どうぞ、と言われて入った室内は、綺麗に整えられていた。メイドがひとり中にいて、彼女は燭台に火を灯したあと一礼して出て行った。
「フランセットを迎えに行く前に、綺麗にしておくよう伝えておいたんだ」
「ええ、素敵なお部屋だとは、思いますが……」
内装や調度品は、宮内にあるフランセットの部屋とそう変わらない。壁燭の光に浮かび上がる空間は、女性的な愛らしさに満ちている。窓と反対側の壁際には、カーテンに囲われたベッドも置いてあった。
けれど、全体的に閉塞感があった。それはきっと、この部屋がらせん階段を延々と昇った先にある、塔の最上階だからだろう。塔にここ以外の部屋はないようだった。
(空の上の、孤島みたい)
窓が極端に小さいことも、気になった。フランセットの顔くらいの大きさしかない。しかも、窓ガラスははめ殺しのようだ。
メルヴィンはベッドのカーテンを引き開けた。
「座って。治療しよう」
「治療?」
「手首、ひねっているみたいだから。さっきから庇ってるよ」
気づかなかった。指摘されて初めて、じんじんとした痛みに気づく。
促されるままベッドに腰掛けると、メルヴィンが隣に座った。ふとんが少しだけ沈んで、フランセットはどきりとする。
手首を取るメルヴィンの手が、いつもより冷たい。彼はいつもフランセットより体温が高かったのに。
「無茶をするね」
赤く腫れ上がった手首を見下ろして、メルヴィンは言った。感情の含まれていない声だった。
「申し訳ありませんでした。浅慮な行動でした」
フランセットは再度謝罪する。メルヴィンの唇が、腫れた手首に落とされた。
「いいんだ。謝らないで」
「でも……あの。助けてくださって、ありがとうございました」
「お礼もいらない」
唇が触れたところから、清涼な空気が流れ込んでくる。じんんじんとした熱が宥められていって、心地よさが広がった。
形のいい唇が軽く肌を滑って、フランセットの肩が小さく跳ねる。てのひらにキスをして、メルヴィンは唇を離した。
手首の赤みが引いて、痛みもすでにない。
(殿下は、本当にすごいわ)
フランセットは感嘆とともに、手首を見下ろした。まるで奇跡のような力だ。メルヴィンは特別だから、というアレンの言葉がよみがえる。
「フランセット」
まっすぐに見つめられて、フランセットは我に返った。
「どうして一人で行こうと思ったの」
「申し訳ありません」
フランセットには、謝罪するしか術がない。本当に愚かなことをした。感情が先走ってしまったのだ。
「謝罪はいらないと言ったよ。僕は知りたいんだ。どうしてあなたが、僕を信頼してくれなかったのか」
「わたしは、殿下のことを信頼しています」
「嘘だ」
断定されて、フランセットは目を見開いた。
「あのまま奴らに連れ去られていたら、最悪殺されていた。そこまではいかないまでも、権力のコマとして、いいように使われることになっただろう。フランセット=ウィールライトは僕の最大の弱点だ。今この国で、僕を抑えるということは、国の中枢機能を手に入れることと同義だよ」
「……主犯は、叔父上ですか」
フランセットは震える声で聞いた。メルヴィンは小さく笑う。
「教えない。また無茶されると困るからね」
「今回のことは、本当に反省しています。今後はこのようなこと絶対にないように、殿下の不利にならないように、細心の注意を払って動くようにしますから」
「馬鹿だな、フランセット」
メルヴィンは優しい声で言った。
「あなたが動いて解決できることなんて、この国には一つもないんだよ」
フランセットは絶句する。
「王太子という立場の僕が、二十年かけてやっと手中にしたもの。それが『権力』だ。フランセットには、まだ無理だよ」
まだ、と付け加えたのは、彼の温情かもしれなかった。
「でも、リオネルが……弟が、関所に来たと。だからわたしは心配で」
「ああ、そういうことだったんだ。でもその情報は僕のところに入っていない。偽の情報だよ」
フランセットは愕然とした。
「では、父が資金を要求していることも?」
「それは本当。僕はちゃんとフランセットに言ったよね」
ギ、とベッドが軋んだ。メルヴィンがフランセットの後ろに手をついたからだ。
間近にある漆黒の瞳が、燭台の光に照らされている。
「この件は僕に一任してほしいって」
「申し訳、ありません」
「目が覚めた時、あなたが隣にいなくて僕がどんな思いだったか。門衛から話を聞いて、追いかけて――襲われている馬車を見つけた時、心臓が止まるかと思うほど、怖かった」
メルヴィンの目に、痛みが走る。直後、フランセットはベッドの上に押し倒された。
肩が弾んで、それを彼の片手で押さえつけられる。もう片方の手が、フランセットの髪に絡んだ。
弧を描くプラチナブロンドが、彼の綺麗な指の間を流れている。そこにメルヴィンは唇を寄せた。
「あなたが僕を信じてくれていたら、こんなことにはならなかったのに」
「わたしは、殿下を信頼していないわけでは」
「どうかな」
強い視線に、縫い止められる。それ以上フランセットは言葉を紡げなかった。
髪から彼の唇が離れる。彼の指から髪が落とされて、フランセットの頬にはらはらと掛かった。
「あなたは騙されやすい上に無鉄砲だ。しかも、僕の言うことを全然聞かない。あなたがフランセットじゃなかったら、僕はとっくに妃という役からあなたを降ろしているよ」
「っ、そんな言い方……!」
「けれどフランセットは、僕の妻だから」
見下ろしてくる彼の目には、痛みの他に愛しみがこもっている。
「フランセットを愛してるから、危険な目に遭わせたくないからといって、遠ざける事なんてできない。だから今夜のようなことは、もう絶対にしないと約束して。政治のことは僕に任せて、あなたは友人たちと、毎日楽しく穏やかに過ごしていて」
フランセットの胸に、深く突き刺されるような痛みが走る。
「……確かに今回は偽の情報に踊らされたかもしれません。言い訳をさせて頂けるなら、それは慣れない王宮内で聞かされたことだったからです。わたしは普段、そう簡単に騙されたりしないし、考えなしに行動したりしません」
メルヴィンは沈黙して、フランセットを見下ろしている。フランセットはまっすぐに、メルヴィンに告げた。
「だから、二度目はありません。今回のことで充分身に染みました」
「だから、僕の言うことは聞けない?」
「殿下のご指示はいつも一方的過ぎると思います。父上の金策のことだってそうです。こちらの気持ちがモヤモヤのままあんな風にシャットアウトされたら、そのあと相談しようという気が起きません」
「平行線だね。以前にも言ったように、僕はフランセットの行動を制限するつもりはないよ。でも、あなたに危害が加えられるのなら話は別だ。落ち着くまでは僕の指示に従ってもらう」
「それはいつまでですか」
メルヴィンの唇が、笑みの形をとる。
「僕の気がすむまでかな」
フランセットの喉の奥から、悔しさがこみあげてきた。押し殺した声で、訴える。
「ご自身はわたしからの信頼を求めるくせに、わたしのことは少しも信じてくださっていないじゃないですか」
メルヴィンの目が見開かれた。フランセットは、彼の漆黒の瞳に、自分の歪んだ顔が映っているのを見た。
「どうせ分からないからと、力がないからと、わたしをカヤの外に置いて、『フランセットは賢い、妃の器だ』と耳障りのいい言葉だけを掛けて。実際はわたしを下に見ているんです。殿下はわたしを、ただ隣に置いておきたいだけなんだわ」
こんなことを言いたいんじゃない。メルヴィンはフランセットを、危険なことから守ってくれているのだ。ちゃんと分かっている。けれど、一度叩きつけた言葉は止まらなかった。
「一緒に助け合って歩いていこうなんて、殿下はこれぽっちも思っていないんだわ!」
「誤解だよ。僕はあなたが好きだよ。フランセット以上に大切なものなんてない。だから汚い思惑に触れさせたくない。綺麗なところでずっと笑っていてほしい。そう思うのは、駄目なこと?」
それはメルヴィンの本心だろう。彼の真摯な眼差しには偽りがない。
フランセットは唇を噛んだ。
「駄目です。そんな一方的なこと、わたしは耐えられません」
メルヴィンの端整な面差しが、苦しげに歪む。
「……僕とは、長く続かないっていう風に聞こえる」
フランセットの胸が、ずきりと痛んだ。けれどメルヴィンの方が、強い痛みを感じているような表情をしていた。
「どうして、フランセット。あなたが好きだよ。ずっと一緒にいたいだけなんだ」
「……殿下は。わたしも、殿下と同じ気持ちだと考えないんですね」
フランセットの唇が震えた。
「殿下が汚い思惑に触れて、危険な目に遭うかもしれない。それを防ぎたいとわたしが思っては、駄目なのですか。今はこの国に来たばかりでなんの力もないけれど、努力して力をつけて、殿下を支えられるようになりたいと思うのは、いけないことなのですか」
「僕はフランセットに支えられなければならないような男じゃないよ。大丈夫、僕のことは心配しなくていいから、フランセットは自分のことだけを」
「殿下はそうやって、なんでもお一人で決めて進んでしまうんだわ。王太子に生まれて、希有な能力に恵まれて、メルヴィン殿下は『特別』だから!」
泣いては駄目だと思った。けれど痛みが涙になって、こぼれ落ちてしまう。
「こんなの本当の夫婦じゃない。わたしに関わることもすべて取り上げられて、一方的に守られるだけなんて、本当の妻じゃないわ……!」
フランセットの顔の両横で、、シーツが歪んだ。彼が握り込んだからだ。
「……。なら、教えてよフランセット」
低く呻くような声だった。
「本当の夫婦って?」
苦痛に歪んだ彼の瞳に、フランセットは息を呑む。負の感情をここまで剥き出しにしたメルヴィンを、初めて見た。
「僕には分からないんだ。ただあなたを愛してるだけだから」