「エスターやアレンと、すっかり仲よくなったみたいだね」
花の咲き乱れる王太子級の庭園を、手をつないでゆっくり散歩しながらメルヴィンは言った。
「はい。お二人とも、超大国の王子殿下とは思えないほど気さくでいらっしゃるから、お話ししやすいです」
「フランセットも、王太子妃と思えないほど親しみやすいと思うよ」
「そうでしょうか。わたしは、ご婦人がたや使用人たちにどうやら怖がられているようなのですが」
「ふふ、そうなんだ」
メルヴィンは、笑いながらフランセットの髪に指先でふれる。花びらが髪にひっかかっていたらしい。
「それでも、あなたのことをすこしでも深く知った人からは、とても評判がいいよ。エスターとアレンは、だれにでも気さくに接するわけじゃない。あの子たちは、人に対して警戒心が強い傾向にあるからね。だから、僕も驚いているんだ」
「警戒心が強い……。王子というお立場にあるのだから、そういう気質は必要かもしれませんね」
「そういう人間ともすぐに仲よくなってしまうから、僕は気が気じゃないんだけどね。おとなしく、僕の腕のなかにずっといてくれればいいのに。そうしたら、いつどんなときでも最高にかわいがって大好きだよって伝え続けることができるのにな」
本音をぽろりとこぼすように言うメルヴィンを、フランセットは横目でうかがった。耳が赤くなってしまうのは不可抗力だ。
「またそういうことを言って。メルヴィン殿下は天性の女たらしですね」
「そう? 僕は、フランセット以外の恋愛経験がないから、どういうセリフが女たらしに聞こえるのかよくわからないんだけど――」
メルヴィンは言葉を区切って、ふいに立ちどまった。
「フランセットには、わかるんだ」
「えっ?」
フランセットは目を丸くした。メルヴィンの瞳が、なんだか悲しそうに見える。
「わかっているって、なにをですか?」
「フランセットは、これまで恋愛経験があったのかなって思って。僕以外に」
「そんなことあるわけないじゃないですか。そもそも、わたしへの求婚をかたっぱしからじゃましていたのはメルヴィンさまですよね」
「うん、それはそのとおりなんだけどさ。あなたのほうの心までは、遠く離れた地からは制御できなかったから」
メルヴィンはしょんぼりと肩を落とした。
「もしかしたら、片想いする男がいたのかなって思ったんだ。初恋の相手がいたのかなって」
「初恋なんて……あ、でも」
フランセットは言葉を途切らせた。それから、耳だけでなく頬まで熱くなってくる。それを見て、メルヴィンの表情がこわばった。
「初恋の相手がいたの?」
「い、いたというか……いた……?」
フランセットはうろたえて、赤くなる頬を両手で包んだ。
(やだ、わたし。いま気づいたわ)
これまで、メルヴィンの過去について探りをいれたりしたことはあるが、自分の恋愛歴について深く考えたことはなかった。
あらためて考えてみると、自分の初恋の相手はだれだったかは、明白である。
(生まれて初めてプロポーズされて……。それから毎日、きれいな花束を送られて、ときめかない女性はいないと思うわ)
女性というか、当時のフランセットはまだ十一歳の少女だったのだけれど。
(最初の数ヶ月は、どうせ続かないだろうと軽くあしらっていたわ。でも、何年もとぎれずに届き続けることに、心を打たれてしまって)
だから、フランセットの初恋の相手はメルヴィンなのである。
世間的に見れば、遅い時期の初恋なのかもしれない。
(でも、それをいまさらメルヴィンさまに打ち明けるのはとんでもなく恥ずかしいわ……!)
春に再会したときの自分を思い出す。フランセットは、これ以上ないほどメルヴィンを拒絶していた。
(メルヴィンさまが初恋の相手だったのに、自分でそれに気づかずに結婚するなんて絶対にむりと突っぱねていたなんて……。メルヴィンさまに申し訳なさすぎるわ)
そもそも、いまふり返ればたぶんそうなのだろうな、という淡い認識である。無自覚な初恋などというフレーズも恥ずかしいことこの上ない。
フランセットが、顔を赤くしたり青くしたりしてあわてていると、どんどんメルヴィンが悲しげな表情になっていく。悲しげというか、険しいというか。とにかくよい予兆ではないということに、フランセットはやっと気づいた。
「そうか。フランセットには、初恋の相手がいたのか……」
「ちがうのですメルヴィンさま。誤解しないでください」
「誤解? じゃあその誤解とやらをいますぐ解いてもらえないかな。いますぐ、三分、いや三秒以内に。でないと僕は、もうだめになってしまうよ」
「メ、メルヴィンさま。まだお若いのですから、そんなに急いでことを進めようとしなくとも。ええとですね、誤解を解くことはたやすいとは思うのですが、なにぶんこちらの心の準備というものがありまして」
「うん、そうなんだ。僕はまだ若いし、だからあなたとはじめて出会った当時は六歳だったから、あんまり幼すぎてあなたの恋愛対象になりえなかったことはわかってるよ。――で、名前は?」
「はい?」
メルヴィンは、悲しげながら険しい表情に、おだやかではない笑みをつけ足した。
「あなたの初恋の相手の名前は?」
「……」
メルヴィン殿下です。
喉まで出かかった答えを、フランセットは飲み下した。妙に怒りがこみあげてきたからだ。
(結婚したあと、あれほどいろんなことがあって、お互いの想いを強く確かめあったのに)
それなのに、いまさら初恋相手にやきもちをやく(しかもその相手は過去のメルヴィン自身だ)夫に、釈然としない気持ちが湧き上がってくる。
(わたしもかわいげがどうこうと言って、ここ数日右往左往していたわけだから、殿下のことをとやかく言える立場ではないけれど……!)
そのあたりは、複雑な女心ということで大目にみてもらいたい。
と思いつつ、やっぱり自分も小さな事でやきもきしていたのは事実なのである。そこでフランセットはあることにふと気がついた。
(でもこれが、恋というものなのよね)
初恋の相手と再会して、結婚して数ヶ月。
フランセットなりに考えつつ、悩みつつも、ふり返ればとにかくかっこ悪く突っ走っていたような気がする。
(それは、メルヴィンさまが好きだからであって)
好きだから。
だから、フランセットはなんとかかわいくなろうとしたし、メルヴィンは小さなことでやきもちをやくのだろう。
十代の若者の甘酸っぱい青春という感じがしていたたまれない気分もあるが、出会ってから十年以上経ち、結婚してなお、こういう感情にふり回されるというのは、あながち悪いことではないような気がする。
「フランセットが言いたくないならそれでもいいんだよ。僕自身で調べていく方法ならいくらでもあるからね……!」
「殿下ですよ」
ヒートアップし始めたメルヴィンを前に、フランセットはぽつりとつぶやいた。聞き取れなかったのか、意味をつかめなかったのか、メルヴィンは眉をひそめる。
「え?」
「わたしの初恋はメルヴィン殿下です」
「……」
ついに言ってしまった。夫相手に、いまさら、こんなにも恥ずかしいセリフを。
これに比べたら、エスターが教えてくれたセリフなどかわいいものだとフランセットは思った。
一方でメルヴィンは、ぼう然としたのちにみるみる赤面していった。めずらしい反応にフランセットは、恥ずかしさを忘れてメルヴィンをまじまじと観察してしまう。
「ご、ごめん。ちょっとびっくりして……」
「もしかして殿下、自分が初恋の相手かもしれないって思いもしなかったのですか?」
「だって、僕は当時六歳だったし、けれどあなたは十一歳の可憐な姫君で――」
だから僕は、と続けたところで、メルヴィンは赤くなった顔を片手で覆った。
「あー、だめだ。語るほど自分を追い込んでいく気がする……」
「なんですかそれ。殿下はずるいですよ」
「ええ?」
メルヴィンは、途方に暮れたような目をしてフランセットを見た。フランセットは、そういう顔に弱いのだ。
「だって、かわいすぎるんですもの」
フランセットが勢い込んでいうと、メルヴィンはあっけにとられたような表情になった。
これが、真のかわいげというものなのだろう。やはりこれを学ぶには、自分の夫を観察するにかぎる。
「かわいすぎるって……。まったく、もう」
メルヴィンは、顔をしかめながら両腕を伸ばした。フランセットを抱きよせて、髪に顔をうずめてくる。
この状態だと、メルヴィンの表情が見えない。
「殿下のかわいい反応が見えないのですけど」
「見なくていいよ、そんなもの」
すねたような声に、フランセットはくすくすと笑った。
「わたしにかわいげがないぶん、メルヴィンさまが充分にかわいいから、わたしたち夫婦はバランスがとれていますね」
「とれてないよ。フランセットは自分をわかってなさすぎるよ」
髪に口づけをいくつも落としながら、メルヴィンは言う。
「この前も言ったとおり、僕はあなたにめろめろなんだよ。もう名前も言いたくないけれど、あなたのもと近衛も、あなたのことが大好きなんでしょう? いやだな。フランセットは僕の奥さんなのに、エスターにもアレンにも、あなたは笑顔を向けるんだ」
あごをつかみとられて、頬にキスされた。おだやかな春の陽光がみちる庭園に、花の香りがそよぐ。
「わたしはそんなに笑わないですよ。人に笑顔を見せる数なら、メルヴィン殿下のほうが多いですよ」
「なら、そのたびにフランセットはやきもちをやいてくれているの?」
「そうだと言ったら、どうしますか?」
「うれしすぎて、このかわいいくちびるにキスをする」
フランセットのそこを親指でなぞりながら、メルヴィンは言う。彼の瞳には熱がこもっていて、フランセットは胸がどきどきした。
「やきもちなんて、やいています。しょっちゅう」
「フランセット……」
「メルヴィンさまはだれにでも優しいし、気さくに笑いかけるし、おまけに重度のブラコンだから、それをわたしにすこしでも向けてくださらないかなって、いつも思って」
口づけられて、言葉がとぎれた。
大きなてのひらを髪に差し込まれて、もう片方の腕がフランセットを抱きしめる。
「ん……っ」
深く食まれながら、彼の舌がぬるりとねじ込まれてきて、フランセットはぴくんと肩をはねさせた。
腰を抱いていた手が、ドレス越しに体の線をゆっくりとたどり始める。
「あ、ん……メルヴィン、さま……」
「ねえフランセット、もっと舌を出して。やわらかいところを噛ませて。痛くしないから」
こがれるようにささやかれて、フランセットはひざから力が抜けそうになってしまう。