07 国王ロッド・ウィールライト

第二章

 翌朝は快晴だった。
 しかし、いまの季節はいつ雨が降ってきてもおかしくない。

 アレンとエスターは午前中に訪れて、すぐにメルヴィンの執務室に入っていった。彼らの父である国王が執政から離れつつあるいま、王国の首脳部はこの三人の兄弟といっても過言ではない。三男坊のアレンは及び腰が抜けきれていないようだが、それでも少しずつ王子としての行動をとるようになってきている。

(会議が終わったら昼食をとるわよね。エスターとアレンの好きなメニューを用意しなくちゃ)

 アレンは、室内よりも中庭で食べるほうを好むのは知っているのだが、その最中に雨が降ったら困る。中庭に面したテラスに食事の用意をするよう女中頭に言って、フランセットは昼用のドレスに着替えた。

 繊細なレースが施されたドレスは、シンプルでありながらも品がある。いつもは胸もとの露出が少ないものを選ぶのだが、この時期はそうもいかない。

 下品にならない程度に襟ぐりの広いものを選んだのだが、侍女に着付けてもらいつつ鏡を覗いて、フランセットは肩を落とした。昨夜つけられた口づけのあとが、鎖骨やうなじのあたりにばっちり残っている。

(これはエスターに一〇〇パーセント突っこまれる案件だわ……! アレンにもたぶん気づかれてしまうレベルね。なんとかしなくちゃ)

 侍女と相談して、大きめのネックレスで隠すことにした。これでやり過ごすことができるだろう。

 それにしても昨夜は、余裕のなさそうなメルヴィンをひさしぶりに見た。睦言も最小限に、かき抱くようにして体を重ねるやり方は、なんとも彼らしくない。

(世継ぎのことを匂わせたのが悪かったのかしら)

 メルヴィンも、子どもが欲しいのにできないから悩んでいるのだろうか。そんな印象は受けなかったけれど……。

(どちらかというと、あいまいにかわされたような印象だわ)

 メルヴィンは、自分の跡を継ぐ子が欲しくないのだろうか。

 昨夜抱かれたのち、寝入ったメルヴィンの腕の中でフランセットは悶々と考えていた。寝不足のせいで目の下にクマができている。いつもは薄化粧なのだが、これを隠すために厚塗りをした。

(お世継ぎを産み育てることは、王太子妃として最重要の責務といっても過言ではないわ。そのことをメルヴィンさまもわかってくれているとは思うのだけど……)

 折を見てもう一度話をしてみよう、もっとも、話をしたところで、現実的に授かっていない以上、どうにもならない問題であることは確かなのだが。

 テーブルに置いてある籠に目を向けると、ロロは起き上がっていて、鉄柵に鼻を擦りつけながらクンクンと匂いをかいでいた。傷口を舐めないよう首もとに巻いたカラーのせいで、動きにくそうだ。

 かわいそうだが仕方がない。柵のあいだに指を入れて耳下のあたりを撫でると、ロロは気持ちよさそうに目を細めた。「よしよし、ロロ」と声を掛けると、焦げ茶色の目をこちらに向けて「チー」と甘えたように鳴く。

(なんて可愛いの……!)

 あまりの愛らしさにフランセットはめろめろになった。このままいつまでも撫でていたいし、どこにでも連れて行きたい気持ちだが、そうも言っていられない。

 フランセットは侍女に言った。

「正餐室の様子を見に行ってくるから、ロロのことを見ていてもらえるかしら」

「かしこまりました、奥さま」

「ありがとう。お願いね」

 フランセットが立ち上がって、テーブルから離れようとしたときである。柵に体を押しつける勢いでロロが「チー!」と鳴いた。びっくりしてロロと目を合わせると、ロロはヒゲをしょんぼりさせながら「チチチ……チー……」とさびしげに鳴く。その姿に、フランセットは胸を撃ち抜かれた。

(なんて……なんて可愛いの……!!)

 うるうるした大きな瞳に見つめられて、フランセットはいてもたってもいられなくなった。衝動のままに侍女を振り返り、前言を撤回する。

「やっぱりこの子もいっしょに連れて行くわ」

「えっ、でも奥さま。お食事の場に動物を連れて行くのはどうかと思いますが……」

 戸惑う侍女に、フランセットはうなずいた。

「ええ、そうね。あなたの言うとおりよ。けれど考えてみて。今日いっしょに昼食をとる面々の中に、食事の場所に動物がいることを問題にしてくるような、現実的もしくは繊細な気質の人がいると思う?」

 参加者はエスターとアレン、そして、外出の予定が入らなければメルヴィンも該当する。侍女は三秒ほど考えたのちに答えた。

「いらっしゃいませんね」

「でしょう?」

 フランセットは、籠の扉を開けて慎重にロロットを抱き上げた。縫合したお腹の部分にはガーゼが当てがわれ、包帯が巻かれている。

 朝に飲ませた痛み止めが効いているのか(レイスがくれたものだ)、フランセットの腕の中にロロは大人しく収まった。

 それでも傷口が擦れてしまうのが怖いので、お腹を上に向ける格好にさせて抱っこをする。動物はこういう態勢を嫌がるはずだが、ロロはフランセットにすっかり気を許しているようで、されるがままになっていた。

 部屋を出て大階段を降り、渡り回廊に向かう。中庭に面したテラスはこの先にあるのだ。

 晴れ渡る空を見て、ロロに「いい天気ね」と話しかけつつ歩いていると、回廊の先から人の話し声が響いてきた。聞き覚えのある声だ。

「なんであんたが王太子宮にいるんだよ。さっさと国王宮に帰れよ」

 いらいらしたような声に思わず足が止まる。こちらの勘違いでなければ、声の主は義弟のアレンだ。

 アレンは素直な性格をしているので、声を荒げて怒りを表すときはままある。けれど、ここまで刺々しさを含んだ声音を聞いたことは、フランセットにはなかった。

 アレンの姿は、回廊の柱がちょうど邪魔をしていて見ることができない。フランセットがどうしようか迷っていると、もう一人の声が聞こえてきた。老齢に差しかかったくらいの声で、笑みを含んでいる。

「王太子宮は国王宮の敷地内にあるということを、おまえもわかっているだろう。この宮はメルヴィンとその妃が住む家に違いないが、私の所有物でもある。事前連絡なく私が訪れたところで、だれに文句を言われる筋合いもない」

 アレンの反応をおもしろがっているような雰囲気さえあるこの声に、フランセットは驚いた。フランセットの義父の声だと気づいたからだ。

 彼の名をロッド・ウィールライトという。老齢期を迎え、政治の第一線から退きつつも、いまだ大きな権勢を誇る、この王国の王である。

 ウィールライト王家に嫁いで一年になるが、数えるほどの回数しか彼と会ったことがない。顔を合わせるのはもっぱら宮廷行事の際で、フランセットは下座から国王に最敬礼を示すくらいの交流しか持ったことがなかった。

 国王ロッドは、強面で近づきがたいというわけではない。メルヴィンやエスターの人当たりの良さは父親ゆずりだと感じるほど、鷹揚な雰囲気を持つ男性だ。

 サラサラした黒髪と、深みのある漆黒の瞳は、フランセットにとって馴染み深いものでもある。上質なモーニングコートに包まれた長身は、五十に差しかかる年齢であっても衰えを感じさせない。
 さらに言えば、周囲の人間すべての目を奪うほどの美形っぷりは、さすがあの兄弟王子の父親だと感心してしまうくらいである。

 けれど、フランセットがロッドに話しかけるのを、メルヴィンが嫌がるのだ。ロッドにだけでなく、王妃リヴィエラと親しくすることすらメルヴィンはいい顔をしない。言葉で言われたわけではないが、メルヴィンはわかりやすい人なので、そういう思いがなんとなく伝わってくるのである。

(輿入れのときも、両陛下へのごあいさつをギリギリまで先延ばしにされたくらいだもの)

 国王からの使いとしてエスターが派遣されて、「一刻も早く国王陛下に謁見するように」
と言われたこともある。しかしメルヴィンは、その要請を一蹴してしまった。

(行事で顔を合わせたときのメルヴィンさまと国王陛下は、とてもなごやかな雰囲気で、険悪さはひとかけらもないのよね。だから、複雑な思いを持ってはいても、互いに思い合っている関係だとは思うのだけど……)

 しかしながらいま現在、三男坊であるアレンは、父親の言葉を受けていら立ちを増したようだった。

「家の所有者は誰だとか、そういうことを言いたいんじゃないんだよ。俺の前に姿を現すなって言ってるんだよ。それくらい察しろよ、あんたは賢いんだろ。この国でいちばん偉い国王サマなんだろ」

 アレンは声の調子を抑えていたが、その分、彼の鬱屈した怒りが窺えた。

 アレンとロッドの不仲は耳にしたことがあるし、宮廷行事の際に一度も目を合わさない二人をフランセットは実際に見ている。実の親子がこのような状態でいることに心を痛めたが、一家の奥深くに根ざす禍根からくるものである以上、フランセットには見守ることしかできなかった。

 息子の攻撃的な言葉に、しかしロッドは怒るでもなく、余裕のある声で返す。

「ああ、おまえの言うとおりだよ。私はこの国の王なのだから、たいていの望みは叶ってしまう。こうしたいと私が言えば、臣下たちが我先にと動いてくれるからな。しかし、たったひとつだけ思いどおりにならないことがある。今日はその願望を成就させるために、ここに足を向けたんだ。私の血を受け継いだ賢明なおまえになら、それがなんなのかわかるだろう、アレン?」

 父親の問いに、アレンは舌打ちで応えた。

「うるさいな。さっさと帰れよ」

「おまえとレイスには何度も手紙を送っているし、フィーリアにも話をしている。おまえたち母子(おやこ)の願いはすべて聞き入れているし、何不自由ない生活を与えてもいる。おまえたちに対する私のささやかな望みを受け入れてもらうために、これ以上どうしろというんだ?」

「そういうところが恩着せがましいんだよ。母さんとレイスの面倒は俺が見るって言ってるだろ。あんたの力なんて必要ないんだ。それなのにいつまでも母さんに執着して、俺たちにまとわりついて、うっとうしいんだよ!」

 いくらなんでも、アレンは言い過ぎなのではないだろうか。

 フランセットはハラハラした。彼らの前に姿を現すタイミングを完全に逸してしまったのだが、無理やりにでも割って入ったほうが良いかもしれない、少なくとも、アレンのとげとげしい言葉の奔流を止めることはできるだろう。

 意を決してフランセットが一歩踏み出したとき、柱の影で見えなかったアレンの姿が視界に現れた。父親を押しのけるようにして、アレンが回廊の真ん中に出てきたのだ。

 彼は、簡易な黒い軍服姿をしていた。整った容貌が険しくなっている。

「いつまで盗み聞きしてんの、フランセット」

「ご、ごめんなさい」

 フランセットは動揺したが、よく考えてみれば、この義弟がこちらの気配に気づいていないわけがなかった。ロッドは気づいていなかったようで、フランセットを見て苦笑いを滲ませている。