27 アレットの悩み

 朝の光がまぶたにふれて、フランセットはゆっくりと目を開いた。
 薄い上掛けとメルヴィンの腕が裸身に絡みついている。目の前の固そうな胸板は、おだやかな眠りの中にいることを示すようにゆっくりと呼吸していた。

 フランセットはぼうっとした頭で考える。そして、昨日の自堕落な過ごし方をぼんやりと思い出して、肩を落とした。

(いくらもとの姿に戻れたとはいえ、仕事もせずに情事に耽ってしまうなんて、いけないことだわ……!)

 一度目の交わりののち、モーニングコートをすべて脱ぎ去ったメルヴィンに、またもや体をつなげられてしまった。しなやかな筋肉の隆起する体に組み敷かれると、いけないと思っても、フランセットの胸はドキドキしてしまうのだ。

(あの体はずるいわ。体だけじゃなく、メルヴィンさまはお顔も凶器なんだもの)

 メルヴィンは、痩せてしまったフランセットを心配していたので、夕食の時間はベッドの上から解放してもらえた。部屋に運んでもらって食べた夕食は、栄養たっぷりで消化にいいメニューで、しかもフランセットの好物ばかりだった。もとに戻った体で食べる美味しい食事に、フランセットはただただ感激したものだ。

 お腹いっぱいになるまでたくさん食べたフランセットを見て、メルヴィンも満足そうだった。その後も雨がやむ様子はなく、「食後の軽い運動」と称してバスルームでもさんざん愛され、夜間のベッドの上でも求められた末の寝落ちであった。

 フランセットは、彼の腕の中で身をよじり、窓の外を見た。雲のあいだから日が射しているものの、雨はしとしとと降り続いている。

「今日の昼くらいにはやむかしら。それまでに、書類をやっておかなくちゃ」

 昨日は何度も体を求められたわけだが、例によって疲れは残っていない。ベッドから上体を起こそうとしたら、メルヴィンの腕に力がこもって背中からすっぽりと抱きしめられてしまった。

「おはよう、フランセット」

 頭にくちびるを押し当てつつ、メルヴィンは甘い声でそう言った。いつのまに起きていたのだろう。フランセットは、体に巻きつく彼の腕に手をやりながら言った。

「おはようございます、メルヴィンさま。わたしは起きて仕事をするので、離してもらえませんか」

「フランセットは真面目だなぁ。まだ朝の六時じゃないか。もう少しのんびりしようよ」

「だめです。昨日は閨事に耽ってしまったので、今日はばっちり働きます。雨が止むまで執務室に詰める予定です」

「つまり、今日はあなたを抱かせてくれないということなの、フランセット」

 メルヴィンは悲しげに言う。昨日あれだけしておいてもまだ足りないようだ。フランセットは頬を赤らめた。

 二日連続で情事に耽りきるのは言語道断である。でも大好きな夫から求められるのは、やっぱり嬉しいのだ。

(あんなにたくさん……メルヴィンさまの精を体に注がれたのだから、お世継ぎができていても、おかしくないわよね)

 期待しつつも、これまでの経験上、そうではない可能性のほうが高いとフランセットは思う。焦ってもどうにもならないことなので、精神的に余裕を持たなければならないと己に言い聞かせた。

 フランセットの体に両腕を巻きつけたまま、メルヴィンは窓の外を見やる。

「まだやみそうにないね。今日も一日降り続けるのかな」

「そうであることを願いたいですけれどね」

「朝ごはんを食べたら書類仕事に取りかかるんでしょう?。僕の書斎を使いなよ。僕も今日は家の中でする仕事しか入れていなかったんだ。一緒にやろう」

「はい、わかりました。でも仕事のあいだは、その……いやらしいことをしたらだめですよ」

 フランセットは釘を刺した。メルヴィンは、「うん、努力するね」と言ってニコニコしている。上機嫌のようだ。

 それからお互いドレスとスーツに着替え、朝食室で食事をとった。

 寝室を出るときに、例によって、とってもさびしげな声でロロが「チー……」と鳴いたので、フランセットはたまらなくなり、メルヴィンの許可をとってからロロを朝食室へ連れていった。ロロは嬉しそうにフランセットの肩に乗り、いっしょに朝食室まで移動して、そこで草や木のみなどの朝食を食べていた。

 家令のジョシュアが来客を告げに来たのは、そんなときであった。。

「アレットが来ているの?」

 フランセットはびっくりした。

 いとこであり悪友でもあるアレット・グリムは、妊娠四ヶ月目のお腹を抱え、都内の屋敷で妊婦生活を満喫しているはずである。約束もなしに現れるような、急を要することが発生したのだろうか。

 フランセットは、ロロを肩に乗せつつ慌てて玄関ホールにアレットを出迎えに行った。メルヴィンには予定どおり書斎に行ってもらうよう言ったのだが、「気になるから」と言って彼はついてきた。

 玄関ホールに佇むアレットはを見て、フランセットは目を見張った。一週間前には幸せそうな雰囲気をこれでもかというほど放っていた彼女が、いまは憔悴しきっていて、妊婦だというのに頬がこけて痩せてしまっていたからだ。

「いったいどうしたの、アレット」

「ああ、フランセット。突然訪ねてごめんなさい。でも、あんたしか頼れる人がいないの」

 念願叶って子を授かり、優しい夫と頼りがいのある姑に守られて、フランセットの用意した快適な屋敷で、心安らかに過ごしているとばかり思っていた。

 よろめくようにしてフランセットに縋りついてきたアレットは、目に涙を溜めている。脳裏に、彼女のお腹の子についての最悪な予測がよぎってフランセットは戦慄した。
 彼女をしっかりと抱き支えて視線を合わせる。

「話を聞くわ。応接室に行きましょう」

 雨は、やむどころかいっそう激しくなっていた。

 まだ午前中だというのに、夕方のような薄暗さである。そのおかげで暑くはないが、窓を閉め切っているのでじめじめした不快感があった。

 応接室の長椅子に、フランセットはアレットと横並びに腰かけていた。そして、背を丸めて泣いているアレットの肩に手を置き、彼女を慰めていた。ロロは肩からソファに下りて、心配そうにフランセットを見上げている。

 アレットは、訪ねてきた理由を言う前に泣き崩れてしまったので、フランセットは彼女の感情が落ち着くのを静かに待った。メルヴィンには応接室に入るのを遠慮してもらったが、廊下か近くの部屋にもしかしたら待機しているのかもしれない。

 やがてアレットの嗚咽が小さくなり、泣き腫らした目を上げて彼女はフランセットを見た。

「ありがとう、フランセット。落ち着いてきたわ」

「泣きたいときは一気に泣くのがいちばんよ。大人になるとそれがなかなかできなくなるから歯がゆいわよね」

 ほほ笑みながら、アレットの背をフランセットは撫でる。アレットはもう一度「ありがとう」と礼を言った。

「フランセットも王太子殿下も困るわよね。いとこがいきなり訪ねてきて、理由も告げずに号泣するだなんて、理解を超えた事態だと思うもの。殿下にもあとで謝罪させていただきたいわ。それと、号泣の理由は子どもの身になにかがあったということではないの。まずはそれを伝えておくわ」

 フランセットは心底安堵した。

「よかった。実を言うと、あんたの憔悴した様子を見たときに、真っ先にそのことを考えてしまったのよ」

「ややこしくしてごめんなさい。でも、家族とのあいだに絶望が生まれたという意味合いにおいては間違ってはいないと思うわ。フランセットにお願いがあるの。しばらくのあいだ、わたしをこの宮に置いてくれないかしら」

 通常の状態のフランセットであれば、弱っているいとこの願いを一も二もなく受け入れただろう。その上で、彼女の悩みを聞き出して、優しい夫のもとに彼女が戻れるように、心を尽くしたに違いない。

 けれど間の悪いことに、フランセットはいま、通常の状態ではなかった。なにしろ雨がやんでしまったら、手乗りサイズに縮んでしまうという大きな問題を抱えている真っ最中だったからだ。

「アレット、聞いてちょうだい。あなたの望みはもちろん叶えたい気持ちでいっぱいよ。この宮には、来客用の部屋がいくつもあるもの。医師も常駐しているから、妊娠している状態であっても問題はないわ。けれどまずは、アレットがどうしてそこまで追い詰められているのかの理由を聞かせてもらえる? すべての話はそこからよ」

 精神的に不安定な状態になるときが、妊婦には多いと聞く。すぐに解決できるような問題に、アレットがこだわり続けている可能性があった。

 もしそうであれば、解決策を実行することで速やかに解決することができるかもしれない。雨がなりやむ前に、夫のもとにアレットが戻るのが理想だった。

 しかし、にっちもさっちもいかないような問題にアレットがぶち当たっていたとしたら話は別だ。腰を据えて取り組まなければならない可能性もあるので、そのときは、手乗りサイズの自分をアレットに見せなければならないことも覚悟しなければならないだろう。

「理由……そうね。本当は、この宮に泊めてもらうことよりも、あんたに話を聞いてほしかったの。その場限りの慰めをしないのは、わたしの友人ではフランセット、あんただけだもの」

「そういう意味で言えば、わたしにとっての友人もアレットだけよ」

 フランセットは、メイドに用意してもらったティーカップをアレットに差し出した。紅茶やハーブティーを妊婦に飲ませたらいけないという知識はあったので、白湯にしている。
 しかしアレットは、申し訳なさそうに首を振った。

「ごめんなさい。いまは体が受け付けないの」

「けれど、水分だけはちゃんととったほうがいいわ」

 心配するフランセットに、アレットは自嘲の笑みを浮かべた。。

「ごめんなさい。こんな風に騒いだにもかかわらず、家を飛び出した理由はとても一般的なことなの。わたしはいま、夫と義母と暮らしているでしょう? お義母さまと昨夜口論になって、それがさっきまで続いて……もう耐えられなくなったのよ」

「確かに一般的な理由ね。でも、だからこそ皆が深く悩み苦しむ問題なのではないかしら。いったいどんなことで口論をしたの?」

「あなたとお茶をしたときまでは、わたしにつわりはなかったの。でも、あれからすぐに食べ物を受けつけなくなって、お茶すらもどすようになってしまって……。どんどん体重も減って、疲れ果ててしまったのよ」

 アレットの憔悴した様子は心労だけでなく、つわりも原因だったようだ。

「わたしがベッドで寝ていることを、夫は許してくれたわ。甲斐甲斐しく世話をしてくれてもいたの。でも、お義母さまは違ったの。いつまでも寝ていたらだめと言うの。妊娠は病気じゃない、体を動かせと言うのよ。わたしはつらくなって、言い返して……それで口論になったの」

「言い返したくなる気持ち、わかるわ。そうしたらお義母さまはなんておっしゃったの?」

「それがひどいのよ。少しずつでも体を動かさないと筋肉が落ちるから、お産が大変になるって言うの。一日中寝ているような生活をしていたら難産になってしまうわよって。こんなにも体がつらいのに――、この宮へも、這うようにして来たのに、脅すようなことを言うなんてひどいわ。初めての子で、お産がとても怖いのに」

 アレットの瞳から涙がまたこぼれた。フランセットは彼女にハンカチを手渡す。

「そうよね、初めてのことだもの。怖いわよね……。そのときご主人はどうされていたの?」

 ハンカチで涙をぬぐっていたアレットの体が、硬くこわばった。それからまた、ぼろぼろと泣き始める。

「わたしの味方を、してくれなかったわ。あの人はお義母さまのほうについたのよ。『動いたほうがお産が楽になると僕も聞いたよ』と言ったの。わたしは、いまがつらくてお産が怖いのに、あの母子(おやこ)は、いま動かないと難産になると言うのよ。こんなにもひどい脅しを受けたのは、人生で生まれて初めてだわ」

 フランセットは妊娠をしたことがないので、妊婦のつわりがどれほど苦しいものなのか実感として知らない。けれど、健康的だったアレットが、十日ほどでこれだけ痩せてしまうくらい、過酷なものなのだということはわかった。

 客観的に聞くと、義母の言うことも一理ある。お産は体力勝負だとも聞くから、痩せ衰えた体で乗り越えられるものではないかもしれない。難産になれば最悪、命にかかわる。少しでも体を動かして、 筋力と体力の低下を止めたほうがいいのではないかと心配する気持ちはわからないでもない。ただ、つわりに苦しむ初産婦への配慮に欠けていたのは確かだ。

 しかしアレットは、嫁いだ立場だからといって義母に遠慮するような性格ではない。だからこそ義母に言い返して、口論に発展したのだろう。家に従順な嫁ならば、涙を飲んで従い、ストレスを溜めまくっていたかもしれないが、アレットは違う。

(お義母さまのことを腹立たしいと感じたら、すぐさま言い返す子だもの。だから、お義母さまに怒りを感じているとはいえ、家を飛び出すほどのストレスを受けたというわけではないと思うわ。だから、これはつまり――)

 夫が自分の味方をしてくれなかった。
 いまのつらい状況を、そしてお産への恐怖心を、わかってくれなかった。

 このふたつの理由に尽きるだろう。