25 雨の効用

 フランセットたちが王太子宮に戻ってきたのは午後二時過ぎだった。
 午前中までは晴れていた空が、すっかり灰色になっている。いまにも雨が降りそうだ。

 そして、どんよりとした天気と同じく、フランセットの気持ちは沈みきっていた。夫婦の寝室の上に座った状態でため息をつく。

「レイスがわたしのことを嫌ってしまった理由を、結局教えてもらえなかったわ……」

 扉のほうでは、メルヴィンが侍従と話をしていた。フランセットの体調が引き続き思わしくないため、公務をしばらく休ませると告げている。

 フランセットがこれまで受け持ってきた仕事は、メルヴィンを中心に、エスターとアレンなどの人材に割り振っていくようだ。負担を掛けてしまうのが申し訳なくて、フランセットは二重に落ちこんでいた。

(中和薬をレイスに持ってきてもらうという形をとることによって、あの子に考える時間を設けたのだけれど……。薬はたぶん、あの子が隠し持っているのだと思うし)

 レイス自身が自分の感情を持て余しているようだったから、冷静になったほうがあの子のためになると考えたのだ。

 後悔はまったくしていないし、最善の策だとも思っている。けれど結果的に、フランセットは自分で自分の首を絞めるハメになってしまった。

「フランセット、大丈夫?」

 気づけばメルヴィンが、侍従とのやりとりを終えて近くに来ていた。ベッドの上にあぐらをかいて、フランセットを覗きこむ。

「今日は疲れたよね。顔色もまだ悪いようだし……。頭痛くなってない? 髪飾りをとるから、そのまま動かないでね」

 頭の後ろで留めていた髪飾りをメルヴィンが器用に外してくれた。頭が軽くなって、ほっと息をつく。

「小さめの器にお湯を張って持ってくるよ。お風呂にゆっくり浸かって、それから宝石箱のベッドでしばらく休んでいて」

「いえ、お風呂は夜でいいです。いまはあんまり休めるような心境じゃなくて」

「レイスのことで悩ませてしまってごめん。あの子のためを考えてくれてありがとう、フランセット」

 メルヴィンの指先が、フランセットの髪を優しく撫でる。

「兄として、あなたには感謝の気持ちでいっぱいだよ。ただ、夫としてはあなたの状態がすごく気がかりだ。フランセットは気づいているかもしれないけれど、僕はいますぐにでも馬を駆ってレイスの屋敷に行き、中和薬のありかを知っているであろう人物を、思いきり問いただしたい欲求と戦っているよ」

「そう思ってくれているのはありがたいですけれど、実際にやったらだめですよ」

 フランセットは力なく笑った。

「それに、中和薬のありかを知っている人がだれなのか、いまのところわからないじゃないですか。レイスとフィーリアさま、両方が『知らない』と言っているのですから。十中八九、レイスが持っていると思いますけどね」

「……。そうだね」

「こうなってしまった以上、いまは手乗りサイズの自分を楽しむことにします。だって、人生に一度あるかないか、というくらい希少な事態ですからね。ウィールライト王太子の胸ポケットに入った人間は、後にも先にもわたしくらいですよ」

 フランセットが明るく言うと、メルヴィンは瞳をゆるませた。

「あなたのそういうところが大好きだし、尊敬しているよ。でも、フランセットは苦手なことかもしれないけれど、僕には弱音でもなんでも話して。聞きたいし、知りたいんだ。たとえば、レイスのあなたに対する感情に関しては、あなたにはなんの落ち度もない。フランセットが悩む必要は少しもないし、むしろ、レイスに腹を立てる資格が充分にあるくらいだよ」

「そうだといいんですけれど」

 フランセットはほほ笑んだ。メルヴィンの気持ちが嬉しかった。
 彼の指が、フランセットの頬を撫でる。

「そうだよ。僕も怒ろうと思っていたんだ。不完全燃焼に終わってしまったけれどね」

「充分すぎるほど怒っていましたよ。あれ以上はだめです」

「難しいよ。弟は大切だけれど、でも、フランセットが傷ついてしまった」

 メルヴィンの瞳に痛みが滲む。

「ごめん、フランセット。僕らはまだ、過去の沼底から抜け出せずに、醜い感情を晒してしまう。あなたは、そういう場所とはまったく無関係の、綺麗なところで生きてきたのに、気づいたら巻きこんでしまっている。それがものすごく歯がゆいし、情けないと思ってる」

「どんどん巻きこんでしまってください。そうでないと、自分から巻きこまれに行きますよ」

 フランセットは、優しい指先に頬をすり寄せた。

「それも怖いな」

「でしょう? ――あら、雨だわ」

 窓を叩く音がかすかに聞こえた。ベッドの足もとの籠にいるロロが、鼻をひくつかせる。
 外に目をやりつつ、メルヴィンは言った。

「雲が分厚いね。雨脚が強くなるかもしれない。あなたにとって水たまりは大きな湖のようなものだから、外に出るときは気をつけないといけないな」

「悲しいことに、この姿である以上外に出なくてはならない用事というものはできなさそうですけれどね」

 言って、フランセットは体の表面がなぜかかゆくなるのを感じた。
 虫刺されのときのかゆさではなく、チリチリと炙られるような感覚だ。しかも、内側から。

「なにかしら」

「どうしたの、フランセット」

 窓から目を離して、メルヴィンがこちらを見下ろしたそのときである。
 ぽん、と風船が弾けるような音がして、次の瞬間には、フランセットは目を丸くしてベッドに座りこんでいた。

 メルヴィンも同じく、びっくりしたような顔をしている。なぜなら、フランセットが突然全裸になってしまったからだ。

(ど、どうして全裸なのよ。すぐに服を用意して――いえ、それだと間に合わないから、上掛けを体に巻きつけて……、いえ、違うわ。論点はそこじゃないわ。混乱してはだめよ、フランセット)

 フランセットは心を落ち着けて、自分の状態を確認した。次いで、ベッド回りを見渡す。

 海みたいに広かったシーツが、狭くなっている。丘のように見えていた枕が、首の高さにほどよくフィットする高さになっている。
 そしてなにより、思いきり見上げて首を痛くしなくても、メルヴィンと目を合わせることができる。

 フランセットは、しゃがみこんだ状態のままつぶやいた。

「戻った……?」

「戻ったね……」

 メルヴィンも、茫然としつつ言った。それから二人同時に大きく安堵の息をつく。

「よかったです……」

「うん、本当によかったね、フランセット」

 シーツの上に、布切れが散らばっている。フランセットがさっきまで着ていた、人形用のドレスだろう。エスターとその友人に申し訳ないことをしてしまった。同じ物を買い直そうとフランセットは思った。

「それにしても、どうして突然もとに戻れたんでしょうね。薬の効果が切れたということかしら。こんなに早く切れるのなら、中和薬をもらいにいかなくても大丈夫でしたね」

「うーん。でも、おかしいな」

 メルヴィンは難しい顔をした。

「体が小さくなる薬は、効果が五年持続すると言われているんだ。だから中和薬と必ずセットで保管しておくことという注意事項があるくらいなんだよ」

「効果を薄めた型の薬だったのかしら」

 メルヴィンは窓の外をふたたび見た。窓ガラスを雨が叩いている。室内が薄暗くなってきたので、燭台に火をつけたほうがいいかもしれない。

「……そうか」

 ややあって、メルヴィンが言った。フランセットは首をかしげる。

「心当たりがあるのですか?」

「つまりこういうことだと思う。雨の日に、鳥は遠くへ飛べない」

「へっ?」

 まったく違う話題を夫が突然口にしたものだから、フランセットはまばたきをした。

「雨の日に……。まあ、そうですね。羽根が濡れてしまうから、遠くは行けないですよね」

「だからだよ、フランセット。この薬は、雨が降ると一時的に効果が切れるようになっているんだと思う。そうか、そういうことか。盲点だったな」

「よくわからないのですが、じゃあ、雨がやんだら手乗りサイズに戻ってしまうということですか?」

 おそるおそる聞いてみたら、メルヴィンは残念そうに言った。

「うん、たぶんそうなってしまうと思うよ」

「そうなのですか……そう簡単にうまく行くとは思っていなかったですけれど。この雨はいつまで降るのかしら」

 肩を落とすフランセットの腰を、メルヴィンはなぐさめるように優しく抱き寄せてきた。

「この分だと、明日の朝までは降り続くんじゃないかな」

「それなら、今夜のうちにやるべき仕事をやっておかないといけないわ。体調不良で伏せっているという設定なのだから、ここで書類仕事を終わらせることが最善ね。メルヴィンさま、申し訳ないのですが、わたしの書斎から未処理の書類を持ってきてもらってもいいですか?」

「もちろんだよ、フランセット。こんなときでも仕事を忘れないあなたは、とっても素敵だね」

 言いながら、しかしメルヴィンの手が怪しい動きをし始めたので、フランセットは体をこわばらせた。腰を抱き寄せていた彼の手が、体のラインを辿っている。

 そういえば、いま自分は全裸の状態である。
 いまさらながらに自覚して、フランセットはいっきに顔を赤らめた。

「め、メルヴィンさま。そこの上掛けを取ってください。わたし、裸でした」

「うん、裸だね。知ってるよ。すごく綺麗だ」

「!?」

 もう片方の手で乳房を覆われて、フランセットは目を見開いた。