41 蒼天

 アイリスは腹の底から恐怖した。
 そして、その恐怖が大きな力となって外部に爆発するのを知覚した。

 天が黄金に光る。

 空を切り裂く轟音とともに、天雷が墜落した。
 雷は寸分違うことなく魔術師たちの脳天に直撃した。
 彼らはとっさに結界を張ったようだったが、アイリスの力で無残にも溶け消えてしまったのだ。

 彼らは悲鳴をあげる間もなく意識を断ち切られ、芝生の上に倒れ込んだ。

 深緑色のローブは焼け焦げて、黒い煙をたなびかせていた。
 魔術師たちは、指先をわずかに痙攣させたり、不連続の呼吸を荒く繰り返したりしていた。
 立ち上がる力は、まったくないように見えた。

 晴れ渡った空の下で、アイリスはへたり込んだ。

 ルイスのことを思った。

 早くここに戻ってきて、抱きしめてほしかった。
 もう大丈夫だよ、と優しい声で言ってほしかった。

「ルイス」

 つぶやくと、遠くで硝子が砕けるような音が聞こえてきた。
 城塞のほうからだ。
 もしかしたら、幻聴かもしれない。

「早く帰ってきて、ルイス」

 涙が零れて、アイリスはそれを自分の手で拭った。
 潤んだ視界に、雛がぴょこぴょこと歩く姿が映った。

 檻に閉じ込められていた一羽だろう。
 巣への戻り方がわからないのだ。

 アイリスは、震える両脚で立ち上がった。
 雛を保護して巣に戻してあげようと思ったのだ。

 雛は、魔術師のあいだをウロウロしている。
 彼らに近づくのは怖かったけれど、雛をこのままにしてはかわいそうだ。

「いい子だね、こっちにおいで」

 アイリスが一歩踏み出しながら、雛に手を差し伸べた。
 そのとき、魔術師の一人が突然、雛を片手で鷲掴みにした。
 傷だらけの顔を上げ、上体を起こして、必死の形相で、片手を振りかぶって雛を湖に向かって投げた。

「あ……!!」

 アイリスは、雛に手を伸ばした。
 雛は泳げないから、湖に落ちたら溺れてしまう。
 意識のすべては雛を助けることだけに持っていかれて、背中を魔術師に向けてしまった。

「森の魔女め……!!」

 満身創痍の魔術師が、呪うように呻いて、呪文を素早く詠唱した。

 無数の水泡が融合し、硬く鋭く凍りつき、槍となってアイリスの背に襲い掛かった。
 アイリスは、伸ばした手に雛を受け止めて、それから後ろを振り返り掛けた。
 けれど、真横からなにかに突き飛ばされて、アイリスは芝生の上に転がった。

「痛た……」

 アイリスは、なんとか上体を起こした。
 手の中から雛が逃げ出したが、降下してきた親鳥に救出され、巣に連れ戻されていった。

 雛が無事でよかった。
 アイリスはほっとしながら、視線を正面に戻した。
 そして、衝撃に息を止めた。

 ルイスが、腹部から大量の血を溢れさせながら片膝をついた。
 腹から背中に貫通しているのは、一つかみほどの太さの氷槍だった。

 ルイスは歯を食いしばりながら、琥珀色の双眼を魔術師に向ける。
 魔術師は喉を引きつらせて、尻もちをついたまま後ずさった。
 直後に、氷槍はあとかたもなく消え去った。

「セ、セーレの次男か――、すまない、貴方を傷つけるつもりはなかったんだ。
 いますぐに手当てを」

「ならば、誰を傷つけるつもりだったんだ?」

 ボタボタと流れ落ちる血液を、腹部に押し当てたてのひらで押さえつけながら、怒りに満ちた声でルイスが言う。

 魔術師は、ルイスの怒りに飲まれてしまったようだった。

「お……俺たちは、国王陛下の命で森の魔女を保護しようと……だが、頭に血が上って、やりすぎてしまった。
 すまない、本当に――」

「謝罪などいらない。
 国王もろとも貴様たちを地獄に送ってやる」

 それが最後通告になった。

 魔術師は、全身を雷の刃に切り刻まれて、ふたたび地面に倒れ伏した。
 意識は完全に絶たれたようだったが、虫の息ではあるが、一命はとりとめているようだった。

 アイリスはその一部始終を見ていた。
 ルイスの体から流れ落ちる血液の色が鮮明で、それがずっと、アイリスの視界を赤く焼いていた。

 湖畔に静けさが戻った。

 片膝をついた状態のルイスが、一度大きく息を吐き出した。
 それから、腹から手を離して、そこを真っ赤に染める血を見てから、拳を握り込んだ。

「アイリス」

 琥珀色の瞳がこちらに向けられた。

 さっきまでの怒りは消えていて、優しげな光が宿る瞳に戻っていた。

「狩小屋に戻っていて。
 そこでじっと、隠れているんだよ」

 アイリスは、震えながら首を振った。
 ルイスとは三歩ほどの距離だが、両脚から力が抜けてしまって、立って駆け寄ることができない。

「言うことを聞いて、アイリス」

「やだ……やだ」

「アイリス」

「やだ、いやだ、ルイス」

 首を振りながら、アイリスはぽろぽろと涙を零した。

 ルイスはしばらく黙っていたが、やがて、全身に力を込めるようにして立ち上がった。
 泣き続けるアイリスの目の前に来て、地面に膝をつく。

 彼が近づいてくると、血の匂いが際立った。
 漆黒のローブが血にまみれて、どす黒く濡れそぼっている。

 アイリスは混乱に陥った。
 涙が止まらない。

「この騒ぎを感じ取って、国王やセーレの当主がもうすぐ駆けつけてくる。
 彼らに姿を見られてはいけない。
 狩小屋に戻るんだ。
 できるね?」

「だって、ルイスが。
 ルイスも一緒じゃないと、できない」

「ロキという名の、僕の弟のことを覚えてる?
 三日前の夜に会った男だ」

 アイリスは、涙をぬぐいながらうなずいた。

 ルイスはいつものように、アイリスの涙を指で払ってくれない。
 頬にふれたり、抱き寄せたりしてくれない。

 ルイスの全身が血まみれだからだ。

 アイリスに血がついてしまうのを、ルイスが避けているからだ。

 人が血まみれになったら、どうなるのだろう。
 こんなにひどい怪我は、どうしたら治るのだろう。

 アイリスの脳裏に、静かに瞼を閉ざした母親の姿がよぎった。

 母親は息を引き取り、アイリスの前から永遠に失われた。

「もし僕が狩小屋に戻ってこなかったら、彼の言うことを聞くんだ。
 あいつは、ロキは、アイリスの様子を見に狩小屋に来てくれる。
 狩小屋の場所を知っているのは、ロキだけだからね」

「戻ってこなかったらって、なんでそんなこと言うの」

「アイリス、僕は――」

 そこでルイスは酷く咳き込んだ。
 血の流れる腹部を手で押さえつけるようにしながら、青ざめたくちびるに笑みを刻む。

「僕は、きみに怪我がなくてほっとしているよ」

「ひどい。
 そんなのひどいよ」

 アイリスは、血で汚れるのもかまわずにルイスに縋り付いた。
 彼はアイリスを抱きとめようとしながらも、ふたたび激しく咳き込んで、ずるりと地面に倒れ伏した。

 アイリスは、泣きじゃくりながらルイスの頭を抱えて、自身の膝の上に乗せた。
 彼のくちびるからも血液が流れているのを見て、恐怖に心臓を鷲掴みにされた。

 血まみれの手が伸ばされて、指先がアイリスの頬にふれた。
 冷たくて優しい感触を、アイリスは握り返した。

 涙で視界がゆがむ。
 血の気の失せた面で、ルイスはなおも微笑していた。

「僕の可愛いアイリス。
 これからのきみを、幸せに――」

 かすかな声が途切れて、瞳から光が失われた。
 まぶたが力なく閉ざされ、冷えた指先がアイリスの手から滑り落ち、血だまりに落ちた。

「ルイス……?」

 空はまだ晴れていた。

 アイリスの感情が空洞になり、嘆きの魔力がそこに充溢した。
 そして、暴発した。