13 神さまの領域

 真剣な表情でフィーリアは続ける。

「以前からそういうことがあって……メルヴィン殿下が、わたしやアレンたちに話しかけてくださると、そのあとでメルヴィンさまが王妃殿下にひどく叱られるのです。ですから、同じようにフランセットさまも叱責されてはいないかと。そのせいで睡眠不足になられているのではないかと、心配になったのです」

「ええと、ちょっと待ってください。リヴィエラさまが、息子であるメルヴィンさまを叱責していたということですよね」

 フィーリアはうなずいた。薄紫色の瞳が憂いを帯びてゆれている。

(妾とその子どもたちと自分の息子が仲良くしている光景は、見るに耐えなかったということかしら)

 メルヴィンとフィーリア母子をひきはなすために、王妃はメルヴィンを叱責していた。それは想像するに難くないことだった。

 しかし、いまのメルヴィンを見るにつけ、どうにも違和感がある。彼は自分の思うままにアレンやレイスを可愛がっているし、フィーリアのことを気にかけている。そして、リヴィエラから呼び出されて怒られている様子はまったくないのだ。

 フランセットは慎重に尋ねた。

「ひとつお聞きしてもいいですか、フィーリアさま。それは、いまも続いていることなのですか?」

「……。いえ」

 フィーリアはゆるく首を振った。

「すみません。ここ数年は、そのようなことはなくなりました。けれど同じことがまた起こったらと思うと……」

 消え入りそうな声で言いながら、フィーリアはくちびるを噛んでうつむいた。フランセットは、彼女の細い肩に手を置く。

「大丈夫ですよ、フィーリアさま。わたしは王妃殿下に叱られていません。ご安心ください」

「はい――申し訳ございません。おかしなことを口走ってしまって……。このことはどうかお忘れください」

 フィーリアは顔を上げてほほ笑んだ。その悲しい表情を見て、これまで彼女が強いられてきた境遇が、フランセットの胸に迫ってくる。フランセットが想定していたよりずっと、フィーリアは繊細な女性で、そして癒えきっていない傷を抱えているようだ。

 大国の王の愛妾という立場になった女性は、それを至上の幸運と受けとるか、逃れえぬ運命に絡めとられてしまったと嘆くのか、そのどちらかしかない。ウィールライト国王の命令に背くことのできる者は――こと平民に至っては、この大陸には存在しないだろう。

 フィーリアは自分の産んだ息子たちを愛している。それは見ていたらわかる。しかし、国王のことは、同じくらいに愛せなかったのかもしれない。そうであったなら、王宮はフィーリアにとって荊の城だっただろう。

 しかし、フランセットは王太子妃である。フィーリアの境遇と心情に心を寄せすぎてはいけない。

(リヴィエラさまも、おつらくてどうにもならなかったのだと思うし――)

 自分をしっかり保つよう己に言い聞かせつつ、フランセットは告げた。

「謝らないでください。むしろ、気遣ってくださって感謝しているのです。実はですね、わたしの睡眠不足の原因は別のところにあるのです」

「別のところ、ですか? それはいったいどういったことなのでしょう」

 打ち明けるべきではないと思った。一年経っても世継ぎができないという悩みは相当重いし、夫婦のあいだの問題でもあるからだ。

(メルヴィンさまが王太子である以上、わたしたちの子どもは第一位王位継承権を授かるはずだわ。だから、夫婦間に限らず、公(おおやけ)の問題でもあるかもしれないけれど……)

 けれどやはり、フィーリアに話すのは控えるべきだろう。フランセットは口を開いた。

「あの日の午前中に、わたしのいとこが宮を訪れたのです。彼女は懐妊していて、安定期までをウィーリィで過ごしたいから屋敷を用意してほしいとわたしに頼みました。その屋敷を手配することに少々戸惑ってしまったのです。なにしろ、いまはこの気候でしょう? 涼しい場所に建つ屋敷を探さなくてはならないし、その屋敷で働いてもらう使用人も、妊娠に関する知識の深い人たちを手配したほうがいいと思うと、いっそう時間が掛かってしまって、そのせいで睡眠不足になってしまったのです」

「まあ、そうだったのですね」

「はい。でも、手配はすべてし終わったのでもう大丈夫です。今夜からぐっすり眠れる予定なので、この目の下のクマもなくなって厚化粧をしなくてもよくなります」

 フィーリアは胸を撫で下ろした。

「良い屋敷と使用人が見つかってよかったですね。それにしても、フランセットさまのお心遣いを尊敬いたします。いとこさまのために、寝不足になるまでお屋敷をお探しになるなんて、とってもお優しいですね。さすがはメルヴィン殿下のお選びになった方ですわ」

 屈託のない言葉は、フランセットの胸をことのほか抉った。

 実際は、そうではないのだ。アレットに対する複雑な気持ちは、フタをした心の奥底にまだ眠っている。
 フランセットは苦い思いを抱えるのが苦しくなってしまって、思わず心情を吐露してしまった。

「いえ、わたしほど狭量な人間はいません。子どもを授かったいとこを見て、悲しみと妬みを感じてしまったんです。彼女へのお祝いの言葉を伝え忘れてしまうくらいでした。自分が情けないです」

「フランセットさま――」

 フィーリアが目を見開いたので、フランセットは我に返った。明るい口調を慌てて装う。

「わたしとメルヴィンさまは、結婚して一年になりますでしょう? そろそろお世継ぎをもうけないと、と思っていたのです。次代の立派な王太子殿下を産み育てることは、王太子妃のつとめです。世継ぎをお腹に授からないと、責任を果たせないですから。けれど、こういうことは焦っても仕方がないので、流れに任せようと思っています」

「はい。おっしゃるとおりだと思います」

 テーブルの上で握りしめていた手に、フィーリアのそれが重ねられた。

「フランセットさまは、王太子妃として、妻として、充分すぎるほど魅力的で、素敵でいらっしゃいます。努力もしていらっしゃいます。ですから、神のお決めになる領域は神にお任せしてしまいましょう」

 儚げだったフィーリアのまなざしが、こちらを包みこむような温もりを帯びる。
 王太子妃として、妻として、努力している。その言葉に胸を打たれて、フランセットは目頭が熱くなるのを感じた。

 フィーリアは、やわらかいながらも芯の通った声で続ける。

「どうかお気に病まずに。フランセットさまのせいではないのですから」

「ありがとうございます」

 誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。
 フランセットは、零れそうになる涙をこらえながら頭を下げた。フィーリアの手の体温が心地よかった。