06 王太子殿下のいないスキに、こいつらときたら(怒)

第二章

 要するに、油断しすぎなければいいということだろう。
 余裕を持ちすぎて、ソファの上に寝転がってクッキーをつまみながらお尻をポリポリ掻くようなことをしなければいいのだ。女性らしさを忘れず、いつもどおりの自分で居れば、夫婦円満まちがいなしのはずだ。

 そんなことを考えつつ、舞踏会を終えた夜、フランセットは寝室のソファで地理書に目を通していた。帰ってすぐに湯を使ったので、フランセットはナイトドレス姿である。

 やがて湯上りのメルヴィンが戻ってきた。眠そうな目をしながら、生乾きの髪をタオルで拭っている。こういう無防備な姿だと、ガウンの合わせからのぞく鎖骨やら胸板やらについ目がいってしまう。
 フランセットはそれを振り切って、メルヴィンを呼び隣に腰を下ろしてもらった。ソファの上で両膝立ちになり、彼の髪をやわらかいタオルで拭っていく。

「ありがとうフランセット」

「いいえ。ところで殿下、こういう時は魔法を使えばあっというまに乾くんじゃないですか?」

「そういえばそうだね。普通にするのがクセになってるからなぁ」

「メルヴィン殿下もそうでうすけれど、弟殿下方も、日常的に魔法を使いませんよね。多用すれば便利だと思うんです」

「あんまり使いたくないんだ」

「それは、回復魔法が使えることを公にしない理由と同じですか?」

 メルヴィンは、ウィールライト王国で唯一の、治癒魔法の使い手だ。しかし、これは王家の極秘事項となっている、その理由をメルヴィンは、「すべての人を救えるわけではないから」と説明した。
 重傷者や重病者は助けられない。それでも人々は、メルヴィンに奇跡の力があると知るや、ボロボロの体を引きずってでも、王太子宮に押しよせるだろう。

 自分が執るのは政治と軍事であって、宗教ではない。メルヴィンは、そういう言い方をした。

「うーん、そうだね。同じようなものかな。人の手で国を治めているという印象をつけたいのは確かだよ。魔法が使える人口の方が圧倒的に少ない中で魔力はそれだけで強大な権威になる。圧倒的な力を見せすぎると、官も民も委縮してしまって、のびのびと活動できなくなるでしょう?」

「ああ、そうかもしれませんね。ウィールライトの強みは、すべて国民が自由闊達に生きているところにある気がします」

「うん」

 メルヴィンは嬉しそうに笑った。

「活気ある国づくりが大事だからね、僕らはあまり魔法を使わないようにしてるんだよ。――ほら、それに」

 フランセットは、彼のこめかみあたりの水滴を拭っていたのだが、その手をふいに取られた。

「魔法を使わなければ、こうしてあなたに構ってもらえるでしょう?」

「……?!」

 メルヴィンは、甘ったるい凶悪スマイルでフランセットを見つめてくる。それからゆっくりと唇を重ねられたから、フランセットはなにも考えられなくなってしまう。

(殿下を癒せるような、可愛げのある会話を繰り広げるなんて、無理だわ)

 キスをされながら優しく抱き寄せられ、ナイトドレスの上から体を撫でられながら、フランセットはゆっくりと、ソファの上に沈められていった。

 可愛げを、だとか、メルヴィンに癒しを、だとか、そういうことが霧散していく。
 フランセットは、なんでもいいからメルヴィン殿下を支えられるようなパートナーになろうと、もう何度も思ったことを、また思った。

 翌日のことである。
 フランセットは、自身が主催する夕食会の招待客を選定するために、主だった貴族のリストとにらめっこをしていた。

 新緑のまぶしいこの季節は、社交シーズン真っ盛りである。都のあちこちで、毎日お茶会やら夜会やらが開かれており、フランセットもすでに一度、貴族の婦人を招待して昼食会を主宰していた。そして今回は、紳士淑女を集めての夕食会を開く予定である。

「うーん、困ったわね」

 フランセット専用の書斎で、リストを前にフランセットは眉を寄せていた。

「仲の悪いこの二人のご令息を、招待するか否か。どうしようかしら」

 二つの名前を羽ペンでぐるぐる囲う。この二人は某男爵家と某子爵家の若き嫡男で、すこぶる仲が悪いのだ。

 同じ年の、同じ日の、同じ時間に生まれ、さらに領地は隣どうし、両親からつねに比べられて育てられ、互いに強烈なライバル意識を持っている二人である。つい先日も、サロンでばったり会って、あっというまに殴り合いのけんかになったという話を小耳にはさんでいる。

(二つの家は由緒ある名門だから、味方に引き入れておけばメルヴィン殿下に有利に働くことは間違いないのよね)

 彼らの父親は貴族議会の有力者である。よってその息子である彼らも、将来やってくるメルヴィンの治世下で、力になってくれるはずの存在だ。

(できれば自分が主催する夕食会に、厄介ごとを持ち込みたくないのだけど)

 フランセットはメルヴィンのことを考えて、二人に招待状を送ることにした。この夕食会にはもちろんメルヴィンも出席する。いくら仲の悪く、血気盛んな子息たちでも、王太子の前でケンカを始めるようなことはしないだろう。

 数日後、二人からは出席するという旨の返事がかえってきた。そして、夕食会当日がやってくる。王太子宮の、広い正餐室で開かれた夕食会は、約二十人の若い貴族らが集まった。

 フランセットは自由な雰囲気を重視し、明るいテーブルセットを手配した。正餐室は、一方の壁がすべて窓になっており、そこから中庭に出ることのできる、開放的な造りになっている。まもなく夜の帳が降りて、美しい星空が現れるだろう。

 最初の挨拶も、堅苦しくならないよう軽いジョークを加えてみなの笑いを誘うようにし、朗らかに夕食会をスタートさせた。

 その甲斐あって、招待客たちは緊張せず、リラックスした状態で食事を楽しんでいるようだった。長細いテーブルを二つ配して、例の仲の悪い二人の貴族を別々のテーブルにつけたことも、功を奏したのだと思う。

 フランセットはメルヴィンの隣に座り、朗らかな話術を駆使して貴族たちの話を引き出し、場を和やかに盛り上げた。そうして会が終盤に差しかかり、デザートが運ばれてくる段になって、王太子宮の家令がやってきてそっとメルヴィンに耳打ちをした。

「分かった、ありがとう。フランセット、例の剣士寮の関係で少し席を外してもいいかな」

 フランセットはうなずいた。詳細を教えてもらえないあの一件は、まだ解決していないようだ。

 メルヴィンは招待客らに退席する非礼を詫びつつ、正餐室をあとにする。デザートが配り終えられ、皆が思い思いにそれを食べ始めた。ぷるぷるのブラックベリーフルールや、見るからに甘そうなバノフィーパイに舌つづみを打っている。外はすっかり暗くなり、紺碧の空には、細い三日月が掛かっていた。

 フランセットもフォークを手にそれらを楽しんでいた、その時である。
 正餐室内の隅から、なにやら不穏な空気がぴりぴりと漂ってきた。嫌な予感がしてそちらに目を向けると、なんと、わざわざ引き離しておいたはずの二人の令息が向かい合って壁際に立ち、互いを睨み合いながらぼそぼそと罵り合っているのである。

 彼らに近い位置に座っている貴族たちは、気まずそうに目をそらしながら無言でデザートを食べている。まずいと思ったフランセットは、速やかに二人のところへ駆けつけた。

「おまえ、さっき俺に足を引っかけて転ばそうとしたろ」

「おまえこそ、さっき俺の方を見てニヤニヤ笑っただろ」

「寄宿学校時代、おまえが俺に学業で一度も勝てなかったことを思いだして愉快な気分になっていただけさ」

「なんだと。フェンシングとテニスでは一度も俺に勝てたことがないくせに」

 なんだか子供のケンカレベルだが、赤ちゃんの頃からの付き合いの二人だとこんなものなのかもしれない。そういえば、彼らは二十二歳だからフランセットより三つ年下だ。
 フランセットは二人の間に入ってなだめ始めた。

「せっかくの夕食会なのですから、席に座って楽しみましょう?」

 穏やかに微笑みつつそう提案してみたが、二人のイライラはおさまらないようである。