それから三日が経ったが、フランセットの寝不足は解消されることがなかった。
世継ぎを授かりたいという気持ちは、しぼむどころかどんどん大きくなっていくばかりだ。にもかかわらず、エスターは不穏な忠告をしてくるし、メルヴィンの口からは世継ぎのよの字も出てこないしで、八方塞がりになってしまったからだ。
妊娠したアレットのための屋敷は、すぐに見つかった。『王家の丘』から馬車で十分ほどの距離にある、瀟洒な屋敷である。
アレットはそこをとても気に入ったらしく、フランセットに何度も礼を言った。夫と姑とともに、安定期までを過ごす予定のようだ。夫と姑も、アレットとともにフランセットを訪問し、礼の品を渡してくれた。
アレットの夫は身重の妻を気遣い、そしてアレットは幸せそうな表情でそれに応えていた。フランセットはうらやましい気持ちで彼らを見つめていたものだった。
「となりの芝生は青いともいうし、人さまのご家庭をうらやんだっていいことはひとつもないわよ、フランセット」
三日連続で濃いめの化粧をほどこした肌は、少々荒れているような気がする。
窓から差しこむ朝の日差しの中、ドレッサーの鏡を見つめつつぼやいていると、メルヴィンが心配そうに声を掛けてきた。
「大丈夫、フランセット? 顔色が優れないようだけど……」
「単なる寝不足なので問題ないです。寝れば顔色ももとに直ります」
椅子に腰かけているフランセットの肩に、メルヴィン両腕が回る。綺麗な漆黒の瞳と、鏡越しに目が合った。
「寝不足の理由を聞いてもいい?」
「……。だめです」
適当にごまかしたって、メルヴィンに通用しないことはわかっている。だったら、言わないと意思表示をしたほうがいい。
メルヴィンには毎晩のように抱かれている。昨夜も愛を交わしたばかりだ。寝不足はそのせいだと思いたいけれど、よほどのことがない限り、日付が変わる前にいつもは眠りにつけている。ここ数日のあいだは、世継ぎ問題のせいで寝付けていないというだけだった。
メルヴィンは表情を曇らせた。彼は、こちらの思いを無理やり聞き出してくるような性格ではない。やがて、心配を深めたまなざしでフランセットの髪に口づけた。
彼の瞳の中に自責の念が垣間見えたのは、自分の気のせいだろうか。
「あなたに治癒魔法をかけてもいい?」
「いえ、いいです。寝不足というだけで、元気はありますから」
フランセットは明るい声を出して、メルヴィンに肩を抱かれたまま立ち上がった。腕の中で体を反転させて彼と向き合い、からかうように言った。
「だから、今夜はゆっくり寝かせてくださいね」
「……うん」
メルヴィンは、フランセットの頬にキスをしながら言う。
「フランセットは意外に思うかもしれないけれど、僕はあなたをただ抱きしめながら眠るのも大好きなんだ。とても落ち着いた気持ちになって、ぐっすり眠れるんだよ」
「それは確かに意外ですね。けれど、わたしも同じ意見です」
メルヴィンに抱きしめられながら、フランセットはほほ笑んだ。
(お世継ぎの悩みは尽きないけれど、メルヴィンさまもなんだか落ちこんでいるような気がするわ)
不用意に、話題に出すな。
義弟の助言はとても大切なものなのかもしれない。勘でしかないが、いまはそれに従おうとフランセットは思った。
この日、事件が起きた。ロロが発熱していたのである。
もともと体温の高い動物ではあったのだが、昨日よりも確実に熱い。肉球にふれてみるとそのことがよくわかった。フランセットが近づくと、いつも鼻をヒクヒクさせて近づいてくるのに、今日はわずかに顔を上げただけでぐったりとしている。
ロロを仰向けに抱っこしながら、フランセットはどうするべきか迷った。宮に常駐する侍医に聞いたところで、獣医ではないから判断がつかないと言われてしまうかもしれない。
「怪我からくるものなのか、風邪をひいたのか、僕らでは判断つかないね。レイスのところに連れていこう」
フランセットの肩に手を置いて、メルヴィンがそう提案した。
「国王宮の獣医を呼んでもいいけれど、お腹の傷を治療したのはレイスだからね。あの子のほうが、状況がわかると思うよ。僕もいっしょに行くから、馬車を用意させよう」
「けれどメルヴィンさま、ご公務があるのではないですか?」
「今日は会議が目白押しの日だったけれど、幸運なことに代役を立てることが可能な内容のものばかりなんだ。今日のところは、エスターに頑張ってもらうことにするよ」
メルヴィンは、ロロを籠に戻して呼び紐を引き、使用人を呼んだ。
(レイスさまの家ということはつまり、フィーリアさまの家よね)
考えながら、フランセットはエントランスに出た。夏の日差しは今日も強い。園庭らの撒いた水によって、芝生がキラキラと光っている。
ロロの籠を抱えたメルヴィンに促されつつ、フランセットは馬車に乗りこむ。となりにメルヴィンが腰かけると、馬車はゆるやかに走り出した。
(フィーリアさまがご在宅であれば、今日初めてお目にかかることになるのよね。き、緊張してきたわ)
もっとも、いちばんの目的はロロを診てもらうことである。フィーリアと交流を深めるための場ではないし、フランセット自身、ぐったりしているロロが心配で仕方がない。
「ただの風邪だといいのだけれど……」
「うん、そうだね。見たところそこまで重症というわけではなさそうだから、大丈夫だと思うよ」
優しくほほ笑んでメルヴィンは言う。彼の声にはこちらの心を安心させるような響きがある。
メルヴィンは、弟に会いに行くという気安さのためか、いまは普段着のスーツを着用していた。フランセットは訪問着を選んでいる。オリーブ色の落ち着いたデザインのドレスは、多少地味ではあるけれど、王太子の妻としては合格点の装いのはずだ。
「フランセットは、フィーリアさまと初めて会うんだったよね」
唐突に指摘されて、フランセットはつい動揺を見せてしまった。
「はい。実はちょっと緊張しています」
「フィーリアさまはお優しい方だから大丈夫だよ。そうだな、雰囲気はアレンよりもレイスのほうに似ているかな。物静かな女性なんだ。あとね、とってもお綺麗な方だよ」
「ええ、まあ、それは簡単に想像できますが……」
なにしろ、アレンとレイスという美形兄弟を産み落とした女性である。メルヴィンとエスター、そしていちばん下の双子王子たちの実母である王妃リヴィエラも、目を見張るほどの美人だった。国王の容姿は言わずもがな、やはり遺伝は強いのである。
メルヴィンは、瞳に不思議な色合いを浮かべながら小さく笑んだ。
「フランセットは妻の立場だから、フィーリアさまには複雑な思いを持っているのかもしれないね。あんまり無理はしなくていいよ。仲良くしようとして、気遣いすぎるとあとで反動がくる。そのことはフィーリアさまも充分承知されているよ」
「え……?」
フランセットは目を見開いた。
「待ってください。正直に言うと、確かに複雑な心境はありますけど、気遣いすぎるとか、無理をするとか、そういったことにつながる話ではないです。だって、ひとりの女性の恋愛事情と、その女性と女同士の交友関係を築くことは、まったく別の話でしょう?」
「そういうものなのかな」
「そうですよ。相手と気が合うか合わないかというのが第一に来るのが、女同士の関係です。たとえば、アレットが不倫をしたとして、わたしはそれについて意見を言うとは思いますけど、悪友の関係を断ち切ろうとまでは思いません」
フランセットは息をついた。
「フィーリアさまが国王陛下の……恋人でいらっしゃるという特殊な状況ではあるから、さすがに緊張はしますけれど。でも、気遣いすぎるとあとで反動がくるだなんてせりふは、メルヴィンさまらしくないですよ。わたしはこちらに嫁いできて、ウィールライト王家の家族になったんですから、もっと前向きな発言をしてください」
「ねえ、フランセット」
呼ばれて視線を上げると、長い指にあごをとられた。そのまま口づけられてしまう。
「……!?」
片腕で肩を抱きこまれながら、やわらかな舌でくちびるを舐められる。軽く甘噛みされてから解放された。次にひたいにキスをしてきながら、メルヴィンは熱い吐息とともに言う。
「可愛い……。あなたは本当に可愛いね、フランセット。可愛くて素敵で優しくて、あなたと結婚できて僕は幸せだよ」
「め、メルヴィンさま?」
いつものことだが、夫の突然の言動には戸惑うばかりである。
そのときロロが「チー」と鳴いた。メルヴィンの片腕がフランセットの肩に回っているので、籠が不安定な状態になったのかもしれない。
「あの、メルヴィンさま。わたしよりもロロの籠をしっかりと抱えていてください。揺れてしまってかわいそうです」
「朝から晩までかいがいしくロロの世話をしたり、だっこして、よしよし撫でて可愛がるあなたもとても素敵だなと思いながら見ていたよ。僕も最大限ロロの力になりたいと思っているんだ。でもね、フランセット。ひとつだけ覚えておいてほしい。ロロはオスだよ」
「……。それがどうかしたのですか?」
「いや、実を言うと僕もね、まさか自分が、動物にやきもちをやくような器の小さな男だとは思っていなかったんだけど」
「…………」
メルヴィンは、真剣な顔をして言った。
「ねえフランセット。僕とロロ、どっちが大事?」
やはり、この夫の言動にフランセットは大きく戸惑うばかりであった。