21 夫として、王太子として、いろいろ考えているのです

 クリストフは目を見開いてから、大きく頭を下げた。

「ありがとうございます、フランセットさま!」

「ふたつ向こうのベンチでいいかしら」

「充分です」

 フランセットはメルヴィンに向き直った。

「ほんのすこし席をはずしますね」

「うん、わかった」

 不機嫌な顔くらいされるかと思っていたのだが、意外にもメルヴィンは苦笑めいた表情を浮かべただけだった。

「行っておいで。ここで待ってるから」

「……怒らないのですか?」

「怒らないよ。おもしろくはないけれど、ここでクリストフを退けるなら、それはもうフランセットじゃないからね。あなたをお嫁さんにするなら、そこはあきらめないといけないことは、ちゃんとわかってるつもりだよ」

「メルヴィン様……」

 メルヴィンは、いたずらっぽく笑いながらフランセットの頬をつついた。

「ほら、敬語に戻ってるよ」

「すみませ……ではなくて、ごめんね」

 フランセットはベンチから立ち上がった。

「ありがとう、メルヴィン」

 胸いっぱいに広がる、うれしさと感謝の気持ちをこめてフランセットは礼を言い、ふたつ向こうのベンチで待つクリストフのもとへ向かった。

 我ながら、物わかりがよすぎる。
 メルヴィンは、遠ざかっていく妻のうしろ姿を見送りながら、自嘲の笑みをこぼした。

(かといって、ここでフランセットの行動を抑え込むことはしたくないしなぁ)

 メルヴィンは、クリストフの存在を歓迎しているわけではない。正直なところを言えば、非常にじゃまな存在である。いとしい妻と、ふたりきりでなくともと話などさせたくないが、――しかし。

 そこまで考えたところで、慣れた気配が背後から近づいてくることに気づいた。メルヴィンがふり返ると、予測どおり弟のアレンの姿がある。

 彼は、くったくなく笑いながらこちらに来て、ベンチの背もたれに手をついた。

「どうしたのメルヴィン、俺に気づくのずいぶん遅かったじゃない?」

「ちょっと考えごとをしていてね。アレンは散歩?」

「という名の巡回。剣士団寮は、あの一件からずいぶんとおとなしくなったよ。メルヴィンはデート? にしては、ほかの男に奥さんをとられているみたいだけど?」

 あちらのベンチにアレンは視線を向けている。メルヴィンは苦笑した。

「不甲斐ない夫だと、現在猛反省中だよ」

「状況がよくわからないけど、あれはだめでしょ。メルヴィンはフランセットに甘すぎるんじゃない?」

「そこを直せそうにないところが、目下最大の悩みかな」

 結局のところ、フランセットらしく生きているフランセットが好きだから、彼女の意志を阻む者はたとえ自分自身でもゆるせないのだ。
 彼女はきっと、没落したのち出国せざるをえなくなったもと近衛を、心を痛めるほどに心配しているのだろう。

(彼女の意志を阻んだということに関しては、僕は前科者でもあるわけだし)

 叔父の画策した事件と、その後の対応については、反省すべき点がメルヴィンに多々あるのだ。

 ふたつ向こうのベンチでは、フランセットとクリストフが並んで座って会話を交わしている。この位置からだと、クリストフのがっしりした背中にじゃまされてフランセットの表情が見えない。

「あの剣士、クリストフだっけ? 俺、いま剣士団を統括してるから、あいつをどっか遠くに転属させようか?」

「さすがにそれは露骨すぎ」

 メルヴィンは、ため息をつきつつ背もたれに身をあずけた。なんだか頭が重くなってきたので、めがねをとる。
 目のあたりに風がふれて涼しくなった。周囲から、散歩中の女性の発する黄色い声が複数聞こえるような気がしたが、まあ大事ないだろう。

 あきれたような声をアレンがもらした。

「メルヴィンさぁ。その変装、確かに最初に提案したのは俺だけどさ。何度も言ってるけど、別のに変えたほうがいいよ。目立ちすぎ」

「そう? 舞踏会に出たときよりも視線を感じるのがすくないから、変装は成功していると思うよ」

「社交場と街中ではちがうに決まってるでしょ。まあいいや。遠巻きに見られてるだけっぽいから、実害はなさそうだし」

「僕なんかより、変装中のフランセットのほうが凶器だから。あのかわいさは反則だよ」

「出たノロケ。はいはい、あんたの奥さんは世界でいちばんかわいいですよー。それにしてもメルヴィン、あの黒髪をよくぞここまできらっきらに染めたなぁ」

 アレンは、メルヴィンの髪をつんつんひっぱって遊んでいる。メルヴィンは何度目かのため息をつきつつ、向こうのベンチに視線をふたたび移した。

 麦わら帽子におさげ姿のかわいらしい妻を、ほかの男とふたりきりにさせているのは、ほかでもない自分である。

(僕は、もしかしたらがまんをしすぎる性格なんじゃないだろうか)

 この性格が仇になったらと思うとたまらない。

「なあ、メルヴィン。クリストフが一方的にしゃべってるみたいだけど、どんな話題で話し込んでるの?」

「おまえはどう思う?」

「愛の告白とか?」

 アレンは肩をすくめつつ言った。メルヴィンは眉をよせる。
 幼なじみだという彼が、幼なじみ以上の想いをフランセットに隠し持っていることくらい、ひとめ見ただけでだれでも察するだろう。 フランセットは人の感情に鈍感なわけではない。しかし、何年も前からメルヴィンが裏から手をまわして、彼女の恋愛を阻止してきたせいもあり、こちら方面はあまり得意ではないようだった。

(かつての主の、しかも人妻に、ストレートに愛を告げることはさすがにないとは思うけれど)

 なにかあったらすぐに俺を頼ってください、いつでも駆けつけてフランセットさまをお守りいたします。
 それくらいのことは、あの空気の読めない男ならば言ってのけそうだ。
 想像していたら、どうにもいらいらしてきた。

「いつまでしゃべっているんだ、まったく……」

 脚を組みながら――こうでもしないと、いまにも立ち上がりそうになってしまうからだ――、向こうのベンチにメルヴィンが視線を戻す。
 こちらが荒れてきたのを察したのか、アレンは様子をうかがうように提案してきた。

「俺、偶然通りかかったふりしてフランセットを引きとってこようか?」

「いや、いいよ」

 めがねをかけ直しつつ、メルヴィンはとりいそぎ笑みを浮かべた。

「おまえは散歩を再開しておいで。露天市のほうは僕がさっき見てきたから、そこは省いていいよ」

「了解」

 複雑な表情を残しつつも、アレンはうなずいた。

「やきもちやきすぎてハゲないようにね、メルヴィン」

「はいはい」

 こちらを気遣いながら立ち去っていく弟を見送る。アレンに会えて助かった。だいぶ気がまぎれたからだ。
 ちらりとあちらに視線を投げると、ふたりが立ち上がって、フランセットだけがこちらに戻ってきた。

(やっと話が終わったのか)

 メルヴィンはベンチから腰を上げる。ほっとしたので、頬がゆるんでしまった。

「話は終わったの、フランセット」

「ええ……」

 フランセットは、麦わら帽子で顔を隠すようにうつむいた。けれど、髪をみつあみにしているので、真っ赤になった両耳が見えてしまっている。

 赤面するようなことを言われたわけだ。
 予測はしていたが、実際に目の当たりにすると、感情をひどく揺さぶられる。クリストフに向かって「フランセットになにを言った」と問いただしたくなるが、そこは理性でぐっと抑えた。

「お話しさせていただく機会をくださり、どうもありがとうございました」

 クリストフはていねいに一礼する。メルヴィンは、彼に向けて笑みを浮かべることに成功した自分に驚いたほどだった。

「そろそろ宮に戻ろうか、フランセット」

「……そうね。そうしましょう」

 フランセットは、クリストフのことを一度もふり返ることなく歩き始めた。彼女らしくない行動だ。
 それについていきながら、メルヴィンは、クリストフの視線がずっとこちらを追っていることに気づいていた。

 こちらを追っているというのは語弊があるかもしれない。クリストフは、フランセットの背中だけに視線を注いでいた。

(あからさますぎるだろう)

 どう考えても――自分の嫉妬心をのぞいたとしても、これ以上彼をフランセットに近づけることは、フランセットのためにならないと、メルヴィンは警戒心を強くした。

(一国の妃に対して、すぎた執着をもつことは火種につながることもある)

 彼は、生まれ育った国をやむにやまれぬ事情で追われた。そして現在は、剣士という危険な職に身をやつしている。そんな境遇のなかで、偶然再会したフランセットは、ありし日の輝いていた思い出とともに、強烈に美化されているのだろう。

 ウィールライト王国において、剣士は決して卑しい職業ではない。けれど、それはクリストフ自身の価値観のありようによって変わってくる。

 場合によっては、個人的に彼と会って話をする機会を設けるべきかもしれない。不穏の芽は早くに摘んでおくに限る。もちろん、あくまで穏便にだ。

(そういう丸め込みは、僕の得意とするところでもあるし。とりいそぎ、情報収集から始めるかな)

 メルヴィンは、確かにクリストフのことを腹立たしいと思っているが、完全に排除したいと思っているわけではない。
 なぜなら彼は、フランセットの――。

「メルヴィンさま、ありがとうございました」

 フランセットから声をかけられて、メルヴィンは我に返った。