この日の夜は、いつもよりぐっすり眠れた気がした。
窓からの朝日がベッドに差して、閉じていたまぶたをフランセットは震わせた。そこに優しいぬくもりが押し当てられ、メルヴィンに口づけられたことを知る。
フランセットの裸体は、シーツとたくましい両腕にくるまれていた。白い素肌には夫から昨夜愛された跡がいくつも散っている。
長い指に髪を撫でられる心地よさに、開きかけたまぶたがまた閉じてしまった。もう少しだけ眠っていたいという怠惰な思いが、体をベッドに沈みこませる。
「フランセット」
甘い声で呼びながら、髪から背中へメルヴィンは手をすべらせた。
「今日は珍しくお寝坊さんだね。いいよ、このまま昼まで寝ておいで。あなたは最近寝不足のようだったし、今日の午前中の予定は僕のほうで調整しておくから大丈夫だよ。安心して寝ていて」
労わりに満ちた夫の声に、フランセットは思わずうなずきそうになった。しかし、すぐに我に返って目を開く。
「だめです、今日は王立病院の視察ですから!」
突然上体を起こした妻を、メルヴィンは寝転がったまま目を丸くして見上げた。
「びっくりした。おはよう、フランセット」
「おはようございます。いま何時ですか、メルヴィンさま」
「朝の八時だよ。視察には充分間に合う時間だけれど、もう少し寝ていなよ。病院には、僕の信頼する官吏を送っておくから」
「そういうわけにはいきません。外来患者の待ち時間の短縮と、夏に激増する食中毒患者への設備の増強がきちんとなされているかどうか確認しないといけないですから」
「フランセットは真面目だなぁ」
身を起こして、メルヴィンはフランセットを抱き寄せた。
「もう少し、あなたの可愛い寝顔を眺めていたかったのに。ものすごく癒されるんだ」
「わ、わたしの寝顔なんて、口をぽかんと開けている可能性もあるので可愛くなんてありません」
フランセットは恥ずかしくなって、顔を隠すように両手で頬を覆った。メルヴィンは、片腕で腰を抱いたまま、もう片方の手でシーツをフランセットの肩に羽織らせる。
「ほら、寝起きのあなたも可愛いんだから、僕から体をちゃんと隠して。寝坊していないのに視察に遅刻する羽目になってしまうよ」
甘ったるい声でささやかれて、フランセットは赤面してしまった。抱き寄せられているせいで、筋肉質の体に自身の肌がふれている。
「ふ、服を着ます。メルヴィンさまも、なにか羽織ってください」
「そんなふうに顔を赤くしないで。可愛すぎて、あなたと離れたくなくなる。朝から夫を拷問にかけるだなんて、フランセットは意地悪な奥さんだ」
愛しげに頬に口づけられた。朝っぱらからの溺愛攻勢によって拷問にかけられているのは、どう考えてもこちらのほうである。
「メルヴィンさま、侍女を呼ぶので離れてください。ロロに朝ごはんをあげなくてはいけないし――」
「ああ、そうだね。ロロがお腹を空かせてしまったらかわいそうだ。けれど、実を言うと僕もお腹が空き始めてきたんだよ」
メルヴィンの声が艶を帯びた。加えてまなざしが熱を孕むのを見て、フランセットはぎくりとする。
身を引きそうになったことに勘づいたのか、甘い美貌に笑みを浮かべてメルヴィンは告げた。
「昨日まで寝不足だったあなたを、朝から疲れさせてしまうようなことはしない。だから、可憐な花びらに舌を這わせて甘い蜜を味わうのは、夜まで待つことにするよ」
そういうせりふを口にするから、フランセットの顔がどんどん赤くなってしまうのだ。もうなにも言い返せないフランセットのくちびるを、メルヴィンのそれが優しく塞ぐ。
「っん――」
「けれどこのくちびるは、いつどんなときでも僕のものだ」
恋情のこもるかすれた声に、フランセットの体が熱くなる。
「愛してる、フランセット」
口づけの角度を変える合間に、メルヴィンは何度もささやいた。シーツに包まれた体を両腕で抱きすくめられ、舌を使った濃密なキスを与えられて、フランセットはそれを受けとること以外なにもできなくなってしまう。
やがて、籠の中のロロがお腹を空かせて「チー!」と鳴いて騒ぎ始めるまで、フランセットは夫からの口づけを受け続けた。
視察と、そのあとに開かれた午餐会を終えてフランセットが王太子宮に戻ってきたのは、午後四時を回った頃だった。
視察は充実した内容だったし、病院関係者の多数集まる午餐会は、専門的な話を聞くことができたので有意義な時間を過ごせた。心地よい疲労感とともに書斎に戻り、万年筆を手にとる。今日の内容を紙にまとめて、メルヴィンに報告するためだ。
紙に筆を走らせたところで、扉がノックされた。家令のジョシュアが客人の来訪を告げる。客の名を聞いて、フランセットは急いで玄関ホールまで出迎えにいった。
「いらっしゃい、レイス。よく来てくれたわね」
「連絡もせずに押しかけてしまってごめんなさい、姉さま」
レイスは申し訳なさそうに頭を下げた。イブニングコート姿の義弟を、フランセットは応接室に通す。
「遠慮せずにいつでも来てくれていいのよ。連絡なんていらないわ。わたしやメルヴィンさまがいないときでも大丈夫。そういうときは、図書室や厩なんかを自由に見て回っていってね」
「ありがとうございます」
椅子に腰かけながら、レイスは嬉しそうに笑う。こうして見ると、ほかの兄弟と同様に顔立ちは父親似だが、優しい笑い方はフィーリアに似ていた。
「今日は、姉さまに渡したいものがあって来たんです。あの、メルヴィン兄さんはこの宮にいますか?」
「メルヴィンさまなら国王宮の会議に出ているわ。秋の大雨の備えに関してのものだそうよ。メルヴィンさまもこの場にいるほうが良かったかしら」
「いえ、そういうわけではないです」
レイスは胸ポケットから小さな布袋をとり出し、フランセットに差し出した。
「どうぞ、姉さま。もしよかったら、これをお使いください」
「これは?」
首を傾げつつ、フランセットは布袋を受けとった。臙脂色のベルベットを用いた巾着袋で、通し紐は金色である。
レイスは真剣な面持ちで言った。
「中に入っているのは睡眠薬です。ごく軽いものなので、飲み慣れていない人も気軽に使えます」
「睡眠薬?」
フランセットは目を丸くした。レイスは、心配そうな表情で肩を落とす。
「姉さまが昨日、寝不足が続いていると言うことをお話ししていて、そのことがすごく気になっていたんです。だから、なんとかお力になれないかと思って。寝不足は体調を崩す原因になりますし、なにより、夜眠れないのはとてもつらいことですから……」
レイスの声には実感がこもっていた。もしかしたら、眠れない夜に苦しんだことが彼にもあったかもしれない。
袋の中身をとり出してみれば、ガラスの小瓶があった。金色の装飾をほどこされた、五センチほどの美しい小瓶である。
中には、薄い水色をした液体が入っていた。
「体に合わないといけないので、少量だけ入れておきました。これで昼寝一回分くらいです。いまから飲んでもらえば、一時間くらいはぐっすり眠れるはずです。それで、気持ち悪くなったり、頭痛がしたりしなければ体に合っているということなので、次はもっとたくさんの量をお渡しします」
「ありがとう、レイス」
レイスの心遣いがとても嬉しい。メルヴィンの言っていたとおり、彼は心根の優しい子だ。
睡眠不足による体調不良は、フィーリアに話を聞いてもらったことによって、だいぶ回復している。しかし、五日間ほど続いた寝不足が昨夜の睡眠だけで完全に改善するわけもなく、今日もいつもより厚化粧をしている。
(お世継ぎのことで落ちこんでいたけれど、フィーリアさまとレイスの母子(おやこ)に救われたわ)
王族の家庭事情に問題は山積みだろうが、彼らの心の奥底にあるものは優しさだ。フランセットはあたたかい気持ちになりながら、てのひらで薬の布袋を包んだ。
この時点でフランセットは、重大なことを失念していた。
いや、失念していたと言ったら語弊がある。ちゃんと知っていたし、身に染みてわかっているつもりだったし、当初は警戒もしていた。
けれど、彼に接するにつれ、なにごとも例外はあると思いこんでしまった。大丈夫だと思ってしまったのだ。だからこそフランセットは、勧められるままに小瓶の薬を飲み干してしまった。
フランセットが、その重大な事実を思い起こしたのは、薬によってもたらされた眠りから覚めたときである。
それはつまり、ウィールライト王国の兄弟王子は、そろいもそろってクセ者ばかりだという事実であった。