43 名もなき決断

「彼女が棺に入ったな」

 バルコニーから森を見ていたロキが、ふいに呟いた。

 つい先ほど、森の木々から鳥たちが一斉に飛び立った。
 ギャアギャアと鳴きながら逃げ惑うようにしている鳥たちは、不吉の影を色濃く帯びていて、エルサは不安に襲われていた。

 不安を生じさせるのは鳥たちだけではない。
 森の魔女の嘆きは、エルサの耳にずっと届き続けていた。
 これまで聞いたことのないほど悲痛な叫びで、こちらの精神まで深淵に引きずり込まれるような心地がするほどであった。

 その嘆きが、唐突に消えた。

 直後、ロキが先の言葉を呟いたのである。

 エルサは、森からロキに視線を移した。

「森の魔女が封印されたの?」

「エルサ、おまえに伝えたいことがあるんだ」

 ロキは、体ごとエルサのほうを向いて告げる。

「以前、カストル兄さんからペンダントをもらっただろう?
 サファイア硝子の、片翼のペンダントだ。
 あれは、おまえが『嘆きの魔女』に変じたときに黒く染まるという性質がある。
 そして、魔女が棺に封印されたあと、眠りから目覚めさせるという効力もあると伝えられているんだ」

「はい、それはカストル兄様から聞いています」

 エルサはうなずき、ドレスの下に隠していたペンダントを取り出した。
 片翼は、一片の曇りもなく透きとおっている。

「目覚めに導くという言い伝えは真実だよ。
 けれど、それは両翼が揃わなければ叶わない。
 それぞれ片翼を持った二人の魔女が、同時に棺に封じられることで、目覚めることが可能になるんだ」

「両翼が、揃う?」

 エルサは面食らった。

 ロキは、片翼に指でふれる。

「そう、両翼だ。
 二つ揃わないと、眠りの世界から飛び立てない。
 森の魔女は、寿命が来るまで永遠に、眠りの世界をさまようことになる。
 けれど両翼が揃えば目覚めることができる。
 棺の封印は解かれて、自由になることができる」

 片翼のペンダントを身につけた二人の『嘆きの魔女』が、同時期に、眠りの世界に封印される。

 そうすると、眠りの世界で翼が二つ揃うから、二人は目覚めの世界に飛び立つことができる。

 ロキの説明は、簡単に言えばそういうことだった。

 彼は、真剣なまなざしで続ける。

「しかも、それだけじゃない。
 目覚めたとき、『嘆きの魔女』は『嘆きの魔女』でなくなっている。
 『嘆きの魔女』の素因も消滅している。
 おまえたちはこれから先ずっと、『嘆きの魔女』にならなくてすむようになるんだ」

「それは――本当なの」

 エルサは愕然とした。
 ロキのローブをつかんで、前のめりになった。

「封印から目覚めれば、わたしも、森の魔女も、『嘆きの魔女』に変じることがなくなるの?」

「そうだよ、エルサ。
 きみの言うとおりだ」

 ロキは笑みを刻んだ。

「すべてが解決する。
 この方法を実行すれば、すべてが終わるんだ」

 けれど、だからこそ、ロキはエルサに、『嘆きの魔女』に変じるよう言ったのだ。

 エルサが『嘆きの魔女』になり、棺に封印されなければ、眠りの世界に両翼は揃わないから。

 ロキは、笑んだままエルサをまっすぐに見つめた。

「そう。
 だからこそ、僕にしかできない。
 二人の兄さんや、アレスでもだめだ。
 だってこの計画は、おまえを『嘆きの魔女』にした上で、眠らせないといけないんだもの。
 そんなこと、あの三人にできるわけがないだろう?」

「そうね、ロキ兄様の言うとおりだと思うわ」

 エルサも微笑を返した。

 『嘆きの魔女』になりかけたことはある。
 あのときの胸の苦しみを、いまでもまだ覚えている。

 だから、怯えや恐怖がないわけじゃない。

 このまま城塞にこもり続けるという選択肢もある。
 森の魔女を眠りの世界に置き続けて、自分だけ、この守られた城塞の中で静かに生活を送るという方法も、エルサには許されるだろう。

 けれどエルサは、森の魔女の嘆きを何度も聞いた。
 身が引き裂かれるような悲鳴を聞いた。

 恐怖はある。
 逃げ出したいと思う自分も、探せばどこかにいるだろう。

 でも、自分になにかできることがある。

 この手で救えるだれかがいる。

 それならば、やるという選択肢以外、エルサにはないのだ。

 いつかの夜、カエルの姿のアレスと交わした会話が蘇る。

『いいの。あなたのためにすることは、わたし自身のためでもあるのだから』

『どうして?』

『わたしは人の役に立つのが嬉しいの』

『なぜ?』

 その問いに、あのときエルサは答えられなかった。

 人の役に立つことは、セーレの落ちこぼれである自分を、役立たずの自分を、慰める手段だった。

 少なくともエルサは、あのときそう思っていた。それを恥じて、アレスに答えを返せなかった。

 しかし、いまは違うと断言できる。
 そうではないのだ。
 人のために動くことに、理由などない。

「『嘆きの魔女』になるわ」

 エルサは、ロキを見返して言った。

「ロキ兄様に、お願いしてもいいかしら」

「ああ、もちろんだとも」

 ロキは、エルサの片頬に手を添えた。

「愛しいエルサ、おまえに最大級の敬意を表しよう。
 森の魔女の名を教えようか?
 彼女が森の中でなにを見て、なにを思い、そして誰と言葉を交わし合っていたのかを」

「いいえ」

 エルサはほほ笑みながら首を振った。

「森の魔女が誰であろうとも、わたしは彼女を助けに行くわ」

「おまえは本当に、国王よりも国王らしいね。
 男前だ、カッコいいよ」

 ロキの体が黄金色の燐光を帯びる。
 握り込んだ右手に出現したのは、雷の剣だ。

「目覚めたら外に遊びに行こう。
 どこへでも連れてゆくよ。
 大きな鳥に変身すれば、エルサを背に乗せることができるから」

「楽しみにしています、お兄様」

「ふふ、でもそうするには、アレスの許可が必要かな。
 なかなか取れそうにないな。
 アレスはおまえを、片時も離したくないそうだから。
 目覚めたらまずは、彼の花嫁になることが、おまえのするべきたった一つのことになりそうだね」

「もしそうであったなら、わたしはとても幸せよ、お兄様」

 ロキは両手で剣を握りしめた。

 そして、エルサの胸をその刃で貫いた。
 甚大な辛苦を身に受けて、エルサの片翼のペンダントが、ひと息に漆黒に染まった。