44 その血は誰のものだ

 ルイスの容体は芳しくなかった。

 放心しているカストルの代わりに、アレスは城塞の衛兵や使用人たちに指示を出し、ルイスを城塞の一室に運び込ませた。
 そして、硝子に変じた森の魔女も、丁重に城塞内に運ばせた。

 王城から一流の医術師を呼び寄せ、ルイスの手術に当たらせる。
 森の中や庭園、城塞内を、慌ただしく動き回る人々の中で、アレスはふいに、胸騒ぎを覚えた。

 エルサはどこだ?

 瀕死の状態のルイスを迎え、城塞が蜂の巣をつつくような騒ぎになっているのに、姿を現さない。
 エルサだけでなく、ロキの姿も見えなかった。

 二人はまだ三階の部屋にいるのだろうか。
 そうであれば安心なのだが、ここまでの騒ぎになっているのに、あのエルサが飛び出してこないのが不自然にも思えた。

「三階に行ってくる。
 ここは頼んだぞ」

 ティムに言って、アレスは駆け足で階段を上った。
 エルサの部屋に辿り着き、中に入った。
 バルコニーに続く窓は開け放たれていて、カーテンが風に大きく揺らいでいた。

 目に飛び込んできた光景に、アレスは全身を強張らせた。

 雷の剣に胸を貫かれたエルサが、ゆっくりと崩れ落ちていくところだった。
 剣がかき消えて――その剣は確かにロキが握っていた――、血液に染まったエルサの背を、ロキが抱きとめた。
 彼は呪文を詠唱していた。その呪文は、先ほど聞いたばかりのものだった。森の魔女を硝子に封じるあの呪文だった。

 エルサの白い指先が、透きとおった硝子に変じていく。

 それを見て、次の瞬間、アレスは激高した。

 ロキの全身が発火する。
 うめき声をあげる彼の手からエルサを奪い、絨毯まで飛びのいて、怒りのままに火勢を強めた。

「ロキ、貴様……!!」

 やわらかな体が、腕の中で硬質化していく。

 それを止めることがアレスにはできない。

「いますぐ呪文をやめろ!
 エルサを封印する気か!!」

「もう遅いよ、アレス」

 炎の中、全身を焼かれながらロキは言った。
 彼が腕を一振りすると、アレスの炎は吹き飛ばされた。

 それでも無傷とはいかないようで、黒のローブは原型を留めぬほどになり、中に着たシャツとトラウザーズが露出していた。
 素肌のあちこちにも重度の火傷を負っていて、立っているのもつらいだろうと思われるほどだった。

 その上で、ロキは笑った。

「もう遅い。
 封印は成った。
 これからのきみの唯一の仕事は、エルサの目覚めをただ待つことだ」

「なぜだ!
 なぜエルサを眠らせた。
 どうしてこの子を傷つけて、『嘆きの魔女』にした。
 エルサをそうする必要が、どこにあったというんだ!!」

「エルサとアイリスがもしも目覚めなかったら、ルイスときみは僕を八つ裂きにしていい」

 アレスは奥歯が砕ける程噛み締めた。

 この男を、焼き殺してしまいたい。

 腕の中で、エルサが硝子に変じていく。
 森の魔女と同じく、息をのむほど美しい彫像になっていく。

「エルサ――」

 どうしようもなく声が震えた。
 恐ろしさに震えたのか、到底納得のできない事態によってなのか。

 アレスの元から去ることを決断したとき、エルサは『嘆きの魔女』にならないよう、細心の注意を払って、生涯城塞に閉じこもることを選んだ。
 自分の未来の自由を捨てて、周囲の平穏を願った。
 アレスの前から姿を消して、もう会いたくないと、震えるくちびるで告げた。

「エルサが――この子が、いったいなにをしたと」

 血液の溢れていた腹部が、硝子に変じることによって癒されていく。
 破られたドレスすら再生されて、元どおりになり、硝子質に変わっていく。

 胸の痛みと恐怖で、アレスはどうにかなってしまいそうだった。
 わかっている、自分はこれと同じことを森の魔女に施した。
 ルイスはあの少女を愛していたのだろう。
 ずっと匿って、大切に守っていたのだろう。
 それを硝子に封じるようカストルに言ったのは、ほかでもない自分だ。

 同じことだ。

 わかっている。

 八つ裂きになるべきは、俺なのだ。

「これで両翼が揃った」

 エルサの全身が硝子質に変じた。

 どこもかしこも美しく透きとおり、その中でたった一点、胸元の片翼だけが漆黒だった。

「眠りの世界に――嘆きの世界に、両翼が揃った。
 あとは、彼女たちの帰還を待つだけだ」

 ロキのこの言葉で、アレスの明晰な頭脳は、ロキの狙いを察し、いまの現実を理解した。
 噛み締めた歯の奥から、声を絞り出す。

「……もし、戻ってこられなかったらとは、思わないのか」

 アレスは、硝子の少女を絨毯の上に横たえる。
 胸元に両手を重ねて静かに眠るエルサは、この世のものとは思えないほど美しかった。

「ほんの少しでも、僕は思わないよ」

 ロキは笑む。

「エルサとアイリスに、ふたたび会うときが楽しみで仕方がない。
 ああ、アレスはアイリスがどんな子なのかを知らないんだったね。
 とても可愛く笑う子だよ。ルイス兄さんの大切な子だ」

「……――」

「僕は二人を信じてる」

 ロキは、てのひらに付いた妹の血を愛おしげに握り込み、くちづける。

「エルサとアイリスは必ず戻ってくる。
 だからアレス、きみも二人を信じていて。
 きみができるのは、エルサの目覚めをただ待つことだけだ」

「……どうやら、そのようだな」

 アレスは、冷たくなめらかなエルサの頬にてのひらを添えた。

 心臓がずっと悲鳴を上げ続けている。

「ロキ、おまえ知っているか。
 俺は、なにもできずにただ見ているということが、この世で最も苦手なんだ」

「きみはそうだろうね」

 ロキはほほ笑んだ。

「カストル兄さんも、きっとそうだよ」

 ルイスはなんとか一命をとりとめた。

 包帯だらけの弟が眠るベッドの傍らで、カストルは、大きすぎる悔恨に打ちのめされていた。

 ここはルイスの自室だ。

 弟の愛した少女も――森の魔女も、この部屋に運び込んでいる。

 ルイスの隣にベッドを配して、そこに横たわらせている。

 あのときこうしていれば。
 あのとき、もっと話をしていれば。

 そればかりが、脳内をめぐる。

 いまさらのことなのに。

「すまない……ルイス」

 噛み締めた歯の奥から謝罪を絞り出した。

 そのとき、もう一人の弟であるロキが、部屋に入ってきた。

「ロキ、おまえ――」

 カストルは瞠目した。
 ロキのローブが血に染まっていたからだ。

「なにがあった。
 誰にやられたんだ!?」

「違うんだ、兄さん。
 これは僕の血じゃない」

 ロキは微笑していた。
 その中に、微量の悲しみが含まれているような気がして、カストルは眉を寄せた。

「じゃあ、誰の血なんだ?」

 嫌な予感がする。

 ロキは告げた。

「兄さんに、話があるんだ」

 この日から十日経っても、二十日経っても、エルサとアイリスは目覚めなかった。

 ルイスが完治したのがひと月後だったが、そのときも二人は目覚めなかった。

 エルサは王城に運ばれてアレスの保護下に入り、アイリスは、城塞のルイスの部屋にそのまま留め置かれていた。

 少女たちを欠いたまま時は過ぎ、冬が終わりを告げようとしていた。