翌朝、フランセットはすがすがしい気持ちで目を覚ました。
昨日、あれだけいろいろなことがあったのに疲労がまったく残っていない。さすがメルヴィンの治癒魔法である。
ベッドの上にはメルヴィンの姿はなかった。身を起こし、大きく伸びをして、フランセットはガウンを羽織りバルコニーへ出る。
見上げる空は快晴だ。
「昨日は本当にたいへんな一日だったけれど……」
つぶやいて、それから自然と笑みがこぼれた。
「でも、とってもいい一日だったわ」
剣士団の今後や、クリストフのことなど、気になることはある。けれど、気分はすっきりしていた。
その理由はやはり、メルヴィンのあの言葉である。
王太子妃として、夫を支えることができているのであれば、これほど幸せなことはない。
メルヴィンは、フランセットが困ったときはいつも助けてくれる。それに比べて自分はなにもできていないことが負い目になっていた。
クリストフの言うとおりだ。かわいげが欲しいと思って、アレンを巻き込んで無謀な行動にでたのは、きっとこの負い目に苦しむ自分がいたからだ。
このことに気づけたのは大きな収穫である。
(わたしにとっては、かわいげのある妻になるよりも、メルヴィンさまを支えられることのほうがたいせつだわ)
結婚したときから、自分の思いは変わっていない。
いまはそれが誇らしかった。
ドレスに着替え終わったらメルヴィンがやってきたので、ふたりで一緒に朝食をとった。
今日は、外出の予定が入っていなかったので、先日行われた会議の議事録を読み返そうかと思っていた。書斎へ向かおうと廊下を歩いていたら、メルヴィンがにこにこしながら声をかけてきた。
「ねえフランセット。今日はとくになんの予定も入っていなかったよね?」
「ええ、そうです。なので、お申しつけくださればなんでもやりますよ」
「じゃあ、僕といっしょにお忍びで城下デートしようよ」
「えっ」
予想外の提案にフランセットは固まった。一方で、メルヴィンはたいそう機嫌がよさそうである。
「なんでもやりますって、いまさっき言ったよね?」
「い、言いましたが。でもですね」
「アレンとだけデートするなんてずるいよ。僕もフランセットとふたりででかけたい」
「昨日のあれは自分でも軽率だったと思っていて」
「城下に出たことを後悔しているの?」
「ぜんぜんしていません。むしろ、有益だったと実感しています」
フランセットは生真面目に答えてから、その返答のまずさに気づいた。メルヴィンは顔を輝かせる。
「ならいいよね。いっしょに城下に行こう」
「ま、待ってください。とてつもなく大きな問題があります。殿下は、あまりにも目立ちすぎます!」
こちらの手をとって歩き始めたメルヴィンを、フランセットはあわててとめた。メルヴィンはふしぎそうにふり返る。
「目立つ?」
「そうです。アレンは、びっくりするくらい存在感が薄い青年なので、王子様オーラがゼロなのです。だから市井にまじってもなんの問題も起こりませんでした。けれどメルヴィンさま、あなたはだめです。そのキラキラした王太子感は、どうやったって隠せません」
「ああ、アレンは諜報活動が得意だから気配をうまいこと消せる子なんだよ。優秀でしょう? ほかにも、いろんな武器を使いこなせるし、魔法だって――」
「はいはい、わかりました。とにかくですね」
兄ばかっぷりを披露するメルヴィンをさえぎって、フランセットは続ける。
「殿下のお顔を記憶していない都民でも、ひとめ見ただけで殿下がただ者ではないと気づきますよ。だから、おとなしく宮のなかにいてください」
「大丈夫だよ。僕も何度か街に出た経験があるからね」
「ええっ?」
「民のくらしをこの目で見てみたいという思いはつねに持っているよ。視察や慰問というかたちだと、下準備ずみの部分しか見えないでしょう?」
それは一理ある。メルヴィンは続けた。
「けれど、男ひとりで昼間から街をぶらついていると、不審に見られることもあるんだ。やたらと人にじろじろ見られて困ったこともあるんだよね」
「ええ、そうでしょうとも」
「だからフランセットがいっしょに来てくれると、夫婦者が買い物してると思われるだけだからそんなに目立たないと思うんだ」
「だからわたしもいっしょに来てほしいと?」
「うん。お願いだよ、フランセット」
フランセットは、メルヴィンからの助けを求める声にからきし弱い。
(確かに、アレンといっしょに街へ行ったときは、夫婦や恋人だと思われて、市井に自然と溶け込めていたわ)
メルヴィンの力になりたいと昨日思ったばかりだ。フランセットは腹を決めた。
「わかりました。いっしょに行きます」
「ありがとう、フランセット!」
メルヴィンはうれしそうに笑った。それだけでフランセットは報われたような気分になる。
しかし、最後にメルヴィンは難題を振ってきた。
「街では、僕のことは呼び捨てで呼んでね。くれぐれも様や殿下をつけたらだめだよ。一発でバレてしまうからね。敬語も禁止にしようか。あなたのほうが年上なんだし、ふつうの夫婦に堅苦しい言葉遣いは似合わないからね」
王太子を呼び捨てにして、その上敬語を使ってはいけない、と。
フランセットは一拍後に、頭を抱えた。
服装や髪型は、前回とおなじものにした。簡素なワンピースに麦わら帽子、そしてプラチナブロンドの髪はおさげにする。
「前も思ったけど、その格好もとってもかわいいよ、フランセット」
「ありがとうございま……、で、殿下?!」
待ち合わせ場所の裏門に現れたメルヴィンを見て、フランセットは驚愕した。
メルヴィンの特徴的な漆黒の髪が、きらきらした金髪に変わっていたからである。
「ど、どうされたのですか、その髪!」
「ああ、これ? 街に出るときはいつも金色に染めてるんだ。金髪や赤毛がこの街には多いからね。それに、めがねもかけるんだよ」
「な、なるほど、めがねですか」
メルヴィンは、手に持っていためがねをかけた。美しい金髪と、印象的な黒い瞳を持つ青年に、理知的な魅力がつけ加えられる。
シンプルな白いシャツとすり切れたズボン、履き古したふうのブーツという、とっても地味な服装だというのに、非常にきらきらした青年ができあがった。
「どうかな、これで目立たなくなった?」
「まさに、変装してお忍びで俗世に遊びにきている王子様という感じです」
「そう? けっこううまく変身できてるような気がするんだけどな。役人採用試験に三年連続で落ちている、貧乏な苦学生っていう設定なんだよ。――僕のことより、フランセット。あなたについての感想を言わせて」
メルヴィンは、めがねの奥でほほ笑みながらフランセットの頬にふれた。
「いつもの、シンプルで綺麗なドレス姿も見とれるほどすてきだけど、今日のあなたもとてもかわいいよ。このみつあみ、自分でしたの?」
「い、いえ、侍女に」
距離が突然近くなって、フランセットはどきどきした。金髪めがねのメルヴィンは、とんでもなく強力だ。
「そうなんだ。その侍女には褒美をとらせようかな」
みつあみを手にとって、優雅なしぐさで口づける。どう考えても貧乏な苦学生には見えない。
フランセットは、耳まで真っ赤にしながら、メルヴィンに注意した。
「だ、だめです殿下。言葉と行動にはくれぐれもお気をつけください。一発でバレます」
「うーん、むずかしいなぁ」
メルヴィンは「気をつけるね」と真剣な顔で言ったが、フランセットは、城下に降りて三秒でバレることを確信した。