目が合うと、メルヴィンはかすかに笑う。彼は表情豊かだから、感情の揺らぎが分かりやすい。
恐らくメルヴィンは、フランセットの言葉に、いい感情を持っていない。
「もしかして、ウィールライト王国では女性が公務をお手伝いする文化がないのですか?」
「そんなことないよ。いろんな王妃殿下がいらっしゃったよ。国王陛下顔負けの辣腕を振るった方もいたし、執務はせずお茶会や舞踏会の主催に精を出す女性もいたし。お心の弱かった方は表舞台には一切出てこず、生涯宮の奥に隠されていたとも聞く。つまり、すべては王妃様のご気性次第だ」
ならばフランセットがメルヴィンを支える役目を負おうとすることに、なんの問題もないはずだ。ということは、彼の憂いには別の理由があるのかも知れない。
フランセットがじっとメルヴィンを見ていると、彼は少し困ったように眉を寄せて微笑んだ。
(心配、されている?)
もしかしたら彼は、フランセットが王太子妃の務めをきちんと果たせるのかを心配しているのかもしれない。気合いばかりがカラ回りしている自覚は、フランセットにもあった。
(駄目だわ。わたしは殿下を支える立場にあるのに)
メルヴィンよりも年上で、名も知れぬような小国の王女で、それでも彼に望まれた。
(わたしができることを、全力でやらなければ)
「殿下」
フランセットは本を閉じて、メルヴィンの方へ身を乗り出した。メルヴィンはびっくりしたように目を丸くする。
「大丈夫ですからね。わたしは昔から、コツコツと確実に課題をこなしていくタイプなのです。今はぎこちなくても、しばらくお時間を頂ければ、殿下の隣に控えても見劣りしないような妃にきっとなりますから」
容姿や威厳の面で、見劣りは当然するだろう。これはもう、持って生まれたものだからどうしようもないけれど。
それでも、その場にふさわしい表情の作り方や、立ち居振る舞いを身につけることはできる。妃であるから夜会や慈善事業などを主催することもあるだろう。貴族間の複雑な人間関係を把握して、たずなを握ることも必要になるだろう。
すべて大変なことだが、周囲からアドバイスを――特に先達である王妃の話を――仰ぎ、力の限りつとめれば、やってやれないことはない。
「だからご心配なさらずに。殿下は殿下のすべきことだけをお考え下さい。わたしが殿下をお支えしますから」
メルヴィンはびっくりしたような表情のまま聞いていたが、やがて目もとをゆるめた。
「それは違うよ、フランセット。僕はきみが妃の務めを果たせるかどうか、心配しているわけじゃない。むしろ十分すぎるほど務めてくれるだろうと思っているんだ」
その言葉はとても嬉しかった。けれどフランセットは眉を寄せる。
「では殿下。どうしてそのような、心配そうなお顔をなさるのですか?」
するとメルヴィンはまた、困ったように笑った。
「うーん……。口に出すと僕自身がまずい気がするからやめておくよ」
「逆に気になりすぎるのですが」
「フランセットも知っているように、僕は理性と我慢が利くタイプなんだけど」
「……。あ、はい」
「それでもやっぱり口にすると、あなたに僕の言うことをきかせたくなってしまうから、やめておく」
メルヴィンは爽やかに笑いながら「ごめんね」などと言っている。
フランセットは気になってしかたがない。けれど、メルヴィンの人心掌握力というか、人の心を自然に自分のいいように持っていく力は相当のものだ。彼が「言うことをきかせたくなる」と思えば、それがどんなにフランセットが嫌なことでも、最後まで拒絶できる自信はない。
(惚れた弱み……というだけでもないわよね、絶対)
あの飄々としたアレン王子ですら、メルヴィンには逆らえないようなのである。
(それでも夫婦としてやっていくのなら、夫が間違ったことをしようとしたら、正そうと努力しなければならないわ)
安易に彼に流されないようにしなければならない。しっかりと自分を持とうと、フランセットは決意を新たにした。
*
メルヴィンの屋敷は、関所からそう遠くなかった。辿り着いたのは翌日の夕方で、空が赤く染まり始めた時分である。
いくつもの大きな街を通り過ぎ、田園を抜けて、馬車は巨大な門楼の前に出た。馬車側から笛が鳴らされると、門衛が出てきて敬礼し、鉄柵の門を重々しく開いていく。
「何百年も前に建てられた屋敷だから、造りが古いんだ。この大げさな門楼も、もっとシンプルなものに替えたいんだけどね。歴史的価値がどうのって侍従たちが言うから」
門の向こうは、広大な庭園が広がっていた。ゆるく起伏した緑の芝生に、曲がりくねった馬車道が敷かれている。馬車道は途中で枝分かれして、庭のさまざまな場所へ通じているようだった。
フランセットは馬車の窓から茫然と庭園を眺めていた。
「このお庭だけで、実家の王宮が埋まるような気がします」
「僕ですら足を踏み入れたことのない場所もあるくらいだよ。広いだけで不便だよ。非効率的だから庭も狭くしたいんだけど、園丁の仕事を奪うことにもなるからそれはあきらめてる」
メルヴィンは庭の奥を指さした。巨大な三階建ての館がそびえている。左右に腕を伸ばす形で、どっしりとしていた。
「ごらん。あれが僕たちの家だよ。しばらくはここに住もう」
「しばらくとは、いつまでですか? 都の王宮に、殿下の宮があるのでしょう? 王太子様であれば、そちらの方に居を置くのが普通なのでは?」
領地運営は家臣に任せ、次代の王であるメルヴィンは王宮で王の執政を補佐するべきだ。そしてなにより、フランセットは国王と王妃に一日も早く挨拶をしなければならない。
「あなたは真面目だなぁ。いいじゃない、もうしばらくゆっくりすれば」
「でも」
「僕がいいと言っているんだよ、フランセット」
メルヴィンの瞳の漆黒が、ほんのわずか、深くなった。それだけだ。それだけで、フランセットは言葉を止めなければならなかった。
これ以上、言葉が出てこない。
(悔しい、けれど――)
笑顔で丸め込もうとしてくる時は、まだいいのだ。最終的に丸め込まれてしまうのだが、なんとなく自分の意思で彼に従ったという気分になる。
けれど、今のような時は駄目だ。
二の句を継げない。こちらの意見が、断ち切られる。
そういう力が、メルヴィンにはある。
(安易に流されないと、決めたばかりなのに)
フランセットが眉を寄せてうつむくと、ふいにメルヴィンの気配がやわらいだ。
「屋敷の前に着いたよ、フランセット」
いつの間にか振動がやんでいる。外から侍従の声がして、扉が開かれた。
夕日の赤が箱内に差し込んで、メルヴィンの黒髪をやわらかく染める。彼は右手を差し出して、笑った。
「中に入ろうか。あなたが部屋を気に入ってくれるといいんだけれど」
*
部屋は、気に入るどころの話ではなかった。フランセットは一歩足を踏み入れて、それから茫然と立ち尽くした。
壁紙はローズピンクで、ステンシルの花柄模様が入れられている。カーテンも花柄で、淡いクリーム色だ。寄せ木造りの床に置かれたテーブルは優雅な曲線美を誇り、ソファは全体に厚い詰め物がなされていた。
かわいらしさと上品さが絶妙に溶け合った室内に、フランセットが否を唱えられるはずがない。
フランセットの反応に、メルヴィンは満足したようだ。「お茶を飲みながら休憩しようか」とソファへ促された時だった。
「ご歓談中、失礼。メルヴィン、客だよ」
開きっぱなしだった扉を律儀に叩いて、アレンが声を投げかけてきた。
メルヴィンは首を傾げる。
「こんな時間に?」
「国王陛下からの使者だ。追い返せない相手だよ」
「ああ、エスターかな」
メルヴィンの表情がやわらかくなった。逆にフランセットは緊張してしまう。
エスター。ウィールライト王国、第二王子の名だ。メルヴィンの、すぐ下の弟である。そんな大物が使者として訪れたということは、なにか重要な用があるのだろう。
「すぐに戻るから、フランセットはここで休んで――」
「殿下」
フランセットはメルヴィンをまっすぐに見上げた。もうさっきみたいに流されないという思いをこめて。
「わたしも一緒に行かせてください」
「でも」
「行かせてください」
ずずいと前のめりになる。メルヴィンは困ったように眉を寄せたが、ややあってから同行を許してくれた。
フランセットの勢いに呑まれたのか、「弟との接見についてくるくらい、まあいいか」と判断したからか、彼女には分からない。けれどとりあえずの勝利を収めることができたと、この時フランセットは満足していた。
*
応接間にはアレンもついてきた。エスターはアレンの兄でもあるから、兄弟三人で会いたいのかもしれない。
応接間の扉をメルヴィンが開ける。中に入ると、一人の青年が椅子から立ち上がった。
黒い髪に黒い瞳、メルヴィンと同じくらいのすらりとした長身。やはり兄弟だ。背格好や顔立ちが、メルヴィンやアレンと似ている。要するに、エスター=ウィールライト第二王子は超がつくほどの美形であった。
ひとつ違うのは、エスターが髪を肩下まで伸ばし、それを耳の下あたりでひとつにまとめているところである。その髪型のせいか、明るいグレーのフロックコートが洗練されているように見えた。
長兄に対し丁寧に礼を取る彼に、メルヴィンは微笑む。
「久しぶりだね、エスタ―。元気にしていた?」