当初の予定を変更して、十日後。
迎賓館の前庭に、王太子専用の馬車の用意ができたと連絡が入った。
エントランスに出てきたフランセットとメルヴィンを、アレンは待っていてくれたようだ。
「ま、一日の延長ですむはずがないって予想はしてたけど」
アレンは馬車の前で肩をすくめる。
「にしても十日はなくない? いくら新婚とはいえ、ご寵愛が過ぎるよ王太子殿下」
「ごめんねアレン。でもフランセットを愛でてばかりいたわけじゃないよ。ちゃんと公務もしていたんだ。フランセットも手伝ってくれたんだよ。熱心で賢いお后様だと、周囲でも評判だったんだ」
「へえ?」
アレンが興味深そうにこちらを見てくる。フランセットは居心地が悪くなった。
「過大評価です。今後の勉強のために王太子殿下に付き添っただけなので。関所内の視察や、書類仕事の時は隣で書物を読んだり……」
王太子妃をきちんと務め上げるには、王太子の公務がどんなものかということを把握しなければならない。だからフランセットはメモを片手に必死で勉強していたのだ。
「ふうん、熱心なのはいいことじゃない? 昼も夜も妃のおつとめごくろうさん。大変だったね」
昼も夜も、とわざわざ指摘してくるあたり、アレンは人が悪いと思う。まったくこの兄弟はと内心ため息をつきつつ、フランセットは半ばやけくそで答えた。
「いえ、それがあまり疲れていなくて。ご指摘のとおり朝も昼も夜も妃の務めに励んでおりましたが、ご覧のとおり元気そのものです」
慣れない視察についていって大勢の兵士や家臣に囲まれても、分厚い書物を前に眉間にシワを寄せていても、昼夜問わずメルヴィンに抱き寄せられることになっても、不思議とフランセットは疲れていなかった。
睡眠時間も圧倒的に足りないはずなのに、眠たかったり体がだるかったりしないのだ。
アレンは目を丸くした後、くすくす笑った。
「なんだ、知らないの? フランセットが疲れないのは当然だよ。だってメルヴィンがいるから」
「え?」
「メルヴィンは治癒魔法が使えるの。言ってなかったんだ、兄貴」
メルヴィンは首を傾げた。
「ああそういえば、言うの忘れてた」
フランセットは目を見開いて、隣のメルヴィンを見上げる。
「治癒魔法って、怪我や病気をたちどころに治してしまうという力のことですか? わたし、お伽噺の中でしか聞いたことがないのですが!」
「うん、そうだよ。フランセットが疲れると可哀想だから、眠っているときにかけていたんだ」
メルヴィンはこともなげに言う。フランセットはしばし茫然とした。
この広い大陸の中で、魔法という特別な力を使える人間は多くない。その中でも、治癒魔法は特別だった。大昔、大山の頂上に住まう賢人のみが操れたというお伽噺だけが残っているだけで、実在はしないということが通説だった。
アレンは可笑しげに笑う。
「まあ、驚くよね。魔法使いはウィールライト王国の領土内でしか生まれない、これは恐らく風土的な特徴だと思う。国の人口の五パーセントくらいかな。その中で、治癒魔法が使えるのは我が王太子殿下だけだ」
「殿下、お一人だけ……?」
「だからこそ、メルヴィンは絶対的な王太子なんだよ」
メルヴィンは「大げさだなぁ」とくすくす笑っている。フランセットは改めてメルヴィンを見上げた。真剣な目で言う。
「殿下、わたしはこの十日間、殿下のご公務を拝見して、殿下は本当にすごいお方だと実感しておりました」
「そうなの? 嬉しいな」
「生まれながらの王太子とでもいいましょうか。大勢の家臣や兵士を前に堂々と、しかし余分な威圧感もなく、けれど威厳を保たれて演説をするお姿に、フランセットは感動しました」
「ありがとう、フランセット」
「書類仕事も実にスピーディにこなされ、家臣への指示出しもシンプルかつ分かりやすく、わたしも見習わなければと心に決めた次第です」
「フランセットは真面目だなぁ」
「それだけでもご立派な殿下なのに、さらに治癒魔法という伝説のお力をお持ちになっているだなんて!」
未知の力を前に、フランセットはいつになく興奮してしまった。メルヴィンは微笑みつつ、フランセットの唇に人差し指を押し当てる。
「でもフランセット。この力のことは、王宮の外に漏らさないでいてほしいんだ」
「えっ、なぜですか?」
希少な力を持つ王太子ということであれば、メルヴィンのカリスマ性をより高めることができて有用である気がする。
「僕が手がけるのは政治と軍事と法であって、宗教ではないからね」
フランセットは胸を突かれた。
「それにこの力を過大評価されると困ってしまうんだ。軽い風邪なら治せるけど、重病は治せない。かすり傷なら治せるけれど、重傷は無理だ。だからそんなに有効的な力でもないんだよ。あれば便利、というだけ」
「メルヴィンの前に国内外から人の波が押し寄せても困るでしょ。重病も重傷も、なんでも治せる奇跡の人っつー触れ込みで」
アレンが苦笑する。その光景を想像して、フランセットは自分の考えの浅さをすぐさま後悔した。
「申し訳ありません、考えなしのことを申し上げました」
「便利は便利なんだよ。だってフランセットは疲れてないでしょう? 昼も夜もなく、あなたをたくさん抱いたのに」
弟の前だというのに、メルヴィンはフランセットの腰を抱き寄せた。フランセットはぎょっとする。
「ち、ちょっと殿下」
「だからね、フランセット。めったなことでは疲れないんだ、この僕も」
耳もとで囁かれたその言葉に、フランセットの動きが停止した。
「……疲れない?」
「だからフランセットを欲求不満にさせることにだけは、ならないと思うな」
可愛らしい笑顔とともに、ひたいに軽くキスが落ちる。フランセットはその意味を考えて顔を青くさせ、そしてアレンからは「ご愁傷様」と哀れみの声が届いたのであった。
*
フランセットとメルヴィンを乗せて、馬車は関所から出発した。次の目的地はメルヴィンの領地にある屋敷で、王都ではないらしい。
婚姻を結んだのだから、早く王宮へ入って国王と王妃に挨拶をしなければならないはずだ。それなのにメルヴィンはいたってマイペースである。
フランセットは最近まで気を揉んでいたが、メルヴィンがこんな調子なのでまあいいかと思うようになってきていた。
(立派な王太子妃になるための準備期間が増えたと思えばいいんだわ)
ガタゴトと揺れる馬車の中で法関係の書物を広げながら、フランセットは必死で勉強に励んでいた。
(殿下の評判を下げることにならないよう、きちんと励まなくては)
「馬車の中でも勉強するの?」
隣でメルヴィンが苦笑混じりに声を掛けてきた。フランセットは本から目を上げずに頷く。
「王太子妃なのですから、これくらいは当然です。むしろ、スタートが遅れている分、時間を無駄にできません」
「そう」
そこでメルヴィンが黙ったから、フランセットは顔を上げる。