞳に冷笑が浮かぶ。

「僕は、優等生の建前を聞きたいんじゃないんだよ、エルサ」

 エルサは言葉に詰まった。

 建前を言ったわけではない。
 本心からの言葉だった。

『嘆きの魔女』は極めて凶暴な存在で、自分もそれに変貌する可能性がある。
 アレスの近くにいては彼に危険が及ぶし、こんな自分が王妃の器だとも思えない。

 危機に瀕すれば、アレスは、三日前のように身を呈してエルサを守ろうとするだろう。
 アレスはそういう人間だからだ。

 あのようなことは、二度と繰り返してはいけない。

 だから、城砦にいるという選択が最も正しいのだ。

 ロキが言う。

「国王の望みは理解しているんだろう?
 アレスはお前が欲しいんだよ。
 『黄金の魔術師』と戦ってでも、お前が欲しいんだ。
 そこまでの情熱を見せる彼を、おまえは、この城砦に留まっていれば安全だからと言う理由だけで突っぱねるつもりなのか?」

 エルサは答えられなかった。
 胸がひどく痛んでいた。

 ロキは微笑しながら手を伸ばし、エルサの頬にふれる。

「僕の賢い妹、エルサ。
 おまえの本当の望みを言ってごらん」

「――……」

 エルサは震えながら首を振った。
 ロキは重ねて言う。

「周囲の者どもに嘲笑され、蔑まれたことにまだ痛みを感じているの?
 人の悪意が怖い?
 本当に?
 エルサはただ、カストルの作った安全な繭の中でまどろんでいたいだけじゃないの?」

「違うわ」

「そっちのほうが生きていく上で楽だから、外からの声や想いを無視しているんじゃないのかい?」

「違う……!」

 エルサは大きく首を振った。
 その弾みで、ドレスの内側に入れていた片翼のペンダントが、飛び出した。

 透明だった片翼は、いま、うっすらと灰色に染まっている。
 エルサはそれに気がつかなかったが、ロキは気づいた。
 ロキは、エルサの両腕をつかんだ。

「いいかい、エルサ。
 おまえ自身がカストル兄さんにノーを突きつけない限り、カストルはおまえを決して離さない。
 だから、ちゃんと自分で自分の意思を表さないとだめなんだ」

「わたしが外に出たら、お兄様たちが中傷を受けるわ。
 わたしが出来損ないのせいで、お兄様たちだけでなく、お父様やお母様まで悪く言われる。
 それも嫌なの……!」

 エルサの瞳から涙が零れた。
 片翼の灰色が濃さを増した。

「見くびられちゃ困る」

 ロキは切迫した笑みを刷き、エルサの胸元の片翼をつかみ取った。

「カストルやルイスはどうだか知らないが、僕の耳には周囲の声など聞こえない。
 僕は僕の聞きたい音だけを聞き、見たいものだけを見る。
 僕は、おまえの自由になった姿を見たいんだ」

「ロキ兄様――」

「『嘆きの魔女』になってごらん、エルサ」

 エルサは愕然と目を見開いた。

 ロキは続ける。

「僕がおまえの棺を創ってあげる。
 嘆きの闇に堕ちていくおまえを、誰の手にもふれさせないよう、時が満ちるまで必ず守るよ」

「ロキ兄様、どうしてそんなことを」

 そのとき、室内の扉が轟音とともに燃やし尽くされた。

 扉を焼いた炎は、絨毯を舐めながら一直線にバルコニーへ向かい、大きな窓を粉々に破砕した。
 窓硝子の欠片から、炎の壁がエルサを守ったため、エルサに怪我は一つもなかった。

 とっさに彼の名を呼んだときには、エルサは、強靭な両腕によってロキの元から奪い取られていた。

「きみを泣かせたのはあいつか、エルサ」

 エルサごと跳躍して室内に下がり、固く抱きしたまま、アレスはエルサの涙を指で払った。

 言葉も忘れてエルサはアレスを見上げていた。
 アレスの青色の瞳は、激情のままに輝いていた。

「きみの愛する兄であろうと、俺はもう遠慮しない。
 きみを俺の目から隠す者、きみを傷つけ泣かせる者、すべて俺の敵だ」

「やめてくださいアレス様。
 ロキ兄様を攻撃しないでください」

 エルサは我に返り、アレスの軍服を握って必死に訴える。

 アレスは瞬きしたのちに、ほほ笑んだ。

「三日ぶりに会えたな、エルサ。
 きみの姿を見ることができて嬉しいよ」

「わたしは――そうではありません」

 エルサは声を詰まらせながら言った。

 心が悲鳴をあげていた。

「わたしはお会いしたくありませんでした」

「それでもいい。
 俺は会いたかった」

 美しく輝く青色の瞳が、愛おしげにエルサを映していた。

 今度こそエルサは、返す言葉を失ってくちびるを噛んだ。

 ロキが、「やれやれ」と口を挟む。

「僕の見立てでは、怪我をしているアレスのほうが負けるはずだったんだけどなぁ。
 少し予定が狂ったよ。
 いずれにしてもおめでとう、国王様。
 雷龍退治は骨の折れる仕事だっただろ?」

「残りの一匹に喰らわせる炎くらいは残してあるさ」

「独占欲の強い国王陛下。
 きみが、エルサを閉じ込める第二のカストルになるのであれば、そのときにお相手するよ」

 ロキの周囲を黄金色の燐光が舞う。真っ白な鳩に変身して、彼は空へ飛び立っていった。

「待って、ロキ兄様!」

 アレスの腕の中から出ようとするエルサを、アレスは抱き寄せる。
 エルサはアレスを、批難の目で見上げた。

「カストル兄様を、あなたは傷つけたのだわ」

 また涙が零れた。
 濡れた頬を、アレスの片方のてのひらが優しく包む。

「そこまでひどい怪我じゃない。
 応急処置で歩けるようになるし、半月もすれば元どおりになる程度だよ」

 そう言うアレスも、軍服はぼろぼろであちこちに怪我をしていた。
 満身創痍の状態である。

 アレスの状態を見て、エルサはさらに涙をあふれさせた。
 指でそれを拭いながら、アレスは言う。

「きみを迎えにきた。
 もう二度と離れることのないように、きみを抱きしめ続ける許可を俺にくれないか」

「わたしはどこにも行かないと決めたの。
 アレス様とは、もう会わないと決めたの」

「きみを傷つけるあらゆるものから、俺がきみを守るよ」

 激しい情熱と恋情を秘めた瞳から、エルサは目を逸らすことができなかった。

「愛してる」

 頬を撫でていた手が顎に添えられ、顔を上向けられて、くちびるが重なる。

 熱い生気に濡れた彼の体温が、想いとともに流し込まれていくようだった。
 抗う力をエルサはなくして、口づけられたまま崩れ落ちそうになる。
 その体を両腕で支えて、アレスは焦がれる声でもう一度、「愛してるよ」とささやいた。