09 花嫁は、くじけない

 一人残されたフランセットは、けれどこの部屋にいたたまれなくて、おぼつかない足取りで廊下に出た。

 今夜はメルヴィン一行が宿を貸し切っているため、廊下は静まり返っている。特に行くあてもなかったので、一階のラウンジで休もうかと、階段を降りた。

(分からないわ)

 一階まで降りたところで足を止めて、佇んだ。

(いろんなことがありすぎて、何をどう考えていいのか分からない)

 小さいころ彼と結婚すると約束をして、そのとおり婚姻を結んで。
 キスをされても、抱きしめられても、嫌だと思わなくて。

 その状態で、今さらメルヴィンに説明を求めたところで、いったいどうなるというのか。

「わたしは殿下に、どう説明してほしかったの」

 彼から、どんな言葉が欲しかったのか。
 その自分の考えに、フランセットは目を見開いた。

 そうだ。自分はメルヴィンに、「説得してほしかった」のだ。
 この戸惑いと混乱に、明確な答えを与えてほしかった。それで、楽になりたかったのだ。

(そんなことで、覚悟なんか決められるわけないのに)

 超大国の王太子の、妃になること。
 五歳年下の、すべてを兼ね備えている青年と、婚姻を結ぶこと。

 どう考えても釣り合わない場所に、一生身を置くこと。

「……どうして、わたしなの」

 フランセットはてのひらを握り込む。薄暗い廊下にぽつりと落ちた言葉は、ひどく惨めな響きを帯びていた。
 だから、こんなことではだめだと、フランセットは顔を上げる。

「しっかりとしないと。向こうに行ったら、誰も頼れる人はいないんだから」

「フランセット?」

 呼び声が、階段の上から聞こえてきた。びっくりして振りあおぐと、踊り場にメルヴィンの姿がある。
 フランセットは目を見開いた。彼は足早に階段を降りて、フランセットのところまで来る。

「一階にフランセットの気配がすると思って来てみたらーーいくら貸し切っているとはいえ、夜着一枚で部屋の外に出たらいけないよ」

 メルヴィンは手に持っていたストールを、フランセットに掛けてくれた。
 肩に乗る暖かさに、フランセットは茫然とする。そのまま疑問を口にした。

「一階の気配が、分かるんですか?」

「うん。便利でしょう?」

「……厄介、です」

 うつむきながら、フランセットはそう返した。本当に厄介だ、この人は。
 沈黙が落ちる。しばらくののち、ぽつんとメルヴィンが呟きを落とした。

「僕に頼ればいいのに」

 その言葉が、先ほどフランセットが落とした惨めな呟きへの返しだということに気づくまで、数秒かかった。

「あなたを迎えに行くのに十四年を掛けたのは、あなたが生き生きと過ごせる場所をきちんと用意していたからなのに」

 メルヴィンの声を聞いて、瞳を見て、フランセットの胸がずきんと痛んだ。
 また、彼を傷つけてしまった。

 けれどここで「ごめんなさい」と謝ることは、違う。
 違うと思う。
 でも、メルヴィンがいつも本心を伝えてくれているのだから、フランセットもそうしなければいけないのだろう。

「わたし、ただ流されるだけの人生は、性に合わないのです」

 メルヴィンの漆黒の双眸が、見開かれた。

「だから、殿下の妃になる覚悟がきちんとできるまで、もう少し時間をください。あと半月、ウィールライト王国に入るまでに、きちんと折り合いをつけてみせますから」

「……ああ。そうか」

 メルヴィンはびっくりした表情のまま呟いた。やがてくすくすと笑い始める。

「そうか。やっぱりフランセットは真面目だね」

「将来大国の王となられるお方が、わたし程度の真面目さに感心していたらだめですよ」

「うん」

 メルヴィンは嬉しそうに笑う。その屈託のない笑顔に、フランセットは目を奪われた。
 直後、メルヴィンの両腕が伸びて、抱き寄せられる。

「やっぱり僕は、フランセットがいい」

 耳もとに落された子供のような言葉は、けれど密度の高い熱が込められていた。だからフランセットは、彼の熱が伝播したように、頬を赤らめてしまった。