「もしもーし。よろしいですかね、ロジェ国王陛下並びに王妃殿下!」
明るい声が国王一家の輪に投げ込まれた。
玉座の壇から下がった場所に、身なりのいい一人の青年が立っている。
ウィールライト王国の白い正服を身に纏い、すらりとした長身で堂々と立つ姿は、超大国がよこした使者としてふさわしい。
しかし影が薄いというか、気配をあまり感じさせない青年なので、今の今までその存在を忘れていた。
(そうだったわ。今日は婚約の了承を相手に示す書類を書くのだったわね)
居住まいを正したフランセットの横で、超弱小国であるロジェの国王は、いそいそと返事をした。
「あっ失礼をした、使者殿。婚約宣誓書に 署名をするのであったな。ほれ、王妃も来い」
スキップでもしそうな勢いで、ロジェ王は使者が差し出した書類に羽ペンでサインをした。王妃も記入して、それから王が大きな判を捺す。
「どうも、確かに」
使者は軽く笑って、今度はフランセットに目を向けた。
「じゃあ、次。王女殿下にお願い申し上げる」
「了解いたしました」
使者にしては軽くて偉そうなこの男は、ウィールライト王国の第三王子だという。つまり、メルヴィン王太子の弟ということになる。
なぜ、婚約の使者にわざわざ王子殿下が? 訝しく思いながらも、フランセットは書類にサインをした。
「ありがとうフランセット。きみも可哀想だね」
書類を手渡したフランセットに、第三王子が軽く笑いながらそんな言葉を掛けてくる。
「……はい?」
「これでもう、あんたはメルヴィンから逃げられない」
フランセットにだけ聞こえるような声でそう囁いて、彼は書類を眺め降ろした。
「ほら、見てごらん。これ実は、婚約の宣誓書じゃないんだ」
「は?」
「恨むなら俺の兄貴を恨んでね。言わずもがな、メルヴィンのことだけど」
フランセットは眉を寄せつつ、書類を見下ろした。
そして、そこに書かれている文字列を読んで、愕然とした。
「結婚……宣誓書? ちょっと待って、これ、婚約じゃなくて、婚姻の誓約書じゃない!」
「はは、そうだよフランセット。きみは婚約を一足飛びにして、メルヴィンと結婚してしまったんだ。ほらここにメルヴィンの署名もあるだろう?」
「う、嘘……!」
フランセットは第三王子から書類をひったくり、穴が空くほど見つめた。
そして、顔面どころか全身が蒼白になる。
「な、なんで……どうして婚約をすっ飛ばして結婚なの? 一度しか会ったこともないのよ、しかも十年以上前に!」
「会ったことがない相手と結婚するなんてこと、王族じゃ普通でしょ?」
第三王子はフランセットの手から書類を抜き取って、筒に仕舞い込んだ。
茫然と佇むフランセットに、彼は笑う。
「ま、俺はそんなのごめんだけど」
「す、すぐに取り消して! 名前を消して!」
「冗談でしょ。んなことしたら俺がメルヴィンに殺されちゃう。おっかないんだよ、あの人」
「殺されるって……」
ぞくりとフランセットの背すじに冷気が降りた。
あの優しげな天使が、こんなことで実の弟さえ処刑するような怖い専制王太子に成長したとでもいうのか。
「そんな暴君に嫁げっていうの?!」
「だって署名したのきみでしょ」
「だまし討ちよ! 詐欺だわ!」
「はいはい、フランセットの主張は分かったから。そういうのは俺じゃなくて、メルヴィン本人に言おうね」
フランセットの隣では、父と母が事情をよく理解していないような顔できょとんとしている。
こいつらは役に立たない。フランセットは第三王子に食って掛かった。
「そんなこと言って、もし王太子殿下がわたしを見て『思ってたのと違った』ってなったらどうするのよ! 一度結婚したら、一生別れられないじゃない。離婚は国教の教理が許さないでしょう?」
「ああ、それについては大丈夫」
第三王子はあっさりと笑った。
なにが、どこが大丈夫なのか。フランセットは大混乱のさなかで、口をぱくぱく開いた。ちなみに声は出ていない。
「どーでもいいから早く準備して。あんまり遅いと、あいつここに乗り込んでくるから」
「準備って、準備って、いったいなんの」
混乱しすぎて息も絶え絶えに聞き返す。第三王子はあっさり答えた。
「お輿入れの準備だよ。もう外にデカい馬車待たせてあるから」
「はあ?!」
「ほらほら、早くしてフランセット」
「ちょ、待、お父様、お母様、なんとかして!」
「まああ、婚約すっ飛ばしていきなり結婚だなんてスリリングねぇ」
「うおおお素晴らしいぞフランセット! でかした、でかした! このまま超大国様にお輿入れをするのだ、そして王太子妃になり、絶大なる権力を手にし、我が国にそのおこぼれを捧げるのだああ!」
駄目だこいつら、まったくもって役に立たない。
フランセットが絶望していると、第三王子はクスクスと笑った。
「ほら、俺最初に、あんたに言ったでしょ?」
フランセットが目を上げる。第三王子が口を開くのと、その彼の背後にある両開きの扉が開かれたのが、ほぼ同時だった。
「可哀想だね、フランセット。あんたは暴君メルヴィン=ウィールライトに爪の先まで愛されて、これから一生、あいつの腕の中から逃げられない」
コツ、と足音が聞こえる。一定のリズムで刻まれるそれは、ただ音だけで、優美さを感じさせた。
茫然とするフランセットの前から、第三王子が身を横に引く。
すると、扉を開けてこちらへ歩を刻む人物の姿が露わになった。
ウィールライト王国の正服。上質な白の布地に金色の肩章。そこから下がる紐飾り、幾つもの徽章がなめらかに光っていた。
赤いマントが、白に映える。
第三王子の正服よりも装飾が多く、凛として威厳があった。
「フランセット」
聞き心地のいい低音が、耳を打つ。
(嘘、でしょ)
フランセットは息をするのも忘れていた。
漆黒の髪と同色の瞳。すらりと伸びた長身と、服の上からでも分かるほど鍛え上げられた体躯。それに似合わず顔立ちは甘く綺麗に整っていて、ふと目もとがゆるむと子犬のような愛嬌が乗る。
(だって。そんな、まさか)
だって、ここまで来るなんて。
王太子殿下御自ら、こんな弱小国に。未来の后を、迎えに。
(未来の、じゃなくて。わたしは、もう)
「フランセット=ロジェ王女殿下」
彼の長い足で、一歩手前。
その近い距離で、彼は――メルヴィン=ウィールライトは微笑する。
「久しぶりだね。十四年ぶりだ」
「……、ど、どうして、ここに。あの誓約書は」
「フランセット」
メルヴィンは、その場で片膝をついた。あの夜、バルコニーでしたように。
動揺しきりのフランセットに、彼は大天使も裸足で逃げ出すような美しい笑みを浮かべて、手を差しのべる。
「あの時の約束を、果たしに来たよ。フランセット。あなたは僕の、最愛の花嫁になってくれますか」
フランセットは、まさに凍結した。
体も舌も驚きに痺れて、動かせない。
いつまでも答えないフランセットに、メルヴィンはふと苦笑した。軽い動作で立ち上がって、固まるフランセットの細い腰を、ふいに両手で抱き寄せる。
「なっ……!」
「ごめん、フランセット。そういえばきみは、聞くまでもなくすでに僕の花嫁だったね」
「な、な……!」
「名前もフランセット=ロジェじゃない。きみはもう、フランセット=ウィールライトだ」
「ち、ちが」
「ちがわないよ。ねえ、アレン?」
メルヴィンが呼ぶと、第三王子が書類入りの筒をトンと自身の肩に置いた。
「万事仰せのままに、王太子殿下」
「上出来」
やわらかく笑って、メルヴィンはなにかのついでのように、フランセットの頬にキスを落とした。
「なーー!!」
「さあ行こうかフランセット」
「えっ、ちょ、きゃあっ」
メルヴィンは力強い両腕で、フランセットを横抱きにした。チュールがふんだんに使われたドレスがふわりと舞う。
「綺麗なドレスだね」
「ど、どうも。というか降ろしてくださ――」
「でもあなたには、僕が贈るドレスをいつも着ていてほしいな」
訴えを見事にスルーされて、フランセットは絶句する。メルヴィンはお伽噺の王子様のようなキラキラした顔で、優しく微笑んだ。
「ようこそ僕のもとへ、フランセット。あなたを生涯愛し続けると誓うよ。天に、神に、そして」
あなた自身に。
メルヴィンはそう甘く囁いて、再びフランセットの頬にキスをした。