アイリスは腹の底から恐怖した。
そして、その恐怖が大きな力となって外部に爆発するのを知覚した。
天が黄金に光る。
空を切り裂く轟音とともに、天雷が墜落した。
雷は寸分違うことなく魔術師たちの脳天に直撃した。
彼らはとっさに結界を張ったようだったが、アイリスの力で無残にも溶け消えてしまったのだ。
彼らは悲鳴をあげる間もなく意識を断ち切られ、芝生の上に倒れ込んだ。
深緑色のローブは焼け焦げて、黒い煙をたなびかせていた。
魔術師たちは、指先をわずかに痙攣させたり、不連続の呼吸を荒く繰り返したりしていた。
立ち上がる力は、まったくないように見えた。
晴れ渡った空の下で、アイリスはへたり込んだ。
ルイスのことを思った。
早くここに戻ってきて、抱きしめてほしかった。
もう大丈夫だよ、と優しい声で言ってほしかった。
「ルイス」
つぶやくと、遠くで硝子が砕けるような音が聞こえてきた。
城塞のほうからだ。
もしかしたら、幻聴かもしれない。
「早く帰ってきて、ルイス」
涙が零れて、アイリスはそれを自分の手で拭った。
潤んだ視界に、雛がぴょこぴょこと歩く姿が映った。
檻に閉じ込められていた一羽だろう。
巣への戻り方がわからないのだ。
アイリスは、震える両脚で立ち上がった。
雛を保護して巣に戻してあげようと思ったのだ。
雛は、魔術師のあいだをウロウロしている。
彼らに近づくのは怖かったけれど、雛をこのままにしてはかわいそうだ。
「いい子だね、こっちにおいで」
アイリスが一歩踏み出しながら、雛に手を差し伸べた。
そのとき、魔術師の一人が突然、雛を片手で鷲掴みにした。
傷だらけの顔を上げ、上体を起こして、必死の形相で、片手を振りかぶって雛を湖に向かって投げた。
「あ……!!」
アイリスは、雛に手を伸ばした。
雛は泳げないから、湖に落ちたら溺れてしまう。
意識のすべては雛を助けることだけに持っていかれて、背中を魔術師に向けてしまった。
「森の魔女め……!!」
満身創痍の魔術師が、呪うように呻いて、呪文を素早く詠唱した。
無数の水泡が融合し、硬く鋭く凍りつき、槍となってアイリスの背に襲い掛かった。
アイリスは、伸ばした手に雛を受け止めて、それから後ろを振り返り掛けた。
けれど、真横からなにかに突き飛ばされて、アイリスは芝生の上に転がった。
「痛た……」
アイリスは、なんとか上体を起こした。
手の中から雛が逃げ出したが、降下してきた親鳥に救出され、巣に連れ戻されていった。
雛が無事でよかった。
アイリスはほっとしながら、視線を正面に戻した。
そして、衝撃に息を止めた。
ルイスが、腹部から大量の血を溢れさせながら片膝をついた。
腹から背中に貫通しているのは、一つかみほどの太さの氷槍だった。
ルイスは歯を食いしばりながら、琥珀色の双眼を魔術師に向ける。
魔術師は喉を引きつらせて、尻もちをついたまま後ずさった。
直後に、氷槍はあとかたもなく消え去った。
「セ、セーレの次男か――、すまない、貴方を傷つけるつもりはなかったんだ。
いますぐに手当てを」
「ならば、誰を傷つけるつもりだったんだ?」
ボタボタと流れ落ちる血液を、腹部に押し当てたてのひらで押さえつけながら、怒りに満ちた声でルイスが言う。
魔術師は、ルイスの怒りに飲まれてしまったようだった。
「お……俺たちは、国王陛下の命で森の魔女を保護しようと……だが、頭に血が上って、やりすぎてしまった。
すまない、本当に――」
「謝罪などいらない。
国王もろとも貴様たちを地獄に送ってやる」
それが最後通告になった。
魔術師は、全身を雷の刃に切り刻まれて、ふたたび地面に倒れ伏した。
意識は完全に絶たれたようだったが、虫の息ではあるが、一命はとりとめているようだった。
アイリスはその一部始終を見ていた。
ルイスの体から流れ落ちる血液の色が鮮明で、それがずっと、アイリスの視界を赤く焼いていた。
湖畔に静けさが戻った。
片膝をついた状態のルイスが、一度大きく息を吐き出した。
それから、腹から手を離して、そこを真っ赤に染める血を見てから、拳を握り込んだ。
「アイリス」
琥珀色の瞳がこちらに向けられた。
さっきまでの怒りは消えていて、優しげな光が宿る瞳に戻っていた。
「狩小屋に戻っていて。
そこでじっと、隠れているんだよ」
アイリスは、震えながら首を振った。
ルイスとは三歩ほどの距離だが、両脚から力が抜けてしまって、立って駆け寄ることができない。
「言うことを聞いて、アイリス」
「やだ……やだ」
「アイリス」
「やだ、いやだ、ルイス」
首を振りながら、アイリスはぽろぽろと涙を零した。
ルイスはしばらく黙っていたが、やがて、全身に力を込めるようにして立ち上がった。
泣き続けるアイリスの目の前に来て、地面に膝をつく。
彼が近づいてくると、血の匂いが際立った。
漆黒のローブが血にまみれて、どす黒く濡れそぼっている。
アイリスは混乱に陥った。
涙が止まらない。
「この騒ぎを感じ取って、国王やセーレの当主がもうすぐ駆けつけてくる。
彼らに姿を見られてはいけない。
狩小屋に戻るんだ。
できるね?」
「だって、ルイスが。
ルイスも一緒じゃないと、できない」
「ロキという名の、僕の弟のことを覚えてる?
三日前の夜に会った男だ」
アイリスは、涙をぬぐいながらうなずいた。
ルイスはいつものように、アイリスの涙を指で払ってくれない。
頬にふれたり、抱き寄せたりしてくれない。
ルイスの全身が血まみれだからだ。
アイリスに血がついてしまうのを、ルイスが避けているからだ。
人が血まみれになったら、どうなるのだろう。
こんなにひどい怪我は、どうしたら治るのだろう。
アイリスの脳裏に、静かに瞼を閉ざした母親の姿がよぎった。
母親は息を引き取り、アイリスの前から永遠に失われた。
「もし僕が狩小屋に戻ってこなかったら、彼の言うことを聞くんだ。
あいつは、ロキは、アイリスの様子を見に狩小屋に来てくれる。
狩小屋の場所を知っているのは、ロキだけだからね」
「戻ってこなかったらって、なんでそんなこと言うの」
「アイリス、僕は――」
そこでルイスは酷く咳き込んだ。
血の流れる腹部を手で押さえつけるようにしながら、青ざめたくちびるに笑みを刻む。
「僕は、きみに怪我がなくてほっとしているよ」
「ひどい。
そんなのひどいよ」
アイリスは、血で汚れるのもかまわずにルイスに縋り付いた。
彼はアイリスを抱きとめようとしながらも、ふたたび激しく咳き込んで、ずるりと地面に倒れ伏した。
アイリスは、泣きじゃくりながらルイスの頭を抱えて、自身の膝の上に乗せた。
彼のくちびるからも血液が流れているのを見て、恐怖に心臓を鷲掴みにされた。
血まみれの手が伸ばされて、指先がアイリスの頬にふれた。
冷たくて優しい感触を、アイリスは握り返した。
涙で視界がゆがむ。
血の気の失せた面で、ルイスはなおも微笑していた。
「僕の可愛いアイリス。
これからのきみを、幸せに――」
かすかな声が途切れて、瞳から光が失われた。
まぶたが力なく閉ざされ、冷えた指先がアイリスの手から滑り落ち、血だまりに落ちた。
「ルイス……?」
空はまだ晴れていた。
アイリスの感情が空洞になり、嘆きの魔力がそこに充溢した。
そして、暴発した。