15 王太子様はお怒りのようです

「じ、じゃあ殿下のことも敬称略で呼ばせて頂きます!」

「ついでみたいで面白くないな。僕は二番目?」

「それは誤解です。メルヴィン様が一番です」

「どうだか」

「ええと、それなら、旦那さま、とか?」

「……」

 メルヴィンはしばし沈黙した。
 それから、近い距離にあったくちびるどうしが軽く重なる。

「っ、ちょっと、待って!」

「悪くないな」

「だったら離してください旦那さま……、っんん!」

「――ねえ、フランセット。僕があなたにメロメロだって知ってるから、そういうこと言ってすぐに許してもらおうと思ってるんでしょ?」

 ぺろりと舐められた後、下くちびるを甘く噛まれた。びくっと腰が跳ねて、メルヴィンの胸を押して距離を取ろうとするけれど、逆に背面に追いつめられてしまう。
 メルヴィンのくちびるがこめかみをついばんで、フランセットは慌てた。

「だめです殿下、こんなところで!」

「この前言ったじゃない。僕はあなたに腹が立つと、欲情するんだよ」

「だ、だから、ここでそういういやらしいことを言わないで――、っん」

 再びくちびるを塞がれた。さっきより深い。彼の舌が皮膚の上を這って、背筋がぞくぞくした。

(でもだめ、こんなところで。だって――)

 頭の中があまりの羞恥に熱くなって、気づいたらメルヴィンの唇をガリッと噛んでいた。口の中に血の味が滲んで、我に返った時には、深い口づけから解放されている。
 メルヴィンは自身のくちびるを手の甲で拭いながら、黒い瞳を笑みの形にした。

「耳まで真っ赤にして。毛を逆立てた猫みたいだ」

「殿下が悪いんですよ……!」

 メルヴィンを噛んでしまったことへの混乱から、フランセットの目に涙が滲んできた。

「こんなところで無理やり。馬車の中には――目の前には、クリストフがいるのにー!」

 フランセットは恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆った。向かいのソファには、幼なじみのクリストフが、同じく顔を真っ赤にして固まっていたからである。

 彼は、寮での騒動の時、とてもフランセットのことを心配してくれていた。「大丈夫よ」と伝えてもまだ心配している様子だったので、今度また改めて会おうと言いかけた時、メルヴィンが「よかったら、王太子宮で話すといい」と提案して、馬車の同乗を勧めたのである。

 小さいころから知っている友人に、夫にのし掛かられている場面を見られる。これほどの羞恥プレイがあるだろうか。穴があったら入りたい。その上からぶ厚いフタをしてほしい。

「クリストフ? ああ」

 メルヴィンは意地悪く笑った。

「気にしないで、フランセット。僕は今、彼よりあなたのことを構いたい」

「気にする! します! だめ殿下、やめて――、っ」

 両手で顔をつかまれて、強引に口づけられる。貪るように深くされて、フランセットは震える両手でメルヴィンのスーツをつかんだ。熱い吐息に、メルヴィンの情欲が絡みついていくようだ。

 悔しいことに――非常に認めがたいことに、メルヴィンのキスは気持ちいい。絶対に流されてはいけない所で、流されそうになってしまう。
 でもそれだけは駄目だ。なにしろ、とんでもなく、恥ずかしい。

「や、ぁ――」

 フランセットが、瞳を潤ませながら弱々しく抵抗した時だった。

「王太子殿下! 姫君に無体なマネは――」

 クリストフが、金縛りを振りほどくようにして、腰を上げ掛ける。しかし諫める言葉は、ドカッ! と座面の角に蹴り込まれたメルヴィンの足によって止められた。

 メルヴィンの長い足は、クリストフ自身を蹴りつけたわけではない。が、彼の両足の間の座面にぐっと押し付けられている。クリストフは身動きが取れないようで、中腰のまま顔色を失った。

「姫(・)君(・)?」

 メルヴィンが笑う。

「フランセットは王太子妃だ。呼び方を改めろ」

「は――、申し訳、ございません」

 クリストフは気圧された様子だったが、すぐに自分をとり戻したように、メルヴィンを見据えた。彼がソファに腰を戻すと、メルヴィンも蹴り出した足を下げる。
 異常なまでの緊張感が張りつめる箱内で、フランセットは嫌な汗をかいていた。

(しまった……メルヴィン殿下はものすごく怒ってるわ)

 こんなに不機嫌なメルヴィンは久しぶりだ。
 こんな空気になるのなら、クリストフの同乗を止めればよかった。

「王太子殿下。僭越ながら、申し上げたいことがございます。馬車内ゆえ、跪拝できかねる由、お許しいただければ幸甚です」

 なんとか穏便に、クリストフを馬車から下ろしてあげたい。
 フランセットはそう思っているのに、クリストフは自ら火事場に手を突っこんできた。
 メルヴィンは、フランセットの肩を抱き寄せたまま、彼を見る。

「僕もきみには言いたいことがないわけじゃないんだけどね。いいよ、聞こう」

「お二人のお話によると、今回のことは妃殿下が秘密裏に王宮を抜け出し、護衛と……失礼、私は当初、アレン殿下を護衛と勘違いしておりまして――とにかくアレン殿下とお二人で市井を見学なされたということですね。そこだけお聞きすると、妃殿下が無鉄砲をされたと解釈できますが、私は妃殿下のことを昔から知っております。妃殿下は、理由なくそのような無茶をするお方ではない」

 メルヴィンは片目を眇めて、先を促した。一方フランセットは立つ瀬がない。

(市井に降りた理由は、可愛げを研究するためだもの)

 今思えば、なぜそのような馬鹿らしいことを考えたのか自分でも謎である。クリストフの言うとおり、自分はそんな軽々しい理由で危険を冒すような真似はしない性格だったはずだ。しかも、義弟まで巻き込んで――。

「だから、妃殿下は重大な理由を抱えていらっしゃる可能性があります。私はそれが、妃殿下を気鬱にさせるようなものでないだろうかと気がかりでなりません。畏れながら王太子殿下は、その理由をご存知でしょうか」

「さあ」

 メルヴィンは不機嫌にこたえる。クリストフは表情を鋭くした。

「成程。王太子殿下は、妃殿下と婚姻を結ばれてからまだ半年と経っていらっしゃらない。だからあまり妃殿下のことを理解されていないというわけですね」

「クリストフ!」

 あまりの言いざまに、フランセットは制止の声を上げた。メルヴィンの顔は、怖くて見られない。ただ、ものすごい圧の不穏は伝わってくるから、背筋が寒くなる。

 しかしクリストフは、豪胆にも挑発的な目線でメルヴィンを射抜いている。彼の澄んだ若草色の瞳は今、批難の色に染まっていた。

 さらに、クリストフの方がメルヴィンよりも若干体格がいいため、一見すると競り勝っているように取れる。メルヴィンは七つ年上でもあるため、もしかしたらクリストフからは、まだまだ未熟な若造に見えるのかもしれない。

「再度申し上げますが、妃殿下は無謀を好まない賢いお方です。それを押してでも無茶を通されたということは、大きな理由があるはずです。私から申し上げたいことは、どうか王太子殿下には、妃殿下の御心をご理解くださいますよう」

 クリストフは目を伏せ、頭を下げた。
 メルヴィンがなにも言わないので、フランセットは沈黙に耐えかねて口を開く。

「ごめんなさいクリストフ。違うの。わたしは本当にくだらない理由で外に出たのよ。だからメルヴィン殿下にはなんの落ち度もないし、あなたがそんな風に心配する必要はないの」

「いえ、――フランセット様」

 クリストフが顔を上げ、若草色の瞳を優しくゆるませた。

「あなたはくだらない理由で危険を冒す方ではありません。フランセット様がくだらないとお感じになっているのだとしても、その奥にはちゃんとした理由が隠れているはずです。決してくだらなくない、大切な動機が隠れている」

 フランセットは胸をつかれた。

(隠れている動機?)

「王太子殿下は、妃殿下をロジェから強引に攫っていかれた。妃殿下は拒絶していたのにも関わらず。そこまでして手にした妃を、王太子殿下はただ愛でていらっしゃるだけで、真に理解を示されていない。私のような、昔からロジェ王家に仕えている者からすると、とてももどかしいのです。まるで王太子殿下は、お気に入りの人形を侍らせているだけのように感じとってしまうのです」

「クリストフ!」

 今度こそ、フランセットは彼を止めようとして腰を浮かしかけた。しかしメルヴィンが片腕でそれを制してくる。

「確かに僕とフランセットの間には、言葉が足りないこともある。それは認めるよ」

「で、殿下。クリストフは昔からわたしの兄代わりのようなもので、心配性で過保護なところがあるのです。だからここはわたしに免じて、どうか気を静めてください」

 メルヴィンはフランセットを一瞥したが、またすぐにクリストフへ視線を流した。漆黒の双眸は硬く冷えている。完全にブチ切れている様子だ。

(こ、怖い)

 これはもう、フランセットが怒りを鎮めようとすればするほどダメになっていくパターンである。もしかしたらフランセットがクリストフを庇っているように、メルヴィンは聞こえているかもしれない。

(そうじゃないんだけど……!)

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