16 最愛のお嫁さん

「それはきみの言うとおり、僕とフランセットが結婚してまだ間もないということも理由かもしれない。もちろんそれを言い訳にして、妻の気持ちを汲み取らないような夫にはなりたくないと思っているよ」

「そのお言葉をお聞きして、安心いたしました」

「ところで、クリストフ。きみはヴァリエ子爵家の嫡男だよね。ロジェ王家の近衛隊を生業としている家柄だ。そんな大物が我が国の剣士団に所属したという話は、即日僕の耳にも届いていたよ。ヴァリエ家の没落はご当主の失策と聞くが、それでも妻に近しい一家が苦労を背負うのは見ていて忍びない。剣士団での働きは実直そのもの、腕も立つと報告を受けていたため、時機を見て王国軍に迎えようと思っていた。その矢先が、この事件だ。今回きみは大きなミスを犯した。その自覚は?」

 クリストフは表情を引き締めた。

「フランセット様を、交渉役として寮内へ送り出すのではなかったと、後悔と反省を――」

「違う」

 メルヴィンは切って捨てる。
 クリストフは言葉を失ったようだ。メルヴィンは御者側の壁をノックして、馬車を止めさせた。

「つまりきみはその程度だということだ。さあ、ここで降りてくれ。きみからの要望は受け入れた。ヴァリエ家に敬意を表し、同じことできみを煩わせることのないよう全力でことにあたることを約束しよう」

「その程度とは、聞き捨てなりません」

 クリストフは静かな怒りをこめて言った。御者によって、箱馬車の扉が開かれる。

「どうか訂正を! 私には確かに至らぬところもありますが、ロジェ王家に仕えるヴァリエ家嫡子としての誇りをもって職務に当たっております!」

 クリストフの怒りはもっともだと、フランセットはハラハラしながら思った。いくら王太子といえど、武門の矜持をいたずらに傷つけてはいけない。

 メルヴィンへの批難が喉もとまで出かけたが、フランセットはぐっとこらえた。火に油を注ぎかねない。それに正直なところ、メルヴィンの言う「クリストフのミス」が、フランセットにもよく分からないのだ。

(わたしが一方的に突っ走ってしまった結果なのだし)

 フランセットはどうすればいいのか困り果てて、メルヴィンを見上げた。目が合って、また逸らされるかと思いきや、メルヴィンは少しだけ自嘲するように口もとに笑みを乗せる。

「フランセット。きみの元近衛がこう言っていることだし、今度ふたりで出かけようか」

「はっ?」

「だって僕たちはまだお互いの心を分かりきっていないということだから、もっと親密にならないと」

「えっ、いえ、あの、今はそういう雰囲気では」

「クリストフ」

 ソファから腰を上げようとしないクリストフに、メルヴィンは声を掛ける。
 自ら腕を伸ばして、馬車の扉をさらに押し開けて、クリストフを促した。クリストフは悔しげに歯噛みしながらも、立ち上がって馬車を降りる。

「ウィールライト王太子殿下の権力を前にすれば、小国の子爵家の力など石粒のようなもの。それでも私は、貴方をフランセット様の夫だと認めることはできません。フランセット様が無茶を通される理由は、それは貴方が」

「もうやめて、クリストフ」

 フランセットが訴えると、彼は口をつぐんだ。それ以上なにも言うことなく、馬車を降りる。
 振りかえり礼を取る彼を、フランセットは気がかりな思いで見下ろした。

(近いうちに手紙を書いて、もう一度会って話をしないと)

 手紙を出すくらいなら、メルヴィンを不愉快にさせることはないだろう。フランセットがちらりと目線を上げてメルヴィンを覗うと、彼も偶然こちらを見下ろしていた。目が合って、メルヴィンはわずかに眉をしかめる。

「メルヴィン殿下?」

「つまりだ、クリストフ――」

 メルヴィンはすぐにまたクリストフを見下ろした。そうしながら、フランセットを馬車のソファに片手で押し込んでくる。視界からクリストフが消えて、フランセットは不安になった。
 メルヴィンは扉の枠に手をついた。彼の横顔がクリストフを見下ろし、笑う。

「きみは重要な局面で私情が入りすぎる。僕と同じ種類の人間のようだね」

「は……?」

 クリストフの、面食らったたような声が聞こえてきた。

「次は僕の方から連絡するよ。今度一緒に食事でもしよう」

「え? 食事?」

「そうじゃないと、僕の奥さんがきみにこっそり連絡を入れて、きみをフォローするために会う段取りをつけてしまいそうだからね」

 フランセットはぎょっとする。メルヴィンがこちらを振り返って、笑みを見せた。

「ねえ、そうでしょうフランセット?」

 固まりきったフランセットは、なにも返すことができなかった。

 王太子宮に着くころ、時計の針は昼の三時を過ぎていた。使用人が「お茶のご用意をいたしますか」と聞いてくれたが、フランセットが答えるより先に、メルヴィンが断ってしまった。
 玄関ホールで、フランセットはきまずい思いでメルヴィンに向き直った。

「一度着替えてから、殿下のお部屋へいってもいいですか」

「よくない」

 端的に答えて、メルヴィンは一階にある手近な客間にフランセットを引きこんだ。ご丁寧に鍵まで掛けて、両腕を彼女の腰に絡めて抱き寄せる。メルヴィンのスーツがぴったりと自分のワンピースに引っ付くのを見て、フランセットは慌てた。

「で、殿下、わたし朝から城下に出て、汚れていますから……!」

「ふうん、朝から? 朝からずっとアレンといたの?」

「はあ、まあ、そうなりますね」

「いや、僕も自分の弟にやきもちをやくような、器の小さい男ではないけれど」

「本当にごめんなさい。これからはもうしません。アレン殿下のことも、許してあげてください」

 フランセットが訴えると、メルヴィンは面白くなさそうに目を眇めた。

「なんで僕に言わなかったの?」

「秘密にしないと、外へ出してもらえないと思ったからです」

「なんで僕に、一番先に言ってくれなかったの?」

 メルヴィンは、こつんとフランセットのひたいに自身のそれをくっつけた。焦がれるように熱っぽく、彼が囁く。

「言ってほしかった。あなたのしたいことは、なんだって一番に僕が叶えたかったんだ」

「えっ、だ、だって、そんなこと、考えもつかなくて」

 フランセットの体温が上がっていく。言葉に詰まりまくっていると、メルヴィンが悔しそうな声を出した。

「まさかアレンに先を越されるなんて。僕に剣士団寮の面倒ごとを押し付けて、自分はフランセットと楽しく外で遊んでるなんて、さすがの僕も怒り心頭だよ」

「殿下、今こそ器の大きさを弟に見せる時です!」

 フランセットはなんとかアレンを助けようとしたが、メルヴィンは胡乱な目つきである。

「ねえ、城下でカップルとか若夫婦のフリして遊んでいたんじゃないよね?」

「えっ! そ、そん、そんなこと、あ、あるわけないじゃないですか!」

「怪しいなぁ」

「え、えーと、ほら、クリストフも言っていたじゃないですか。アレンを護衛だと勘違いしてたって。カップルの雰囲気と全然違ったからですよ」

「ああ、クリストフね」

 メルヴィンは顔をしかめた。

「いやだな。今日はあなたのまわりに男の名前が多すぎる日だ」

「たまたまの偶然です。気にしたら負けです」

「それにしても、僕のお嫁さんはあいもかわらず勇ましいね」

 メルヴィンの表情がふとゆるんだので、フランセットはほっとする。

「それは褒め言葉として受けとらせていただきますね」

「いくら正しい判断とはいえ、頭に血の昇っている男の群れに単身乗り込むだなんて。僕の心臓はいくつあっても足りないよ」

「天下の王太子様は鋼の心臓をお持ちなので、すこしのことでは壊れたりしませんよ」

「だといいけれど」

 メルヴィンのてのひらがフランセットの髪をなでる。その感触が、ただ優しい。

「もう怒っていないですか、メルヴィンさま」

「うん。ごめんね、やきもちをやいて」

 こつんとメルヴィンがひたいをあわせてくる。フランセットはつい笑みをこぼした。

「メルヴィンさまはかわいいですね」

「そうかな。みっともないと思うんだけど」

「そんなことないですよ。わたしとは大ちがいです」

 かわいげのある女性になろうと思っていたのだが、夫であるメルヴィンを永遠に越えられそうにない。

「こんなに身近に、勉強になる対象があったなんて。わたしがうかつでした。城下に出る必要なんて、最初からなかったんだわ」

「よくわからないけれど、ひとつだけ訂正させて」

 甘くくちびるを重ねてから、メルヴィンはささやく。フランセットを抱きよせていた手が、ドレスに包まれた乳房を覆った。

「メルヴィンさま――」

「あなたはかわいいよ。僕の最愛の奥さんだ」

 くちびるがうなじに移り、熱く濡れた舌で舐められたあとに吸いつかれる。ぞくりとした官能が下腹まで届き、フランセットは息をつめた。