馬を駆るメルヴィンに運ばれて、フィーリアとレイスの住む屋敷にフランセットは辿りついた。
事前に連絡を入れていなかったので、突然現れた王太子の姿を見て馬丁はひどく驚いたようだった。慌ててひざまずき、しどろもどろに口上を述べるのをやんわりと止めて、メルヴィンは手綱を彼に預け、屋敷のエントランスへ向かった。
出迎えてくれた老齢の執事は、馬丁のように慌てふためいてはいないものの、やはり驚いている様子である。それでも嬉しそうにしながら、彼は礼儀正しく頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました、王太子殿下。急なご訪問をいただくと、殿下方ご兄弟がお小さかったころ思い出します」
「そうだね、あのころはしょっちゅうアレンを遊びに誘いにきていたから。今日はレイスに会いに来たんだけど、屋敷にいるかな」
出てきた従僕がコートを受けとろうとするのをメルヴィンは断って、執事にそう尋ねた。すると、執事は申し訳なさそうに言う。
「申し訳ございません、レイスさまはただいま乗馬に出ておられまして……。お戻りはお昼過ぎになるかと思われます」
「そうか。レイスは昨日も出かけていたの?」
執事はうなずいた。
「はい、おおせのとおりです。なぜご存知に?」
「レイスは僕に会いたくないんだよ」
ほほ笑みながら言うメルヴィンに、執事はわけがわからないといった様子だ。ポケットの穴から様子を見ていたフランセットの耳に、そのとき澄んだ声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ、メルヴィン殿下。来てくださってとても嬉しいです」
「フィーリアさま」
メルヴィンが、玄関ホールに現れた国王の愛妾の手にキスをする。それからおだやかな声で言った。
「突然の訪問をお許しください。レイスにどうしても話したいことがあったのです」
「まあ、そうだったのですね。この屋敷には、約束のあるなしにかかわらずいつでも遊びにいらしてくださいね。けれどごめんなさい、レイスは朝から遠乗りに出かけてしまったのです。戻るのにあと二時間くらいは掛かってしまうかと思います」
「ご迷惑でなければ、戻ってくるまでここで待たせていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです。客間へどうぞ。お茶のご用意をいたしますね。ところで、今日はフランセットさまはどうされているのですか? 昨日お会いしたとき寝不足だとおっしゃられていたのですが、体調を崩されているのでしょうか」
「そうですね、普通だとは言いきることのできない状態です」
客間のソファに座りながらメルヴィンは言う。フィーリアは、対面に腰を下ろしかけたところで動きを止めた。
「そんなにお悪い病状でいらっしゃるのですか……!?」
「妻のことはひとまず置いておきましょう。フィーリアさまにお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
メルヴィンが静かに問う。メイドがお茶と茶菓子を運んできた。彼女が部屋を辞してから、フィーリアは口を開いた。綺麗な形をしたその瞳に、非難の色が滲むのを見て、フランセットは意外に思った。
物静かなこの女性も、怒りを表に出すことがあるのだ。
「わたしにお答えできることならなんでもお話しします。けれどメルヴィン殿下。奥方さまの体調不良を、ひとまず置いておくとおっしゃるのはいかがかと思います。フランセットさまは寝不足に悩んでおられました。メルヴィン殿下は、奥方さまをもっと労って差し上げる必要があると思われませんか?」
「おっしゃるとおりですね。ご助言、肝に銘じます」
言って、それからメルヴィンは迷うように沈黙した。フランセットは、ポケットの穴からフィーリアを見つめながらハラハラしていた。
こちらを案じてくれるはとても嬉しい。けれど、フランセットの寝不足の理由――世継ぎに関しての悩みを、フィーリアがぽろっと言ってしまわないかを心配したのだ。
幸いなことに、フランセットの心配は取り越し苦労に終わった。メルヴィンが話題をもとに戻したからだ。
「フィーリアさまは、体を小さくする作用のある薬をご存知ですか」
「ええ、もちろん」
意外な話題だったのか、フィーリアは虚を突かれたような表情になる。
「存じ上げております。とても希少な薬だということですが、少量を所持しておりますので……」
「では、その薬の中和薬もお持ちですね。それを僕にくださいませんか」
やわらかな口調だが、いますぐ持ってくるようにという圧力を含んだ声だった。フィーリアは、戸惑うように「持っています」とうなずく。
(これでもとの大きさに戻れるわ)
フランセットは安堵の息をついた。
中和薬をもらったらその場で飲み干したいくらいの気分だが、王太子宮に戻るまで我慢したほうがいいだろう。このまま大きくなってしまったら、人形用のドレスがビリビリに破れて素っ裸の状態になってしまう。
(それに、小さくなってしまった姿をレイスに見せて、自分がしたことをきちんと自覚させたほうがいいわ。どんな理由でわたしに薬を盛ったのかわからないけれど、こういうことをしてはいけないと話さなくては)
その上で、レイスの話をちゃんと聞こう。
フランセットがそう考えていると、フィーリアのほうから心苦しげな声が上がった。
「けれど、ごめんなさい。中和薬はなくしてしまったので、手もとにないのです」
「ええ!?」
思わず声を上げたのはフランセットである。ポケットの中で、慌てて口を押さえたが、フィーリアの耳に届いてしまったようだ。
「あら? いま、フランセットさまのお声が聞こえたような……」
「中和薬をなくされたということでよろしいですね、フィーリアさま」
確認するようにゆっくりとメルヴィンが言った。
その口調に、フランセットは違和感を覚えた。これまでのやわらかな声音とは一線を画していたからだ。まるで、フィーリアを問いつめているかのように聞こえる。
フィーリアもそれを感じとったらしい。フランセットの声が聞こえてきたという不思議な出来事を、すっかり忘れてしまったようだ。
「はい、そうです。すみません……」
フィーリアは小さな声で言った。メルヴィンからの言葉はない。
ひりつくような沈黙ののち、彼は息をついた。
「わかりました。では、ここでレイスを待たせていただきますので、フィーリアさまは僕にかまわずご自由に過ごされてください」
「……はい」
うつむくようにフィーリアはうなずいた。ソファから立ち上がり、「ごゆっくりどうぞ」と悲しげに言って、客間から出ていく。
ポケットの中で、フランセットは途方に暮れていた。頼みのフィーリアが中和薬を持っていないとすると、別のところから手に入れるしかない。希少な薬ということだから、取り寄せるのに何ヶ月も掛かる可能性もあるだろう。
そのあいだずっと、小さな体のままでいなければならないのだ。執務や公務はおろか、晩餐会に出席することもできない。
(こんな無力な状態がずっと続くなんて……!)
自分にとって耐えがたい状況である。アレンの言うとおり、ストレスで病気になってしまうかもしれない。
メルヴィンを見上げてみると、頭痛をこらえているみたいに彼は眉をきつく寄せていた。フランセットは驚く。
「どうしたのですか、メルヴィンさま」
「ああ、ごめん。予測していた以上に困った事態になったと思ってね」
こちらを見下ろしながら、メルヴィンは口もとでほほ笑んだ。
「でも安心して。フランセットはもとの姿に必ず戻すから」
「中和薬はどこかから取り寄せる方向でいくんですか?」
「レイスにも聞いてみようと思う。フィーリアさまにはここで待たせてもらうとお伝えしたけれど、いまからあなたを王太子宮まで送るよ。僕のポケットの中に二時間もいるのはつらいでしょう? エスターに書類仕事を任せておいてあるから、あの子が僕の執務室にいるはずなんだ。エスターといっしょにのんびり過ごしていて」
このときフランセットは直感した。
メルヴィンは、レイスとの話し合いをフランセットに聞かせたくないのだ。
彼をまっすぐに見上げながら、フランセットは首を振った。
「いいえ、待ちます。王太子宮には帰りません」
メルヴィンの瞳が憂いを帯びる。それを見て、彼がフランセットを心配していることに気づいた。
(レイスがわたしに薬を盛った、その理由――)
メルヴィンとレイスが話し合うであろう話題の中に、フランセットを傷つけるなにかがあるのかもしれない。
「僕の言うことを、たまには聞いてくれてもいいでしょう? 護られていてくれれば、それだけで僕はものすごく安心できるんだよ、フランセット」
「わたしも、メルヴィンさまの腕の中に庇われているときはとても安心しますよ。でも、いまはそのときではないと思うんです。だって、レイスは敵ではないでしょう? メルヴィンさまの、そしてわたしの弟ですもの」
メルヴィンは顔をしかめた。
「嫌なところを突いてくるなぁ」
「メルヴィンさまの、そういう素直なところが好きですよ」
「はいはい。じゃあ二人で仲良くレイスを待とうか」
あきらめたようにメルヴィンは苦笑する。ポケットの中から、フランセットもほほ笑みを返した。