40 粛清

 狩小屋から城塞に駆けつけたルイスは、破壊された庭園を前に、愕然と立ち尽くした。

 国王の従者ティムが走り寄ってきて、ここでなにがあったのかをルイスは知らされる。
 二度驚愕して、それからルイスは、庭園に横たわっている長兄の元へ急いだ。

「カストル兄さん、どうしてこんな無茶を……!」

「ルイスか」

 カストルは全身傷だらけで、仰向けになって寝転び空を眺めていたようだった。
 顔を動かし弟を見て、うっすらほほ笑む。

「三日ぶりに会うな。
 おまえ、どこに行っていたんだ?」

「森に――、けれど兄さん、僕のことよりもカストル兄さんのことだ。
 すぐに手当てをするよ」

 マイアが救急箱を持って駆けつけてきた。
 彼女と協力してカストルの手当てをする。
 カストルは、痛みに顔をしかめつつも大人しくしていた。

「国王はいまどこにいるの?」

「エルサのところに行った」

 カストルは静かに答えた。
 ルイスは、彼の腕の火傷を布で冷やしながら言う。

「……僕は、これでよかったと思っているよ」

 カストルは、ため息をついたのちに苦笑を浮かべた。

「僕とアレスの力は拮抗していた。
 勝敗は五分と五分、その結果がこのザマだ。
 要は、意志の強さで負けたのさ」

「国王は、三日前の怪我がまだ癒えていない状態だよね。
 兄さんが手心を加えたのかと思ったんだけど、どうなの?」

「そんなもの加えるものか。
 怪我などすっかり治っている様子だったよ。
 軍神の現し身とはよく言ったものだ。
 体の作りからして、奴は常人と違うんだろうな」

 上半身を脱がせて、裂傷や火傷を消毒し、肩から胴体にかけて包帯を巻いていく。
 ひどい怪我であることは確かだが、致命傷を巧みに避けた傷の入り方だった。
 おそらくは、国王のほうも同じような受け方をしているのだろう。

 建物への被害は庭園のみで、本館や城壁の外側は一切傷ついていない。
 外側に攻撃が及ばなかったのは、城塞全体にルイスが張っていた結界の効用が大きいだろう。
 しかし、アレスとカストルが意図して範囲を庭園に留めたというのもあると思われた。

「けれど兄さんだって、エルサをずっとこのままではいさせられないと思い始めていたんじゃないのかい?」

 カストルは、それには答えなかった。
 ルイスを見つめて言う。

「エルサのことだけじゃない。
 おまえのことだって、僕は気に掛けている」

 ルイスは言葉に詰まった。

「森には国王の子飼いが放たれているのだろう?
 アレスはおまえに一任することをやめたんだ。
 森の魔女の事件におまえの関与が疑われると、奴が考えている節がある。
 けれど僕は、ルイス、おまえを信じている」

 カストルのまなざしが、ルイスの肌をピリピリと焼いた。

「おまえは僕の弟だ。
 たとえおまえが森の魔女に関与していようとも、人道に反するようなことは決してしないと確信している。
 ……けれど、ロキのことは手放しに信頼できるわけじゃない。
 あいつはなにをしでかすかわからんからな」

 手当てが終わった。
 ルイスは動けなかった。
 マイアの手を借りて、カストルはなんとか立ち上がる。

「手当てをありがとう。
 この調子だと歩くことくらいはできそうだ」

「兄さん」

 ルイスは立ち上がり、カストルを見た。

「カストル兄さん、ロキがいまどこにいるのか知っていますか」

「ロキなら、エルサについていると思うが――」

 そのときである。

 城塞を覆っていたルイスの結界が、大きな破砕音とともに粉々に砕かれた。

 ルイスとカストルは同時に息を飲み、空を見上げて身構えた。
 前回と同じように、森の魔女の――アイリスの襲撃があるかと思われたからだ。

 しかし、いつまでたっても空は静かだった。

 カストルは安堵の息を吐き、構えを解いた。
 けれど、ルイスは蒼白になったまま立ちすくんでいた。

 アイリスになにかあったのだ。

「兄さん、森に行ってきます」

 口早にそれだけ言って、ルイスは駆け出した。
 背後から、カストルが慌ててルイスを呼ぶ声がした。

 アイリスは、ルイスに言われたとおり狩小屋の中で大人しくしていた。

 城塞のほうで大きな音が聞こえてきたと思ったら、ルイスの表情が険しくなり、「城塞の様子を見てくる。アイリスは、小屋から出てはいけないよ」と言って出て行ったのだ。

 少し前なら、狩小屋から出ていくルイスの背中を見るたびに、アイリスは寂しさと不安に襲われていた。
 けれどいまは不思議と大丈夫だった。
 ルイスが戻ってくるまで大人しく待っていようと、穏やかな気持ちで思うことができた。

 暖炉の焚かれた寝室で、シュミーズ一枚纏っただけの体を、アイリスは毛布に包んでベッドに座っていた。

 体のあらゆるところにルイスの温もりが残っていて、白い肌の上には口づけの痕がたくさん散っている。
 耳にくちびるでふれながら、「愛してるよ」と何度もささやいた彼の声が、いまにも聞こえてきそうだった。

 細い両脚を胸元に引き寄せて、アイリスはそこに片頬を乗せた。

 温かく満ち足りた感情が、体内を潤してゆらめいている。

 これこそを幸福と呼ぶのだと、アイリスは思った。

「湖畔の動物さんたちも、こんな風に思うことがあるのかな」

 動物たちだけでなく、ママも、お姉ちゃんたちでさえも。

 この先になにがあったとしても、ルイスさえいてくれれば大丈夫だと、そんな風に心強く思うことがあるのだろうか。

 アイリスの耳に、動物の鳴き声が聞こえてきた。
 顔を上げて窓の外を見るが、特に変化は見受けられない。

 しかし、ふたたび動物たちの声が聞こえてきて、アイリスは膝立ちになった。
 鳴き声が、切羽詰まったような響きを持っていたからだ。

 兎や子狐が、天敵に襲われでもしているのだろうか。
 それにしたって、あのように響く声で鳴きはしないだろう。
 新たな捕食動物を呼び込むだけだからだ。

「湖の、ほうかな……」

 アイリスは窓を閉めたまま外を覗き込んだ。
 けれど、木々が邪魔をして様子を見ることができない。

 動物たちの鳴き声は続いている。
 アイリスは、いてもたってもいられなくなった。

(ほんの少し、様子を見にいくだけなら)

 湖畔の動物たちは、ルイスが狩小屋にいないあいだずっと、アイリスの心を慰め続けてくれた。
 その彼らが苦しげな鳴き声を上げているのを、アイリスはどうしても見過ごすことができない。

 心の中でルイスに謝りながら、アイリスはそろそろと仮小屋の扉を開けた。
 森に誰の気配もないことを確認して、木々や茂みに隠れながら、湖畔が見える場所に移動する。

 視界に入ってきたのは、想像もしていなかった光景だった。

 アイリスの腰の高さほどもある大きな木製の檻に、複数の動物たちが閉じ込められている。
 兎の親子や野鼠、巣にいたであろうと思われる雛たちまでいる。
 彼らは怯えて混乱し、悲鳴のような鳴き声をあげていた。

 雛の親たちが、ピーピーと鳴きながら上空を旋回している。
 その下で、深緑色のローブを纏った三人の青年たちが話し合っていた。

「小動物を質にとって、森の魔女をおびき出す作戦か。
 なんとも情けないことだな」

「一週間経っても手がかり一つ見つからないんだ。
 強硬手段に打って出るしかないだろう」

「陛下に露見したら、どやされること請け合いだな」

 青年たちは力なく笑い合った。

「動物に傷でも負わせたら、どやされるどころじゃすまないからな。
 くれぐれも気をつけろよ」

「森の魔女も、出来うる限り無傷でとのご所望だ。
 だが、最悪の場合、セーレの次男が森の魔女を隠しているのだとしたら、俺たちが死に物狂いで探したって、魔女は一生見つからないぞ」

「あの次男は限りなく怪しいんだけどな。
森に入り浸っているのはわかっているが、森に入った途端に気配が消えて、姿が見えなくなる。
 王国一の結界の使い手というのは名ばかりじゃないようだ」

 男の一人が、ため息をつきつつ檻を見下ろした。

「まあとにかく、俺たちは、我らが王を襲撃した不埒者を一刻も早く捕らえることが第一の使命だ。
 この動物たちに、森の魔女特有の気配が染み付いていることはわかっている。
 魔女がもし、慈愛深い心の持ち主であれば、この子らの鳴き声を聞いて出て来るかもしれん。
 出て来ないようなら、別の作戦を考えよう」

 アイリスには、彼らがなにを話し合っているのかよく理解できなかった。

 ただ、檻の中に閉じ込められている動物たちがかわいそうで仕方がなかった。

 助けてあげたい。
 あそこから出してあげたい。
 茂みに身をひそめながら、アイリスはそれだけを一心に思った。
 すると、パン、と破裂音がして、檻の柵が弾け飛んだ。

 青年たちは驚いた様子で立ち竦む。
 彼らの足のあいだを、動物たちが一目散に駆けて逃げていく。

 アイリスは、どうして檻が壊れたのかわからなかった。
 けれど、動物たちが逃げだせたことに安堵した。

「なんだ、いまの力は」

「理外(りがい)の魔術だ。
 森の魔女だ!」

「出どころを探せ!」

 青年たちの声に、アイリスは怯えた。
 仮小屋に戻ろうと踵を返したとき、その背に青年らの声が投げつけられた。

「いたぞ、あそこだ。
 白髪の少女、報告書どおりだ」

「まだ子どもじゃないか、くそっ」

 青年の一人が舌打ちし、呪文を詠唱する。
 すると、アイリスの目の前に氷の壁が現れて、行く手を阻んだ。

 慌てて別の方向を向くと、そちらにも氷壁が現れる。
 惑っているうちにアイリスは、三方を囲まれてしまった。
 空いているほうを振り返ると、三人の男たちが近づいて来るところだった。

 彼らは、目深にかぶったフードをそのままに、慎重な声でアイリスに告げる。

「我々は王城から来た魔術師だ。
 国王の名により、おまえを迎えに来た」

「王はおまえを保護すると仰せだ。
 できうる限り無傷で迎えいれよとのご命令である」

「おまえは三度、我らが王を襲撃した。
 その上での寛大な御沙汰である。
 大人しく我らに下れば、これ以上の攻撃は加えない」

 アイリスの体が震えていた。三人の男たちが、まるで悪魔のように見えていた。

(怖い)

 この氷壁さえなければ、逃げ出せるのに。

 アイリスがそう思った途端に、氷壁があとかたもなく溶け消えた。
 男たちは息を飲んだ。
 アイリスは、地面を蹴って逃げ出した。

 狩小屋まで行けば助かる。彼らに捕まらなくてすむ。
 あそこなら、ルイスの力が守ってくれるから。

 しかし、またしても氷壁に阻まれた。
 逃げ惑いながら、壁を何度打ち消しても、彼らの魔術はアイリスを追って来る。

 やがてアイリスは、狩小屋と反対の方向――湖のほうに追い詰められていた。
 男たちの魔術はアイリスに及ばないが、彼らはアイリスを、巧みに袋小路に追い込むことができるようだった。

 水際に追い詰められ、正面からは三人の魔術師がゆっくりと歩いて来る。

 このままでは捕まってしまうかもしれない。
 捕まって、牢屋に入れられてしまうかもしれない。
 そうなったらもうルイスに会えないのだろうか。ルイスに抱きしめてもらえないのだろうか。

「協力して捕らえるぞ。
 水の縄で全身を縛り付けるんだ。俺は両脚を拘束する」

「俺は腹から胸にかけてを」

「では俺は肩から喉を。
 締めすぎないよう、しかし力を失わせる程度にはきつく」

 彼らの右手が持ち上がり、呪文を斉唱し始める。

 ゆらめく水泡が彼らの周囲に集まり、細く長く拘束の縄を形作っていく。