02 結婚一年目にして、とっても可愛い毛玉を拾った件

 まだ一年、されど一年。
 一階の渡り回廊から中庭をぼーっと眺めながら、いとこの言葉をフランセットは思い返してしていた。

「別に、遅すぎるというわけではないわよね……。できていてもおかしくはないけれど、できていなくても特別おかしいわけじゃない……」

 柱に身を寄せた格好でつぶやく。フランセットの小さなぼやきは、中庭の芝を叩く雨音の中に消えた。
 雨が降り出したのはお茶会を終えた直後だ。アレットは、夫と姑の待つホテルへ帰っていった。

 フランセットは、応接用のドレスから簡素なものに着替えてからここに来ていた。中庭が見渡せるこの場所は、一人で考え事をするのにぴったりの場所なのだ。

 長く伸ばしたプラチナブロンドの巻き毛は、湿気によってしっとりと潤っている。白皙の肌に桃色の頬、ふっくらした赤いくちびる。サファイアのような色合いをした瞳は憂いに沈んでいるが、しなやかな意思の光を失っていない。

 超大国と呼ばれるウィールライト王国王太子メルヴィンの、唯一無二の寵妃。フランセット・ウィールライトは、去年の春にここに嫁いできたばかりだ。以来、王国一のおしどり夫婦として国民に広く知れ渡っている。

 その第一の理由は、王太子メルヴィンの初恋の女性がフランセットだったことによる。六歳の頃に出会った姫君に、メルヴィンはひと目で恋に落ちた。それからというもの、花束を十四年間毎日彼女に贈り続けたという逸話がある。

 第二の理由は、貴族の集う社交の場から窺える。王太子による妃への溺愛っぷりは、時と場所を選ばず、人の目をいっさい気にせず、周囲の者たちがいっせいに胸焼けを起こすほど甘ったるくくり広げられるからだ。

 王太子殿下は、十四年掛けてやっと射止めた妃殿下のことが、愛しくて仕方がないらしい。
 これが周囲の者たちが持つ共通見解であり、そしてまぎれもない事実であった。

 一方でフランセットは、そんな夫を愛しつつも持て余しているような状態だ。押しも押されぬ超大国の王太子であるところのメルヴィンに比べて、自分は貧乏国の嫁き遅れ王女(しかも五歳年上)である。格差婚も甚だしいと当初は思い、なんとか婚約を無効にできないかとあがいたものの、気づいたときには彼に絡めとられて逃げられなくなってしまっていた。

 紆余曲折を経て、夫と深く愛し合うようになり、現在は蜜月という名の新婚期間を過ごしている真っ最中である。しかしながら、メルヴィンの示す愛情深さにフランセットは戸惑うことが多かった。

 もともとシャイな質(たち)である。耳もとで愛をささやかれるだけで真っ赤になってしまうフランセットには、メルヴィンの深すぎる愛を受けとめるには荷が勝ちすぎるのだ。
 しかしながら、目下の悩みはそのことではない。

 おしどり夫婦の新婚蜜月にふさわしく、フランセットはメルヴィンに毎日愛でられまくっている。時間や場所を問わず、ついでに言えば回数も問わず、有り体に言えば、抱かれまくっているのである。

 それなのに、|まだ《・・》なのだ。
 フランセットは、今日何度目かのため息をついた。

「でも……、まだだとしても、おかしくないはずよ。たまたまそうだったというだけで、特別に思い悩む必要なんてないわ」

 そう己に言い聞かせるも、表情に覇気がないことは自分でもわかっている。しかし、こればかりは悩んだところで解決できる問題でもないだろう。こうしている時間があるのなら、書斎で読書に励んだほうが有意義だ。

 いや、その前にやることがある。
 アレットが滞在するための屋敷の手配だ。

 フランセットはため息をつきつつ、柱から背を離した。雨に濡れる景色から視線を外して、渡り回廊を進む。
 フランセットが夫と住んでいる王太子宮は、時の王が王妃のために造らせた宮であるという。それゆえに、白色を基調とした優美な外観をして、内装もまたやわらかい色彩が採用されていた。

 この宮が置かれているのはウィールライト王国首都ウィーリィ、その北街区に位置する丘陵の中腹だ。この丘陵一帯は国王の住まう王宮の敷地であり、そのまま『王家の丘』と呼ばれている。

『王家の丘』には林や野原だけでなく、小さな湖や川もあった。わずかながらも標高が高いので、夏であっても過ごしやすい。いまのように雨が降れば、肌寒さを感じるほどでもある。アレットはしきりに扇いでいたが、城下よりは涼しいはずだ。妊娠していると、暑さに敏感になるものなのだろうか。

 ちなみに国王の宮は丘の頂上にあるため、よりいっそう快適だと思われる。

(アレット用の屋敷は、風通しのいい物件を選ばなくてはならないわね)

 いとこの懐妊は喜ばしいことだ。純粋に嬉しいという思いはあるし、祝う心だってもちろんある。

「奥方さま。いま少しよろしいでしょうか」

 男性の落ち着いた声が後ろから掛かったので、フランセットは振り返った。声の主が、大ベテランの家令(六十三歳、ダンディな口髭がトレードマーク)だということはわかっていたので、悩んでいることが表情に出ないように気をつける。

「どうしたの、ジョシュア」

「メルヴィン殿下の従僕から知らせが参りました。本日の狩猟会は雨のため中断になった模様です。殿下のお帰りは午後五時の予定でございましたが、まもなくお戻りになられるそうです」

 この時期はにわか雨が多いため、こういうことがままある。フランセットはうなずきを返した。

「わかったわ。では門前からメルヴィン殿下をお迎えする準備をしましょう。殿下のお部屋にはお茶の用意をするよう家政婦に伝えて」

「かしこまりました」

 完璧な仕草でジョシュアは頭を下げる。彼を見つめていたフランセットの口から、質問がこぼれ出た。

「ねえ、ジョシュア。ウィールライト国王のお世継ぎのことだけど、たとえばもし、メルヴィンさまの――」

「はい」

 顔を上げたジョシュアと目が合って、フランセットは我に返った。慌てて首を振る。

「ごめんなさい、なんでもないの」

「さようでございますか」

 優秀な家令は一礼して、余計な言葉を挟むことなく下がっていった。
 フランセットは、己に気合を入れるために両手で頬をぱちんと鳴らす。

(いつまでも暗い顔をしていてはだめよ、フランセット。メルヴィンさまは怖いくらいに察しのいいお方なんだから)

 フランセットの気鬱を夫は見逃さないし、どうにかしてそれを晴らそうと懸命に動いてくれる人でもある。彼に心配を掛けてはいけない。妃である自分は、彼の支えにならなけれいけないからだ。

 つい最近までは、支えになりたいという考えに固執してしまって無茶なことをやらかしてしまっていた。そのたびにトラブルを抱える羽目になり、いろいろと学んだので、いまは前ほど必死になることはほとんどない。

(お世継ぎのことは、またあとで考えればいいわ。いまはメルヴィンさまをお迎えする準備をしなくちゃ。濡れて帰ってくるかもしれないから、お湯の用意もしたほうがいいわね)

 使用人への指示出しの段取りをつけつつ回廊を歩いていると、視界の端に茶色いものが映った。次いで、「チー」という鳴き声が聞こえてくる。

 フランセットは足を止めた。渡り回廊の柱の影に、小さな毛玉が動いている。どうやら動物のようだ。フランセットとの距離は一メートルも離れていない。

「庭に住んでいる動物かしら。人間の前に出てくるのは珍しいわね」

 フランセットは首を傾げた。
 王太子宮の庭園は広大だ。芝生や薔薇園はもちろんのこと、小規模の林や、人口の湖や滝まである。そのせいかさまざまな動物が住んでいて、魚や鳥、兎やアライグマなどの小動物を見かけることもあった。

 彼らは野生なので、人間の気配を感じるとすぐに逃げ出してしまう。こんなに近くにいるのに動く様子がないのは奇妙だった。

(雨宿りでもしているのかしら。それにしても、のんびりした子ね)

 よく見ると、茶色い毛玉は丸まって震えているように見える。心配になって、フランセットはそっと近づきしゃがみこんだ。

 毛玉は丸まって震えたままだ。体長は二十センチくらいだろうか。

「ねえ、あなた。大丈夫?」

 フランセットは、手袋に包まれた手を伸ばし、毛並みをそっと撫でた。野生動物をむやみに触ってはいけないのは知っている。どんな病気を持っているかわからないからだ。でも、手袋越しだし問題ないだろう。

 雨に濡れた毛並みと温かい体温を感じる。毛玉はもう一度「チー」と鳴いて、フランセットのほうに顔を上げた。黒くて愛らしい瞳と目が合って、フランセットは浮き足立つ。

(少し大きめの野ネズミといった感じかしら。どんな種類の動物なのかわからないけれど、とっても可愛いわ……!)

 黒い鼻をひくひくさせながら、フランセットの手袋の匂いを嗅いでいる。逃げ出す様子はないので、フランセットはこの子を観察した。そして、あることに気がついた。

「あなた、怪我してるじゃない!」

 茶色い毛並みが雨に濡れていたのでわかりづらかったのだか、よく見るとお腹周りの毛が赤黒い血に染まっている。この動物が逃げ出さなかったのは、怪我をして動けなかったからなのだろう。

 見たところ深い傷のようだ。すぐに手当てをしなければ。

 フランセットは両手で包みこむようにして、動物を持ち上げた。するとびっくりしたのか、「キー!」という威嚇の声を発して動物が手首に噛みついてきた。

「痛っ」

 思わず手を離しそうになったが、怪我をしている子を落とすわけにはいかない。動物は噛みついたままの状態で荒い呼吸をくり返している。

 薄い手袋ごと皮膚を破られて、痛みに顔をしかめつつ、フランセットは動物を胸に抱いた。欄干に腰を下ろす。
 この子は怯えているだけなのだから、乱暴なことをして余計に怖がらせてはいけない。

 フーッと唸りながら手首に歯を立てている動物の背中を、フランセットはなだめるように撫でた。無理に手首を引き離すことはせずに、語りかける。

「よしよし、大丈夫よ。怪我を治してあげたいだけなの。それが済んだら家族のもとに帰してあげるわ。だから怖がらないで」

 威嚇の唸りを上げながら、動物は牙に力をこめ続けていた。それでもフランセットが優しく撫で続けていると、根比べに負けたのか、やがてゆるゆると力を抜いた。

「チー……」

「いい子ね」

 フランセットはほほ笑んで、動物の耳の下を撫でた。同時に、手首の痛みがやわらいだのでほっとする。

 すっかり安心したのか、動物はフランセットの手に顔をすり寄せてくる。その可愛い仕草に癒されつつも、自身の右手首を見てフランセットは青ざめた。

 絹の手袋に牙の形の穴が空き、皮膚が裂かれてそこから血が流れている。白い布地に血の赤が広がっている状態だ。当然のことながら、ズキズキと痛む。

「これはちょっとまずいかもしれないわね」

 とにもかくにも、医者だ。王太子宮には侍医が常駐している。動物の怪我も診てもらうことができればいいのだけど。

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