夕暮れ時、馬車は宿場街道に辿りついた。
数ある宿のうち、最も豪華な四階建ての、プレミアムなお部屋に案内される。
けれど今は、休むより一人の時間が欲しかった。フランセットは足早に一人きりで宿を出た。メルヴィンは侍従と話をしていたので、そのスキを縫った。
(殿下といると、体温が上がりっぱなしでそのうち本当に風邪を引いちゃうわ)
あの余裕のありよう。あれで五歳も年下なのだ。
確かに外見はハタチの若者である。けれどやることなすこと手慣れていて、遊び慣れているとしか思えない。
彼は花を毎日贈ってくれていた。
それだけを考えれば、一途な純愛を傾けてくれていたと解釈できるのだけれど。
(でも、やっぱりわたしには無理よ。王太子様の奥方なんて大役、務まらない)
宿場街道の外れに、小さな広場があった。花壇に春先の花が咲いていたので、手近にあるベンチに腰を下ろす。
(あのスイセン、殿下が贈ってくれた中にもあったな)
とても綺麗な花束だった。
たくさんの色使いだったり、同系色をグラデーションにしていたり、鮮やかな一色だったり。
両手に余るほどの花束を、毎朝受け取っていた。最初はただ驚き、そして戸惑い、その後はーー。
フランセットはため息をつく。
(あれはずるいやり方だわ。だってあんなことを続けられたら、ときめかざるをえないんだもの)
花束を受け取ることは、いつしかフランセットの楽しみになっていた。
求婚を申し入れてきた男性が、どうした理由からか突然辞退を願い出てくる事態が頻発しても、フランセットがそれほど落ち込まなかったのは、毎朝届けられるあの贈り物があったからに他ならない。
(十四年前に告白された時だって、あの方は、格下のわたしの諫言を、怒るでもなくサラリと受けていたし)
六歳の少年だから、むかっ腹が立って「ちちうえに言いつけてやる!」という騒動になってもおかしくなかったというのに。
「意外と悪いお方でもないのかもしれない……」
ぽつりとそうつぶやいて、そこで自分の頬がほんのりと染まっていることを自覚して、フランセットはぶんぶんと首を振った。
「ちがうちがう! わたしは身の丈に合った生活を送るのよ。超大国の重い慣習や複雑な人間関係に悩まされ続けてハゲるのはごめんだわ!」
生国のロジェは、新興の小さな国だ。慣習などにもそんなにうるさくない、自由な気風があった。けれど古豪ウィールライト王国は、それと正反対だろう。
振り切るように立ちあがり、宿に戻ろうと踵を返した時だった。
どん、低い位置で何かにぶつかってしまった。視線を下ろすと、四、五歳くらいの女の子が尻餅をついている。
フランセットは慌ててしゃがみこんだ。
「ご、ごめんね、大丈夫?」
「あっ、風船が」
女の子は空を見上げて両手を伸ばした。つられてフランセットも空を仰ぐと、ピンク色の風船がふわふわと舞い上がって、大きな木の枝に引っ掛かってしまった。
「うえーん、あたしの風船ー」
「ま、待ってて、取ってくるから!」
フランセットは慌てて立ち上がった。木をよじ登ろうとして、自分が今ドレス姿だということに気づく。
(さすがにこれで木をよじ登るわけにはいかないし、かといってジャンプしても届かない高さだし)
「ちょっと待ってて、台になるようなものを探してくるわ」
フランセットが宿の方へ走り出そうとした、その時だった。
ふわりと優しい風が吹いた。
フランセットのプラチナブロンドが後ろに流れる。不思議な温度を感じる風は、木に引っ掛かっていた風船をゆっくりと浮かせた。
そしてその風は、まるで意思を持つように、広場に現れた人物の手へ風船を届けたのだ。
「はい、どうぞ」
メルヴィンは優しく微笑みながら、女の子に風船の紐を差し出した。女の子は涙の溜まった目をぱちくりしたが、すぐに満面の笑顔になる。
「ありがとう、おにいちゃん!」
「どういたしまして。そろそろ暗くなってきたから、気をつけて帰るんだよ」
「はーい!」
いい子のお返事をして、女の子は広場から駆け出ていく。その姿を見送りながらフランセットは、
(そういえば、そうだったわ)
と、驚きとともに、メルヴィンを見上げた。
(ウィールライト王国の人の中には、不思議な力が使える人がいるって)
豊かな森林や山岳を擁する広大なウィールライト王国は、その人口もケタ外れに多い。
深い自然に抱き込まれた土地の恩恵なのか、その人口の多さゆえか、超常的な力を持つ人間が、数パーセントの割合で存在すると聞き及んでいる。
(そして、ウィールライト王家の方たちには、ほぼ全員、その力の顕現が見られると)
だからこそ、その国の王室は、絶対的な権力を誇っているのだと。
「確かに、蜂の巣みたいになりそうだね」
メルヴィンがふと、笑った。その綺麗な漆黒の目に、フランセットはつい引き込まれてしまう。彼の瞳に夕日の赤が差し込んでも、黒に溶かし込まれて跡形もない。
彼の男らしい形をした指が伸ばされて、フランセットの頬に触れた。
「その可愛い瞳で見つめられると、どきどきする」
「……?!」
「ほっぺが林檎みたいだ。蜂蜜をまぶして、食べたいな……」
ぺろ、と軽く舌が這って、フランセットは我に返った。
「待ーーっ! ここ、外! お外です!」
「うん、そうだね。綺麗な夕日だ」
「王太子殿下!」
怒鳴りつけそうになって、フランセットはぐっと息を詰めた。
(だめよ、フランセット。外で年下の男性を怒鳴りつけるなんて、大人げないわ)
たとえ相手が、手慣れた遊び人であっても。
フランセットはせき払いをしつつ、今一度メルヴィンを見上げた。
「王太子殿下。お願いがあります」
「なに、フランセット?」
目が合うと、メルヴィンは機嫌よさそうに笑う。キラキラした笑顔に絆されそうになる自分を律して、フランセットは真剣な表情で口を開いた。
「男女の行為は、人の目があるところでするようなことではありません。だから、こういった広場で、き、き、キスをしたり、く、口説き文句をみだりに告げては、いけません」
メルヴィンは微笑んだまま首を傾げた。
「いやだなフランセット。それくらいは、僕も分かってるよ」
「分かってらっしゃらないから申し上げているのですが」
「でもせっかくあなたと僕が一緒にいるんだし、今できそうなことは全部してしまいたいじゃない。――あ、ドレスの裾が、汚れてしまったね。女の子を泣き止ませようとして、しゃがんだから?」
唐突にメルヴィンは、その場に片膝をついた。王太子であり、(あまり認めたくないが)夫である人物に傅(かしづ)かれるようにされて、フランセットは慌てた。
「お、お立ちください殿下!」
「これくらいなら、まあいいけれど」
低い位置からフランセットを見上げて、メルヴィンは微笑む。その微笑みが、いつもより深いような気がして、フランセットは言葉に詰まった。
(なに? ……殿下が、ちょっとだけ怒っていらっしゃる?)
「僕の空耳だったかな。フランセットが、台によじ登って風船を取ろうとしたように、聞こえたんだけど?」