「いいものだよ。だってフランセットが喜ぶ顔が見たいじゃない。とても可愛いもの」
どきりと胸が高鳴った。こっそり覗くと、メルヴィンこそとても嬉しそうな顔をしている。自分なんかより、よほど可愛い表情だと、フランセットは赤面しながら思った。
「ふうん。フランセットは海を見て、そんなに喜んでたの?」
「うん、少なくとも、海岸で従姉妹に会うまではね」
「あー見てた見てた。おっそろしい兄貴だよ。あれ、相手が男だったら回し蹴り食らわせておしまいだったろ。敵には絶対に回したくないな」
「僕はおまえの敵にはならないよ」
メルヴィンはそう言って、アレンに微笑んだ。その微笑みを見て、フランセットはどきりとする。
(弟には、ああいうお顔をされるのね)
フランセットを見る時の目とは、また違う。慈しみと愛情に満ちた表情に、フランセットは心をきゅっとつかまれた気がした。
「でもさ、メルヴィン。ここはどう考えても遠回りだよ。一日でも早くウィールライトの都に着かないと、父上がうるさいよ? 海だったらウィールライトに着いてから、いくらでも見せてやればいいじゃないか」
「うん、そうだね。でも他国へ嫁いだ女性は、めったなことでは生国に帰れない。それこそ、肉親の死でも起きない限りはね」
フランセットは目を見開いた。メルヴィンは寂しさの混じる笑みを浮かべている。
「自分が生まれた国の海。それを見られる、最後の機会かもしれない。そう思ったら、どうしてもフランセットをここへ連れてきたくなったんだ」
「へえ」
アレンは微笑しながら、テーブルに頬杖をついている。
フランセットは胸がいっぱいになって、ドレスの上からそこを手で押さえた。
「だからアレン、おまえに頼みがあるんだ。父上あてに、都へ手紙を書いてくれないか? 少し遅れそうだって」
「めんどくさいな、ご自分でどうぞ」
「僕はフランセットのことでいっぱいいっぱいで、余裕がなくて。おまえだけが頼りだよ、僕の可愛いアレン」
「くそ、このヤロウ」
二人の兄弟は、顔を見合わせてくすくすと笑い合っている。フランセットはそっとこの場を離れた。
*
レストランを出る頃合いになって、フランセットはメルヴィンに、「もう一度海を見たい」と願い出た。メルヴィンは快く了承してくれた。
さっきはひとりで降りた石段を、今はメルヴィンと一緒に降りる。彼に預けた右手が、ほんのりと熱を帯びているような気がした。
波打ち際まで来て、海を眺める。海は先ほどと変わらない。
けれど。
「綺麗ですね」
春の優しい日差しにキラキラ光る。この穏やかな海面を、フランセットは絶対に忘れないようにしようと誓う。
「うん、とても綺麗だ」
メルヴィンの言葉に誘われて彼を見上げるると、彼はフランセットを見つめていた。
思わず頬が赤らんで、フランセットは顔をうつむかせる。メルヴィンが小さく笑う気配がして、それから彼の指が、フランセットの頬に掛かった。
「フランセット」
甘く呼ばれて、体の奥に熱が灯る。
このような感覚を、二十五年間生きてきて、フランセットは初めて知った。
波の音が、陽の光に散る。キラキラと。
「大好きだよ、フランセット」
溶けるような甘さでそう伝えてくれたメルヴィンに、フランセットは踵を上げて、彼の胸もとにそっと手を置いた。
それから目を見開くメルヴィンの、形のいい唇に、そっと自身のそれを重ねた。
「……フランセット」
「さ、さあ、馬車に戻りましょう」
顔を真っ赤にさせながら、フランセットはくるりと方向転換する。
慌てて踏み出した足が砂浜にもつれて、転びそうになったところを、背後から腰に回った腕に抱き留められた。
「す、すみませ」
「フランセット、もう一回」
大きなてのひらに後ろからあごを掬い上げられる。そのまま彼の唇が押し当てられて、フランセットはさらに足をもつれさせた。
「殿下……、っ」
「だから僕は、馬車の中で言ったのに。あなたからキスをしてって」
唇をくっつけたま、熱に浮かされた瞳でメルヴィンが囁く。
「こんな外で口づけるなんて。誰に見られても、離せなくなるじゃないか」
「っ、ん……!」
再び深く唇を奪われた。深く差し入れられた彼の舌が、フランセットのそれに絡みつく。貪られるような激しさと、抱きしめられる腕の力強さに、フランセットの両足からかくんと力が抜けていった。
「は、……っ、でん、か」
「僕が好き? フランセット……」
乞うように、祈るように、キスをし続けながら、メルヴィンが問う。
全部食べられてしまうような口付けに晒されて、フランセットはそれに答える術を持たない。
「僕は好きだよ。あなたが好きだ」
愛してる、と、彼の言葉が波の間に甘く溶けていった。
*
きっともう、自分は、あの王太子へ向かう想いを、自覚しているのだろう。
いつからなのか分からない。海へ連れて行ってくれたからなのか、宿場町で抱きしめられてからか、もしくは花を毎日贈ってくれていたころからか。
いつからでも関係ない。
ウィールライト王国に入ったら。関所を抜けて、国境を抜けたら。
そうしたら、きちんとけじめをつけると、メルヴィンに約束したのは自分だ。
(だからちゃんと、伝えなければならないわ)
かの地へ一歩、踏み入れたら、この想いを、メルヴィンに伝えよう。
フランセットはそう思った。