レイスが帰宅したのはそれから二時間半が経った頃だった。昼の一時近くである。
玄関に入る前に、兄の来訪を伝えられていたようだ。乗馬服姿のまま足早にレイスは客間に現れた。
「お待たせして申し訳ありません、兄さん」
「おかえり、レイス。遠乗りは楽しかったかい?」
メルヴィンは、ソファに腰掛けたままレイスを振り向いて、やわらかい声で言った。レイスはコートを脱いで従僕に手渡し、その者を下がらせる。
「はい。今日は気持ちのいい天気で、雨が降らなさそうだったので、昼食を持参してのんびり過ごしてきました。兄さんはお腹が減っていませんか?」
「十二時くらいにご馳走になったから大丈夫だよ。ここの料理長は腕がいいね」
レイスは、テーブルを挟んだ正面に腰を下ろす。ポケットの穴から覗き見る限り、レイスの表情に焦りや罪悪感は見受けられない。
(自分の与えた薬のせいで、わたしの体が小さくなってしまったことを、レイスは知っているはずなのだけど……)
普段どおりの様子でいるレイスを見ていると、彼が故意に薬を盛ったという考えが間違いだったのではないかとすら思えてくる。レイスがしたことではなくて、犯人は別にいるのではないかと感じるのだ。
しかしフランセットは、気合いを入れるように手を握りこんだ。
(騙されてはだめよ、フランセット。証拠はそろっているのだから、犯人はレイスに間違いないわ)
ウィールライトの兄弟王子は全員クセ者である。この事実を、フランセットはいっときも忘れてはならないのだ。
兄のポケットの中に義姉が潜んでいるとは夢にも思っていないような顔で、レイスは嬉しそうに言う。
「最近は兄さんとたくさん会えますね。いつもお忙しそうにしているから、こういう機会が少なくてさびしかったんです。アレン兄さんとはしょっちゅう会えるけれど、メルヴィン兄さんとエスター兄さんとはめっきり会えなくなってしまって……、小さい頃は毎日のように遊んでいたのに」
「あの頃は執務がほとんどなかったからね。その代わり、勉強ばかりさせられていたけれど」
「兄さんたちは優秀だったから、余裕だったでしょう? 僕とアレン兄さんも父さんから家庭教師をつけられていたけれど、しょっちゅうサボってばかりだったんだ。アレン兄さんが、宿題のごまかしの達人だったからね」
「おまえたちにつけられていた家庭教師は、鞭を持っていなかっただろう? だから逃げきることができたんだよ」
メルヴィンはくすくすと笑う。それから、同じ語調で続けた。
「父上にとって、アレンとレイスはフィーリアさまとのあいだにできた子だ。父上は、ことのほかおまえたちに甘くていらっしゃる。そのことを、おまえはきちんと自覚していなければならないよ」
レイスの目が見開かれた。ポケットの中で、フランセットは息を呑む。
「おまえがどんなに目を背けたくても、ご自身の子として国王陛下に認知されている以上、おまえはこの国の王子だ。王族の行動には、そのほかの者たちの何倍もの責任がつきまとう。いま着ている服も、食事も、遠乗り用の馬も、たくさんの使用人も、おまえが王子だから与えられているものだ。質問をしようか、レイス。それを受けとるに値するだけの王族の責務とは?」
レイスは表情を消していた。いっさいの感情を排した漆黒の瞳で兄を見つめ、答える。
「わかりません」
その回答のまずさに、レイスは自分でもちゃんと気づいているだろう。メルヴィンの感情を逆撫でする答えをわざと言ったのだと、フランセットは悟った。彼は兄を挑発したのだ。
けれどメルヴィンは、ここで感情を荒げるような人間ではない。短く言葉を返した。
「その答えでは不充分だ」
「王族の責務はわかりません。けれど、国王の妾の子としての立場ならわかっています。身の置き方、振る舞い方、ふさわしい言動、そのすべてを理解しています。――教わりましたから」
レイスは笑みを滲ませた。
「体の芯まで染みつくほどに、教えこまれましたから。民に、使用人に、紳士に、貴婦人に、そして王妃殿下に。だから王族としての振る舞いなどわかりません。そう振る舞ったら嘲笑を受けるだけだ。父さんが僕を愛するのは、僕が母さんの息子だからです。与えられたものを僕が受けとるのは、母さんのためです。乗馬服を破り捨て、屋敷を燃やし尽くしてしまわないのは、母さんのためです。僕は、父さんが嫌いです」
「レイス」
メルヴィンは静かに言った。フランセットは、ポケットの中で指ひとつ動かせないでいる。
「おまえはいつまで、フィーリアさまの胸に抱かれる幼な子でいる気だ?」
「――――」
レイスの笑みが冷気を帯びる。フランセットがもし通常の大きさであったなら、いますぐメルヴィンの口を手で塞いでいただろう。
いくらなんでも、言い過ぎだ。メルヴィンを止めるために声を上げかけたとき、静かな声でレイスが言った。
「兄さんには、僕たちの気持ちは一生わからないよ」
「僕はおまえたちを愛しているよ」
その言葉を聞いて、フランセットは声を詰まらせた。
彼の想いにふれるたびに、思う。メルヴィンの示す愛情には底がない。
なんて愛しげに告げるんだろう。
「アレンも、レイスも、僕の大切な弟だ。おまえたちを傷つける者を放置しておくつもりは毛頭ない。おまえがなにを恥じることなく立てるように力を尽くすと約束する」
「そうだね、兄さんならきっとそうしてくれる。これから社交界に出ようとしている僕を庇ってくれる。アレン兄さんにしているのと同じように。けれどもう遅いよ。だって兄さんは、小さい頃、王妃殿下の言いなりだったじゃないか。王妃殿下から僕らを守ってくれなかったじゃないか」
メルヴィンの体がこわばるのがわかった。服越しに、乱れる鼓動が伝わってくる。
「すまない、レイス。僕は――」
「今日はそんな話をしにきたわけじゃないですよね?」
メルヴィンの言葉を遮るように、レイスは言った。彼は、兄からの謝罪を聞きたくないのだ。
レイスの瞳の奥に、苦痛が揺れているのをフランセットは見た。メルヴィンを断罪する言葉を放ってしまった自分を、悔いているのかもしれない。
(まだ、十五歳――)
きっと、自分の感情の御し方がまだわからないのだ。
「フランセットさまは王太子妃として素晴らしいお方だ。責任感が強く、自らを律することに長け、妃としての仕事をまっとうしようとしていらっしゃる。だからこそ、フランセットさまと王妃殿下が、僕にはどうしても重なって見えるのです」
フランセットは虚を突かれた。
自分とリヴィエラ王妃が似ているだなんて、思いもしなかったことだからだ。
「僕は、兄さんがどんなふうに人を愛するのか知っています。だからこそ、兄さんがとても危ういところにいるように、僕には見えるんです」
「つまりは、こういうことか?」
低い声でメルヴィンが言った。
「おまえは、フランセットのことが気に入らなかったから薬を盛ったということなのか」
「兄さんは知らないかもしれないけれど、フランセットさまは母さんに――」
「僕がどんなふうに人を愛するのか、おまえは知っているんだろう?」
メルヴィンの声が笑みを孕んだ。その冷たさにフランセットはぞくりとする。
「フランセットは僕の妻だ。彼女を害する行為は、たとえ弟がしたことであっても許さない。それをわかった上でしたことだと理解しよう」
「そうです。僕はちゃんとわかっています。それでも」
レイスは、気圧されたかのように青ざめながらも声を絞り出した。
「それでも僕は、許せなかったんだ」
「いい覚悟だね、レイス。おまえの甘ったれた胸の内をすべて吐いてもらおうか。幼い頃から目隠しをしたままでいる四男坊を、性根から叩き直して――」
「ちょっと待ってください」
兄弟の会話を止めたのはフランセットだった。
もうこれ以上黙っていられない。ポケットの上縁を両手でつかんで、懸垂運動よろしくフランセットは体を引き上げた。
ポケットから顔を出すと、レイスはびっくりした顔で固まった。