27 殿下のターン(その2)

 変装をする時間がなかったので黒髪のまま、馬に乗ってメルヴィンは剣士団寮を訪れた。服装は、ごく簡略的な軍服である。

 年若い門衛に話しかけると彼は、メルヴィンを見て腰を抜かしそうになったようだった。クリストフへ取次ぎを頼むと、ほうほうのていで彼はそれを伝えにいってくれた。

 間を置かずに剣師団長が現れて、恭しい歓待を受けつつ「今日は私的な用だから」と言って、これ以上人を呼ばないようにメルヴィンは釘をさす。寮内にある貴賓室に案内されて、重厚な扉を押しひかれた先にはもうクリストフが待っていた。

 高貴な身分の者を前にしたとき、下賤の者は自ら先に言葉を発してはならない。クリストフはそれを心得ているのか、無言でただ頭を下げていた。

「案内ありがとう、剣師団長。きみはここまででいいよ」

「はっ、かしこまりました」

 団長は深々と礼をとり、貴賓室を辞した。室内には、メルヴィンとクリストフだけが残される。

「クリストフ」

 呼びかけると、はい、と固い声が返ってきた。メルヴィンは苦笑をにじませる。

「楽にしていいよ。今日はけんかをしにきたわけじゃないんだ」

 そう言いながら、座り心地のいいソファに腰を下ろす。すると、クリストフはいぶかしげな表情でゆっくりと顔を上げた。

「私を、お叱りにこられたのではないのですか?」

「僕が、ただ権力をふりかざすだけのばかな王太子だったら、そうしていたかもしれないね」

 寮付きのメイドが紅茶を運んできた。上質なティーカップに、お茶のそそがれる音が響く。

「でも、僕はあいにく、がまんが人一倍きくほうなんだ。わかるだろう、クリストフ?」

 一礼して、メイドが出ていく。クリストフは、その場に佇んだまま眉をよせた。

「先日の、噴水広場でのことはお詫びいたします。王太子殿下の奥方とふたりきりにさせていただきたいなどと、身をわきまえぬことを申し上げまして――――」

「そのことはもういいよ。ぜんぜん気にしていない」

 メルヴィンの言葉に、くやしげな感情をクリストフはわずかに瞳によぎらせた。

「……寛大な御心に、感謝いたします」

「話をしたいときみが申し出てきたこと自体は、もう問題にしていない。けれど、その話のせいで僕の妻が思い悩む結果となったことは見過ごすことができなくてね」

 メルヴィンはほほ笑んだ。

「ずっと立っていては疲れるでしょう? どうぞ、座って」

「ーーはい。恐れいります」

 固いしぐさで礼をとり、正面のソファにクリストフは腰を下ろした。メルヴィンは、彼の様子を観察しながら口をひらく。

「フランセットが剣士団寮へ単身乗り込もうとしたときの話だけれど。あのあと馬車で、僕はきみに、きみが致命的なまちがいを犯したことを指摘したよね。あのとききみは、なんのことかわからないような顔をしていた。いまでもそれは、わからないままかい?」

 メルヴィンの冷静な問いかけに、クリストフは顔をしかめた。

「妃殿下をおとめできなかったことに関しては、私の対処能力が不足していたと痛感しております。けれど、あのとき申し上げたように、そもそもの原因は王太子殿下がフランセットさまのお心を真に理解されていたなかったことが――――」

「やっぱり、きみと僕とでは論点に大きなズレがあるようだ」

 メルヴィンは、笑みをたたえたまま告げた。

「フランセットの気持ちを僕がわかっているかどうかというのは、あのときはまったく関係がなかったんだ。なぜなら、僕が彼女の気持ちをどれだけ深く理解してようとも、彼女はいずれ、自分の意志でああいう局面に立ち向かっていくだろう。僕がきみに言いたいのは、それ以前の問題だよ」

「それ以前……?」

 クリストフはいぶかしげに聞いてくる。メルヴィンはふと、表情をゆるめた。

「僕はきみを、だいぶ前から知っていた。ロジェ王国にフランセットを迎えに行った当時、クリストフは王家の近衛の任にまだついていたでしょう? あの謁見の間に、きみが控えていたことを僕は覚えているよ」

「そうだったのですか」

 クリストフは目を見開いた。

 あのゴタゴタのなかで、近衛兵の存在を王太子が記憶していたなんて、思ってもみなかったのだろう。
 そこがクリストフの甘いところだ。彼の家が没落したのも、なんとなくうなずけるというものである。

「人の顔を覚えることと、その名前を知って記憶しておくことは、外交の基本だよ。きみも、この国で剣士として身を立てようと志しているのなら覚えておいたほうがいい。剣士の仕事は、そう甘いものじゃないからね。ー ーところできみは、僕の弟の名を覚えているかい?」

「は……。アレン殿下でございますか」

 クリストフは、表情に疑問符を浮かべながらうなずいた。メルヴィンはほほ笑む。

「それはよかった。どうやらきみは、先日街でアレンと会ったときに、あの子が第三王子だと最初はぜんぜん気づいていなかったと聞いていたから、すこし不安だったんだ」

「申し訳ございません。私はこの国へ移り住んだばかりでして、アレン殿下のお顔を記憶に留めておりませんでした。それにまさか、王子殿下が妃殿下の護衛として街中に現れるという事態をまったく想定しておりませんでしたので――――」

「けれどね、クリストフ。アレンも、きみの顔をちゃんと記憶していたんだよ」

「は……?」

 クリストフは目を丸くした。メルヴィンは根気よく説明を続ける。

「アレンも、僕とおなじくきみのことを覚えていたんだ。ロジェ王国に、婚姻の使者として訪れたときにね。だからクリストフ、街できみと接触したとき、アレンはひどく驚いたようだよ」

「アレン殿下まで、私を覚えていらっしゃったー――?」

「そう。だから僕は、馬車のなかで言ったんだ。きみは大きなミスを犯したと」

 クリストフは、ここまで教えてから答えにやっとたどりついたようだった。実直そうな眉をよせたのち、ぐっとくちびるを引きしめる。

「……申し訳ございませんでした」

「すこしばかり遅かったようだね、クリストフ」

 メルヴィンは、ほほ笑みを浮かべたまま言う。

「フランセットとともにいるのが第三王子だと気づけていたら、きみはきっと、剣士団の寮内でトラブルが起こっているということを彼女に伝えることはしなかっただろう。第三王子と王太子妃がそろって街に下りているんだ。尋常ではない事態だから、我が国の優秀な剣士であるならば、『自分たちが起こしているトラブル』について説明するよりも先に、『王子と王太子妃に振りかかっているトラブルがないかどうか』を尋ねるべきだった。そうでしょう?」

「……おっしゃるとおりです」

 目を伏せたクリストフに、メルヴィンは言う。

「剣士たちのトラブルが甚大なものであったならともかく、今回の件は完全な内輪もめだ。アレンならともかく、フランセットを巻き込むべきじゃない。きみにとってたいせつな女性で、守りたいと思っているならなおさらだ。……危険から遠ざけるやりかたをフランセットはきらうけれど、必要であるなら遠ざけるべきだと僕は思う」

 クリストフはしばらく目を伏せていたが、やがてメルヴィンと目を合わせた。若草色の瞳が凛として、真摯な光を帯びている。

(多少にぶいところを除けば、優秀な武官になりそうなんだけどな)

 その程度の欠点であれば、王太子宮の近衛として召し上げてもよかった。そう、欠点がそれだけであったなら。

(フランセットを好きな男は近くにおけない)

 四六時中やきもちをやいてしまって、こっちがどうにかなってしまう。

「すべて、王太子殿下のおっしゃるとおりです。私が至らぬせいで妃殿下を危険な目に遭わせてしまい、たいへん申し訳ございませんでした」

 クリストフはわざわざ立ちあがって、絨毯に片ひざをつき頭を垂れて謝罪した。メルヴィンは、立場上こういう行為をされることに慣れてはいるが、今回はどうにも居心地が悪い。

「顔を上げてかまわないよ。今日は非公式の場だし、私的な感情が僕にないといったら嘘になる」

「私的な感情、でございますか」

 片ひざをついたまま顔を上げて、クリストフはけげんそうに聞いてくる。メルヴィンは苦笑した。

「僕がきみに腹を立てていないと思う?」

「ーーそれは、先日の噴水広場でのことをおっしゃっているのですか」

 クリストフの瞳に強さが戻った。

「確かに私には至らない点が多かった。それは認めます。しかし、王太子殿下もフランセットさまを苦しめている。あのお方が無謀な行動をとるのは、王太子殿下がフランセットさまの苦しみをおわかりになっていないからです。フランセットさまは責任感の強いお方だ。恐らくは、ウィールライト王国の王太子妃になるという重圧に耐えきれず、王宮を飛び出したにちがいありません」

 メルヴィンは顔をしかめた。

「王太子妃になるという重圧? きみはどこかいつも的外れだね、クリストフ。そんなものは、彼女はとっくに受け入れているよ。フランセットが悩んでいることは知っている。悩んで、むりをしていることもね。それは彼女が|強いから《、、、、》だ」

 クリストフは目を見開いた。

「フランセットは、僕の力になってくれようとしている。そのために、自分の能力が足りないことをくやしく思っている。彼女ほど、僕を支えてくれている存在はいないというのに」

 メルヴィンは立ち上がった。そろそろ宮に戻る時間だ。

「フランセットはただ守られるだけの女性じゃない。けれど僕は、彼女の強いところも、優しいところも、そして弱いところも、すべてをこの手で守りたいと思っているよ」

「王太子殿下……」

「きみには我が国の剣士として、役目をまっとうすることを期待している。時間をとらせて申し訳なかったね」

 見送りはいらないから、と付け加えて客室をあとにしようとしたとき、ふいに背後から声がかかった。

「メルヴィン殿下。どうか、フランセットさまをよろしくお願いいたします」

 願いを託すような、まっすぐな声だった。

「どうかフランセットさまを、幸せにしてさしあげてください。お願いします」

「まったくきみは、最後まで空気の読めない男だね」

 膝をついたままのクリストフを肩ごしにふり返りながら、メルヴィンは笑った。

「きみにお願いされるまでもないよ。フランセットは僕の妻だ。僕以外の男に、彼女を幸せにはさせない」

 クリストフは言葉を失ったようだった。メルヴィンはドアのノブに手をかける。