35 王族の花嫁は幸せか?

 メルヴィンには、フランセットに過去をすべて打ち明けるつもりはなかった。彼女は優しいから、戸惑って心を痛めるに違いないから。
 けれど、なんだかんだと理由をつけて、なかなか首都へ戻らなかったのは、王宮に入るのが怖かったからだ。

 なにか起こった時、自分はフランセットに縋ってしまう。傷を癒やしてほしい、愛してほしいと訴えてしまう。それが分かっていたから。

「本当に、どうしようもないな」

 書斎の執務机に頬杖をついて、メルヴィンは自嘲する。手もとに広がっているのは、弟たちからの報告書だ。エスターがついさっき、運んできてくれた。彼はまだ室内にいる。

「同意だ、兄上。叔父君は本当にどうしようもない」

 エスターの言葉に、メルヴィンはきょとんとして顔を上げた。エスターは机の横に佇んだまま、首を傾げる。

「なに、メルヴィン。俺おかしなことを言った?」

「ああ、いや違うんだ。どうしようもないのは僕のこと」

「なぜ? メルヴィンは王家の至宝だよ」

 エスターはくすくすと笑う。彼の、片側にまとめた髪がさらりと肩を滑った。

(ああ、この笑い方は僕と同じだ)

 相手を気遣う時のやり方だ。

「ごめん、ちょっと弱気になってるみたいだ。気にしないで」

「そういう時は、休むべきだよ。夜はいつも塔に? 一晩くらいは自室でゆっくり寝てもバチは当たらないんじゃないかな」

「うーん、そこが僕の駄目なところでね」

 自室に一人でいても、眠れる気がしない。
 メルヴィンは改めて報告書に視線を落とした。

「ロジェの王子が関所に来たという話はやっぱり偽か。それをフランセットに教えたご令嬢もシロ。馬を貸したことも含めて、まったくの善意。予想どおりだね。問題は誰がこのガセを流したかだな。その犯人と、フランセットを襲った主犯は同一人物だ。叔父上が最有力だということが、エスターとアレンの共通意見になっているけど?」

「兄君の見解は?」

「異論なし」

 報告書をまとめて、指先に意識を集中する。一瞬で紙の束は燃え上がり、灰を含めてあとかたもなく消えた。

「動機も充分。権勢欲の塊でいらっしゃる我らが叔父は、娘の婿にどうしても僕を欲しいらしい。彼は僕のことをそんなに好きなのかな」

「まことに光栄なことだが、彼に俺たちの長兄は渡せないな」

「問題は物的証拠がないことか。襲撃犯の管理はアレンがしているんだよね。あの子から有用な報告は?」

「尋問に難儀しているようだ。アレンは甘いから」

「なら僕が」

 メルヴィンは立ち上がった。

「揺るがぬ証拠を手に入れるまでは、このことを決して表沙汰にしないように。フランセットは慣れない宮中生活の疲れが出て寝込んでいるという設定を続けてくれ。僕の力でもすぐに回復できないほど、疲労が溜まっているとね」

「フランセットはいつあそこから出す?」

「……。アレンはなんて?」

「二人を心配してる」

 あの塔は、アレンにとって特別な場所だ。そこを使わせてもらっている。あの塔の形状は、彼女を守りやすいのだ。
 メルヴィンはアレンに感謝しつつ、かすかに笑った。

「大丈夫、ちゃんと考えているよ。フランセットは、いつまでも閉じ込めておけるような女性じゃない」

 塔の小さな入り口を固めるのは、信頼の置ける屈強な衛兵だ。彼らを労いつつ、メルヴィンは細いらせん階段を昇る。
 ごく小さな明かり取りの窓がぽつぽつとあるが、今は夜だ。メルヴィンは手燭の光を頼りに進んだ。鳴るのは自分の足音だけだ。

(愛妾に会いに行くとき、父上はこの階段を昇っていった)

 自分の影に、父の姿が映り込むような錯覚に陥り、メルヴィンは足を止める。

 誰の手も届かない塔の上で、女を愛していた父。
 「ここから出たくない」と泣く愛妾の、心の闇を嘆きながら、その裏で仄暗い悦びを感じていたのではないだろうか。

 そのように父の心情を穿ってしまうのは、自分が彼を理解しているからか。
 理解できてしまうからか。

(違う……)

 メルヴィンはゆるく首を振って、再び階段を昇り始めた。

 父上。
 僕は、あなたのようにだけは、なりたくない。
 周囲を傷つけ、大切な人を不幸にするような愛し方はしたくない。

「メルヴィン様……?」

 フランセットはまた、長椅子で眠っていたようだった。
 メルヴィンは後ろ手に扉を閉めて、手燭をマントルピースに置く。

「こんなところで寝ていたら駄目だよ、フランセット。風邪を引いてしまう」

 彼女の体の下に両腕を差し入れて、抱き上げる。少し痩せたかもしれない。
 無理もない。

 彼女の腕が、メルヴィンの首もとにゆるく絡む。自由で明るい彼女を、こんな場所へ閉じ込めている罪悪感があった。けれどこうしてフランセットに触れていると、そして触れられていると、そのすべてが塗り潰されてしまう。

 女性のやわらかさを、彼女を抱いて初めて知った。
 その時の感動と、すべてを明け渡してしまいそうになる安堵感を、メルヴィンはきっとっずっと忘れないでいるだろう。

 何度体を重ねても、上書きされることはない。
 彼女以外、だれもいらない。

「外に出ないと頭が働かなくなりますね」

 寝台の上に腰掛けさせると、フランセットは上に伸びをしながらそんなことを言った。

「侍女はすぐに帰ってしまうし、人と会話することもあんまりできないですから」

「女の人は会話をしないと生きてる心地がしないって聞いたことがあるんだけど」

「それはそうですよ、発散しないと愚痴が溜まってしまうじゃないですか。主に夫への愚痴が」

 フランセットはいたずらっぽく笑う。こういうところが好きだと、メルヴィンは思う。

 彼女の髪に手を差し込んで、首裏までの曲線を撫で下ろした。

「心当たりがありすぎて、つらいな」

 口付ける。甘い香りに、酔いそうになる。
 抱き寄せて、髪に顔を埋めて、やわらかな乳房を掌中に収めて。
 朝なんて来なければいい。

「でも殿下とこうしていられる時間が、一番好きですよ」

「僕はあなたに甘えてばかりだね」

 フランセットが許してくれることを前提に、メルヴィンは動いている。

「妻は夫を甘やかしたくなるものです。年下の夫は、だからそれだけでラッキーなんですよ。かわいいですから」

「果報者だな、僕は」

 彼女の上体に片腕を絡めて、ネグリジェの上から胸を掬い上げた。ゆっくりと揉み上げながら、反対の手で足を守る布をたくしあげていく。

「……っ、殿下」

「かわいいだなんて。女性から初めて言われたよ」

 ふっくらした耳朶を、甘噛みする。ぴくんと震える体を抱きしめて、ほっそりした両脚の奥へ手を滑らせた。