ルイスの容体は芳しくなかった。
放心しているカストルの代わりに、アレスは城塞の衛兵や使用人たちに指示を出し、ルイスを城塞の一室に運び込ませた。
そして、硝子に変じた森の魔女も、丁重に城塞内に運ばせた。
王城から一流の医術師を呼び寄せ、ルイスの手術に当たらせる。
森の中や庭園、城塞内を、慌ただしく動き回る人々の中で、アレスはふいに、胸騒ぎを覚えた。
エルサはどこだ?
瀕死の状態のルイスを迎え、城塞が蜂の巣をつつくような騒ぎになっているのに、姿を現さない。
エルサだけでなく、ロキの姿も見えなかった。
二人はまだ三階の部屋にいるのだろうか。
そうであれば安心なのだが、ここまでの騒ぎになっているのに、あのエルサが飛び出してこないのが不自然にも思えた。
「三階に行ってくる。
ここは頼んだぞ」
ティムに言って、アレスは駆け足で階段を上った。
エルサの部屋に辿り着き、中に入った。
バルコニーに続く窓は開け放たれていて、カーテンが風に大きく揺らいでいた。
目に飛び込んできた光景に、アレスは全身を強張らせた。
雷の剣に胸を貫かれたエルサが、ゆっくりと崩れ落ちていくところだった。
剣がかき消えて――その剣は確かにロキが握っていた――、血液に染まったエルサの背を、ロキが抱きとめた。
彼は呪文を詠唱していた。その呪文は、先ほど聞いたばかりのものだった。森の魔女を硝子に封じるあの呪文だった。
エルサの白い指先が、透きとおった硝子に変じていく。
それを見て、次の瞬間、アレスは激高した。
ロキの全身が発火する。
うめき声をあげる彼の手からエルサを奪い、絨毯まで飛びのいて、怒りのままに火勢を強めた。
「ロキ、貴様……!!」
やわらかな体が、腕の中で硬質化していく。
それを止めることがアレスにはできない。
「いますぐ呪文をやめろ!
エルサを封印する気か!!」
「もう遅いよ、アレス」
炎の中、全身を焼かれながらロキは言った。
彼が腕を一振りすると、アレスの炎は吹き飛ばされた。
それでも無傷とはいかないようで、黒のローブは原型を留めぬほどになり、中に着たシャツとトラウザーズが露出していた。
素肌のあちこちにも重度の火傷を負っていて、立っているのもつらいだろうと思われるほどだった。
その上で、ロキは笑った。
「もう遅い。
封印は成った。
これからのきみの唯一の仕事は、エルサの目覚めをただ待つことだ」
「なぜだ!
なぜエルサを眠らせた。
どうしてこの子を傷つけて、『嘆きの魔女』にした。
エルサをそうする必要が、どこにあったというんだ!!」
「エルサとアイリスがもしも目覚めなかったら、ルイスときみは僕を八つ裂きにしていい」
アレスは奥歯が砕ける程噛み締めた。
この男を、焼き殺してしまいたい。
腕の中で、エルサが硝子に変じていく。
森の魔女と同じく、息をのむほど美しい彫像になっていく。
「エルサ――」
どうしようもなく声が震えた。
恐ろしさに震えたのか、到底納得のできない事態によってなのか。
アレスの元から去ることを決断したとき、エルサは『嘆きの魔女』にならないよう、細心の注意を払って、生涯城塞に閉じこもることを選んだ。
自分の未来の自由を捨てて、周囲の平穏を願った。
アレスの前から姿を消して、もう会いたくないと、震えるくちびるで告げた。
「エルサが――この子が、いったいなにをしたと」
血液の溢れていた腹部が、硝子に変じることによって癒されていく。
破られたドレスすら再生されて、元どおりになり、硝子質に変わっていく。
胸の痛みと恐怖で、アレスはどうにかなってしまいそうだった。
わかっている、自分はこれと同じことを森の魔女に施した。
ルイスはあの少女を愛していたのだろう。
ずっと匿って、大切に守っていたのだろう。
それを硝子に封じるようカストルに言ったのは、ほかでもない自分だ。
同じことだ。
わかっている。
八つ裂きになるべきは、俺なのだ。
「これで両翼が揃った」
エルサの全身が硝子質に変じた。
どこもかしこも美しく透きとおり、その中でたった一点、胸元の片翼だけが漆黒だった。
「眠りの世界に――嘆きの世界に、両翼が揃った。
あとは、彼女たちの帰還を待つだけだ」
ロキのこの言葉で、アレスの明晰な頭脳は、ロキの狙いを察し、いまの現実を理解した。
噛み締めた歯の奥から、声を絞り出す。
「……もし、戻ってこられなかったらとは、思わないのか」
アレスは、硝子の少女を絨毯の上に横たえる。
胸元に両手を重ねて静かに眠るエルサは、この世のものとは思えないほど美しかった。
「ほんの少しでも、僕は思わないよ」
ロキは笑む。
「エルサとアイリスに、ふたたび会うときが楽しみで仕方がない。
ああ、アレスはアイリスがどんな子なのかを知らないんだったね。
とても可愛く笑う子だよ。ルイス兄さんの大切な子だ」
「……――」
「僕は二人を信じてる」
ロキは、てのひらに付いた妹の血を愛おしげに握り込み、くちづける。
「エルサとアイリスは必ず戻ってくる。
だからアレス、きみも二人を信じていて。
きみができるのは、エルサの目覚めをただ待つことだけだ」
「……どうやら、そのようだな」
アレスは、冷たくなめらかなエルサの頬にてのひらを添えた。
心臓がずっと悲鳴を上げ続けている。
「ロキ、おまえ知っているか。
俺は、なにもできずにただ見ているということが、この世で最も苦手なんだ」
「きみはそうだろうね」
ロキはほほ笑んだ。
「カストル兄さんも、きっとそうだよ」
ルイスはなんとか一命をとりとめた。
包帯だらけの弟が眠るベッドの傍らで、カストルは、大きすぎる悔恨に打ちのめされていた。
ここはルイスの自室だ。
弟の愛した少女も――森の魔女も、この部屋に運び込んでいる。
ルイスの隣にベッドを配して、そこに横たわらせている。
あのときこうしていれば。
あのとき、もっと話をしていれば。
そればかりが、脳内をめぐる。
いまさらのことなのに。
「すまない……ルイス」
噛み締めた歯の奥から謝罪を絞り出した。
そのとき、もう一人の弟であるロキが、部屋に入ってきた。
「ロキ、おまえ――」
カストルは瞠目した。
ロキのローブが血に染まっていたからだ。
「なにがあった。
誰にやられたんだ!?」
「違うんだ、兄さん。
これは僕の血じゃない」
ロキは微笑していた。
その中に、微量の悲しみが含まれているような気がして、カストルは眉を寄せた。
「じゃあ、誰の血なんだ?」
嫌な予感がする。
ロキは告げた。
「兄さんに、話があるんだ」
この日から十日経っても、二十日経っても、エルサとアイリスは目覚めなかった。
ルイスが完治したのがひと月後だったが、そのときも二人は目覚めなかった。
エルサは王城に運ばれてアレスの保護下に入り、アイリスは、城塞のルイスの部屋にそのまま留め置かれていた。
少女たちを欠いたまま時は過ぎ、冬が終わりを告げようとしていた。